太陽も沈んで数時間のとっぷり暮れた夜空の下。商店街はここぞとばかりに煌々と光を放っている。
その電灯の明かりに引き寄せられるように早足で歩く亜美と真美の後ろを、私は古巣を共にした彼と歩いていた。
仕事を終えた帰り、事務所に車を置いてわざわざ徒歩で四人まとまっているのには理由がある。
向かっている先は、今では親会社となった765プロダクションの近く。裏通りにある小さなお好み焼きの店だ。
庶民的という形容がぴったりで、狭くてちょっと暑い。うっすら黄ばんだ手書きのお品書きがその年月を物語るような店。
今では社長を務める彼がまだ私のプロデューサーだった頃、仕事帰りに二人でよく食べに来た。
時には反省会に、時には祝勝会に。その時の私達のムードがその日の仕事を反映していた。
仕事上高級なレストランへ足を運ぶことも増えた今でも、ここは私と彼の思い出の詰まった馴染みの空間なのだ。
このところでは、765プロダクションから移って来た双海姉妹も時々足を運ぶ。
765プロが居酒屋の上の階にあった頃を知っている彼女達も、この店の雰囲気には懐かしさを感じる所があるようだ。
未成年の二人が実際に入ったことは無いはずだが、その外観と雰囲気を見ると事務所が大きくなる前を思い出すらしい。
「ね、ここを歩いてるってことはあそこに行くんだよね」
15歳になり、背も伸びて声も大人っぽくなっても相変わらず破天荒な亜美が、浮き立った口調で今にも踊り出しそうだ。
その脇を、明るさはそのままに少しずつ落ち着きの出てきた真美が寄り添うように歩いている。
私達が立ち上げた今の事務所に移って来てからは、真美も表舞台に立つようになった。
亜美の代わりではなく双海真美として脚光を浴びている彼女は、亜美に負けず輝いている。
双子ならではのパフォーマンスもあり非常に受けはよく、少数で切り盛りする事務所の大きな支えになってくれている。
765プロと協力して仕事をする機会も多く、私と彼が巣立った後も他のアイドル達とは親しくやっている。
「今日のロケであんなに動いてたっていうのに、全く亜美は元気だな」
なんだかんだで一丁前に社長を務めている、私の元プロデューサーが苦笑した。「そうですね」と私も相槌を打つ。
やがて目的地に辿り着いた。薄汚れた白い暖簾に男らしい「おとん」の字。昔から変わっていない。
たてつけの悪い引き戸をゴトゴト言わせながら真美が開け、
「さ、今日の主役からどーぞ」
私達を先に店の中へ入れてくれた。
懐かしい油の匂いと、何かが焼ける香ばしい空気が漂ってきた。
「おー、律ちゃんに双子ちゃんじゃねーか! 元気してるかい」
店に入るなり、人里に潜り込んだ熊のような、ずんぐりした店主が威勢のいい声を張り上げて出迎えてくれた。
売れないアイドルだった頃を知っているこの店の人たちにとっては、私達は芸能人である以前にここの常連客。
「おうよ、みんな元気だぜぃおっちゃん」と、すぐさま亜美が野太い声を真似て見栄を切り、ずかずか寄ってハイタッチした。
イキのいい嬢ちゃんだと店主はガハガハ笑いながら、社長の方を見た。
「あの時の頼りねぇ兄ちゃんが今は社長さん……か。塞翁が馬ってヤツだな」
「経営にも慣れてきましたが、未だにそれは思いますね、ははっ」
「席はあっちに用意してあるよ。アンタがたには馴染みの場所だろ?」
大木の枝を思わせる太い腕から伸びるごつごつした指が、店の隅にある座敷の席を指していた。
案内されるままに履物を脱ぎ四人でその席に座ると、亜美と真美がバッグから色紙を取り出してペンを走らせ始めた。
「先に何頼むか決めようよ」
諭すように言う彼。
「食べ物は兄ちゃんと律ちゃんに任せるよ。あ、亜美はオレンジジュースね。真美は?」
「そだねー……真美もそれでいいや」
視線を宙に浮かせて数秒、二人は飲み物のオーダーだけ決めるとサインの続きを書き始めた。
こっちに書こう、あっちに書こうと、同じ顔を突き合わせてきゃっきゃと楽しそうだ。
そんな二人を見ながら彼は薄く黄ばんだお品書きを手に取り、私にも見えるように広げてくれた。
飲み物の名前がずらずら並んでいるスペースの中から生ビールを指差し、私に目配せした。
「飲んでいいか」と目で尋ねる彼に「こんな時ですからね」と、私は首を縦に振って答える。
成人して更に一年。私もお酒は飲めるのだけれども、とりあえずはウーロン茶を飲むことにした。
一通りの注文を決めて店員を呼ぶと、店主の奥さんが目元にいっぱい皺を作りながら私達の席に来てくれた。
「姉ちゃん、この色紙仕上がったらお店にあげるね」
「まぁ、姉ちゃんだなんてお上手ねぇ亜美ちゃんは」
などと、男みたいなことを言ってケラケラ亜美は笑う。
私達の注文を受けて奥さんが向こうへ引っ込んでいくと、サインを書き終えた真美から色紙を手渡された。
左下には亜美のサイン、それと左右対称なデザインの真美のサインが右下に書き込んである。
『おとん様江』と書き入れる仕事はどうやら残してくれているらしい。
すっかり手に馴染んだサインをさらさらとやっているのを、社長が左隣から覗き見ていた。
やがて飲み物がテーブルへ到着し、待ってましたとばかりに彼がビールのなみなみ注がれたジョッキを手に取った。
続いて亜美と真美がオレンジジュースの瓶、最後に私がグラスを手に取ると、「音頭は律子な」と彼が促した。
咳払いを一つ。
「えー、本日、わたくし『秋月律子』はデビュー三周年を迎えることとなりました。プロデューサーに転向してしばらく経ち
ますが、時々はテレビにも出ていることだし、これからも頑張りたいと思います。それじゃあみなさん……」
乾杯、の綺麗なハーモニーと、ガラスのぶつかり合う音が、小さなお好み焼き屋の片隅に響き渡った。
そう、今日は、アイドルとしての私のデビューが決まった記念日なのだ。
新しい出会いが山のように押し寄せ、冴えない私に素敵な魔法がかかり、人生がガラッと変わった日。
三年前の今日、765プロダクションの事務を手伝っていた私に、一人の男性が声をかけてきた。
細身で背が高く、緊張感の無い表情が私には頼りなさやだらしなさを連想させた。
聞けば、高木社長からの指示で今日から『秋月律子』のプロデューサーになると彼は語った。
アイドル候補生の名簿には名前だけの登録のつもりだっただけに、私がアイドルデビューすることになるとは全くの予想外。
私のプロデューサーになる男が目の前にいる、と自覚した瞬間には、彼を品定めし始めていた。
「それにあなた、だらしなさそう。ホントにプロデュース業なんて務まるんですか?」
などと、初対面にもかかわらず随分毒を吐いてしまったものだ。
人気が出てきてプレッシャーが高まるにつれて、私はどんどん彼に寄りかかるようになっていったのだが。
気が付けば、彼はすっかり頼もしい存在になっていて……彼無しで仕事をすることを到底考えられなくなっていた。
「いやー、あの頃の律子はおっかなかったなぁ。仕事も知らないことばっかりだったし、胃に穴が空きそうだったよ」
三年前に出会った彼が、左隣でジョッキを傾けながらしみじみと語る。
「分かる分かる」とぶんぶん首を振って亜美が頷くが、私の存在を忘れていたのに気付き、しまったという顔をした。
「でも、私の言ったことって最終的にはあなたにとってプラスになってたはずよ……亜美たちにもね」
ちらり、と、視線を泳がせたままの亜美の方にわざと鋭い視線をぶつけると、ビクッと細い肩が震えた。
この露骨な反応。隣の彼がよく見せる仕草にそっくりで、思わず笑みがこぼれた。
真美も同じ物を感じていたようで、彼と亜美をちらちら見比べてから、私の方を見て口元を綻ばせた。
「まぁな。おかげで随分鍛えられたよ、ははっ」
「真美たちも仕事でミスしなくなったもんね」
お好み焼きを鉄板の上でひっくり返す彼と、オレンジジュースをグラスに注ぐ真美が、目を合わせて笑った。
亜美と全く同じ年齢のはずの真美が妙に大人びて見えるのは、やはり落ち着きがあるせいだと思う。
年を経るに連れて双子にもそれぞれの個性が浮き彫りになってきているのを、私も彼も、亜美も真美も感じている。
「ここに来たのって、初めてテレビに出た時の帰り道だったんでしょ?」
「そうそう、初めてのステージでさ……こけてたよな、律子」
笑う彼。眩しいライトの中、視界がぐるりと回転して尻餅を搗いた時のことを思い出してしまった。
顔中が燃え上がるように熱くなって、思わず彼を睨みつけてしまう。
「そ、それは!だって仕方無いじゃない!」
恥ずかしさを誤魔化すようにしてソースを刷毛でお好み焼きに塗りつけ、マヨネーズをぱっぱとその上へ振りかけていく。
鉄板の上に飛び出たソースが派手に音を立てて、甘酸っぱさと香ばしさの入り混じった香りが漂ってきた。
食欲中枢を握り締められるような感じがして、胃が締め付けられてキューと鳴った。三人の視線が一斉に私を刺す。
「くっくっくっ……おうっ!」
含み笑いをこらえ切れない彼の脇腹を肘で小突き、起金を手に取りせっせと四等分して有無を言わさず取り分けた。
「さぁさぁ、焼けたそばからどんどん食べていきましょ。みんなだってお腹減ってるんでしょ?」
まだ顔が熱かったのは、鉄板から立ち上る熱気のせいだけでは無かったはず。
ステージに立っていた頃の話にも随分と花が咲き、後から頼んだサワーに心地良くなり始めて来ていた。
お酒に酔う、というのは不思議な気分で、柔らかく真っ白な綿の上をふわふわ歩いているような気分になれた。
キラキラのステージで観客の歓声と注目を一身に浴びるのとは違う、ほのぼのして幸せな高揚感……嫌いではない。
未開封のビール缶を握っただけで機嫌が良くなる彼の気持ちも、今は少しだけ理解できる。
ただ、ビールのあの苦さはまだまだ好きになれそうも無いが。あんなものを美味しそうに飲む彼の気が知れない。
一度だけ加減を知らずに飲み過ぎてしまったことがあり、翌日の彼が不自然なぐらい優しかったのは記憶にそう古くない。
あの時いったい私が何をしたのか何度訊いても彼は教えてくれないのだが、いったい何をしたのだろうか。
「さて、そろそろ帰ろっか」
真美の声が聞こえた。
「え、なんでー? まだそんな遅くないじゃん」
「だってさぁ、亜美、今日は……ゴニョゴニョ」
頬を膨らませる亜美の肩を抱き寄せ、真美がなにやらひそひそ話をしている。
しきりに私の方に目配せしている辺り、真美はどうやら事情を分かっているらしい。
昔は亜美と真美の見分けがつかなかったものだが、今では持っている雰囲気でどっちがどっちかよく分かる。
「そっかー……そうだよね。なら亜美たちは帰らなくっちゃだね」
真美からどう話を聞いたのか分からないが、唇をきゅっと釣り上げ、糸のように目を細めて亜美が笑った。
財布を取り出して勘定が幾らになりそうか真美が尋ねてきたが、おごるからいいよ、と彼が制した。
「ありがとう。それじゃあ……んっふっふ……」
ウインクしながら『ごゆっくり』と唇だけで言って、双子は店を去っていった。
「まったくあいつら、気を遣うことも無いのに……」
何杯目かになるビールのジョッキがテーブルの上に着陸して、彼が息を吐いた。もう目の前の鉄板は熱を放っていない。
そろそろデザートにシャーベットでも食べようか、と思い、お品書きを開いた。
「やっぱり、あなたも気付いてた?」
「そりゃあな。あいつら俺の方見てニヤニヤしてたし……そいじゃ、早速」
彼がビールを手に取り、私もピーチサワーのジョッキを握った。
今日という日は、私のデビュー三周年の日であるが…もう一つ、記念しなければならないことがある。
「交際二周年……っていうとちょっと恥ずかしいけどな」
「これからもよろしくね……ダーリン」
ごつっ、と、二人にしか聞こえないほど小さく、分厚いガラスの無骨な音がした。
私と彼が恋人同士になった日──奇しくもアイドルデビューと同じ日だった。
去年もささやかに四人で二重の記念日を祝い合ったが、その時も亜美と真美は気を遣って席を外してくれた。
アイドルだった頃、二人で苦楽を共にしている内に、段々と自分の中で彼の存在が膨らみ始めているのを感じていた。
芸能事務所を立ててトップアイドルを養成する側に回ろう、と考えるようになった時、彼のことが真っ先に頭に浮かんだ。
私の新しい道に彼を誘った時、乗ってくれた時は本当に嬉しかった。拒否されたらどうしようという不安もあったから。
プロデューサーでなくなる彼に、何と呼んで欲しいか尋ねると「ダーリンと呼んでくれ」と答えが返ってきた。
不安を感じていた反動もあったのだろう。言われるまま口に出した瞬間、溜め込んでいた想いが溢れ出して止まらなかった。
その時私が彼に何と言ったか、思い出すのも恥ずかしいぐらいだが、あそこまで言う勇気がよく私にあったものだと思う。
あの勢いと情熱は、きっと彼に教わったものだったのだろうな……と、今更ながら実感する。
「さて、と。今の内に……」
そう言いながら、彼は私に背を向けて鞄の中をごそごそ探り始めた。
すぐに目的の物を見つけたようで、促されるままに手を差し出すと緋色の小さなジュエリーケースを手渡された。
「開けてごらん」
私の反応が気になっているのがよく分かる、緊張を隠せない彼の表情。それだけでもう私は嬉しくなってしまう。
わくわくしながら蓋を開けて見ると、銀色に輝く三日月が二つ入っていた。
「あ……」
ごてごてしていない、シンプルなデザイン。静かながらも凛と冴え渡る確かな存在感を放っている。
蛍光灯を反射してキラリと光るイヤリングについ目を奪われて、ため息を漏らしてしまった。
プレゼント、差し入れは実用的なものを、と以前によく言っていたが、こんなに嬉しくなってしまう辺り、私もやはり女だ。
「嬉しい……ありがとう」
微かに声が震えていた。いてもたってもいられず、つけていいかと尋ねることもせずに、イヤリングを付け替えた。
「似合ってるよ」
「うん……ふふっ」
首を軽く振ってイヤリングを揺らして見せると、彼は安堵した顔で柔らかい笑みを浮かべた。
アクセサリなら喜ぶだろうという安易な考えで買ってきたのでは無く、彼なりに色々考えて選んできたことが窺えた。
その手間と、ショーケースを眺めてああでもないこうでもないと悩む様子を思い浮かべると、胸が躍る。
高かったでしょうに、なんて訊くのはこの場ではナンセンスだろう。素直に彼の好意を受け取りたかった。
付き合い始めて最初に迎えた誕生日に指輪を貰い、去年のこの日にはネックレスを貰った。
プレゼントという名の鎖で縛られているように感じた時もあったが、彼になら縛られたっていい。むしろ縛られたいぐらい。
そうだ、私からも彼に持ってきたものを渡さなければ。バッグの中からラッピングされた紙袋を取り出す。
「私からも、ね」
彼に渡したのは、ちょっと奮発して買ってきた財布。
いち会社の社長らしく身なりも雰囲気も整ってきたのに、所々破れた革財布を使っていたのを見たから。
「ありがとう」
嬉しさを我慢できていない顔。考えていることがすぐ顔に出る所は妙に可愛くて、昔からずっと好きだった。
袋から財布を取り出してあちこち覗いてみると、彼はそのまま財布を袋へ戻した。あとで中身を入れ替えるのだろう。
「ね、もっと詰めていい?」
イヤリングを付け替えた時の昂りが治まらず、体を触れ合わせたい衝動に駆られてぴったり密着した。
そのまま、体重を彼に預けるようにしてよりかかると、彼の右手が回ってきた。布地越しに体温を感じる。
「律子から甘えてくるなんて、珍しいな」
顎を掴まれて数秒間見つめあう。
──ああ、そういうムードかな。
目を閉じて待っていると、濡れて体温を帯びた唇が重なってきて、胸が甘くじいんと痺れた。
そのまま数秒間。鼻息がかかってくすぐったかった。
開いたままのメニューをそっと閉じて、テーブルの端へどかした。
今夜はもう、甘いデザートはいらない。
終わり
―後書き―
なんだかんだで律子は成人したらそれなり酒飲みそうですよね
戻る