「おい律子、もう結構飲んでるけど大丈夫か? 結構酔ってるんじゃ……」
テーブルの上には、またチューハイの空き缶が増えた。これで四本目。
「いえ、酔ってませんよ。私、思ったよりアルコールには強いみたい」
と、律子の口調は涼しげだが、その表情は全体的に赤みがかっている。
酔っ払いに「酔っているか」と尋ねて「酔っている」と答えが返ってくることは稀だ。
まぁ、ここは事務所の応接室だし、俺と律子の他にはもう誰も残っていないのだから、何かあったら俺が止めればいい。
「……」
律子は黙って缶を振り、中で揺れる液体の音を耳で聞き届けるようにしてから、細い喉を仰け反らせて飲み下す。
ごくり、と嚥下する音が向かいに座る俺の所まで聞こえてきた。
それにしても、律子と二人きりの時間というのも久しぶりな気がする。
ここの所は随分と忙しく、事務所の誰もがゆっくりできる間もなく慌ただしかった。
暇を持て余すよりは忙しい方がいい。一年以上経ったとはいえまだまだ新規事務所に過ぎない我々に暇は無用のものだ。
今年度が始まってからは忙しさにも拍車がかかった。
あと約二ヵ月。七月中旬に企画しているコンサートが終われば一息つけるのだが。
最後に律子とプライベートで会ったのは一ヶ月以上前になる。
朝に挨拶をすればそのまま別々の場所での業務に入り、退勤時に一声交わすだけの生活。
帰りの時間も噛みあわず、俺の方が遅いので律子には亜美たちと一緒に上がってもらっていた。
もう中学三年生とは言え、夜に中学生だけで東京の繁華街を帰らせるのも少々不安だったからだ。
律子と話すのは本当に事務所の中での僅かな時間だけだったが、そのことで辛いというのは無かった。
忙しさに振り回されていたせいだろう。過ぎていく時間のなんと短かったことか。
律子がテーブルに缶を置いた。スタンドの明かりを受けて左手の指輪がきらりと光る。
まるで、その存在を主張するかのようだった。
それを見て、俺は一昨日の朝に亜美から言われたことを思い出す。
「ねぇねぇ」
「どうした?」
「最近、律ちゃんと何かあったの?」
亜美の怪訝そうな表情から、『何か』はあまり良くない内容であるらしかった。
「いや、特に揉めたりとかはしてないぞ」
「律ちゃんさ、最近ちょっと元気無いんだよね。亜美達が収録から戻ると楽屋でボーッとしてたりするし」
「疲れてるんじゃないか? ここの所ずっと忙しいしな」
俺の返答に亜美は歯痒そうな顔をして、肩にギリギリかかる髪を指でいじり始める。
中学校に上がって以来もうすっかり馴染んだ第二のトレードマーク、前髪の赤いヘアピンが微かに揺れた。
「疲れてる顔じゃないんだよね。亜美達の前では元気だし。なんていうかな……元気なんだけど元気じゃないっていうか……」
疲れじゃないとすると何だろう。仕事へのストレスが溜まってきているのだろうか。
その辺り、なんとか時間を作って律子に訊いてみるのがいいかもしれない。
「分かった。時間取れたら律子と話してみるよ」
「そうしてみてよ。亜美にはよく分かんないし……あ、真美と律ちゃんが呼んでる。もう行かなくっちゃ」
「ああ、いってらっしゃい」
手を振って亜美を見送ると、遠くから律子が俺の方を意味ありげな視線で見ていた。
そして、二日後の今日だ。どうにか仕事を片付けて、律子と話す時間が取れた。
久しぶりに一緒に呑もうかと思い、缶チューハイと缶ビールを何本かとつまみを少々買ってきて、今に至る。
蛍光灯を点けずに、スタンドの明かりだけの薄暗い応接室で酒を飲み交わしながら仕事の話などしている。
律子の表情にさしあたって大きな異常は無いようだ。
ただ、やけにペースが早いことを除けば。テーブルに置かれた空き缶はもう五つ目だ。
「ねね、そっち行っていい?」
俺がノーと言わないのを見越して、何も言わないのに律子が缶を片手に向かいの椅子から俺の右隣に移動してきた。
腰を下ろすなり、上半身をこちらにもたれさせてくる。
「でへへ……」
宙に浮いたような、律子には不似合いなだらしない笑い声が耳元にかかった。
「な、なんだよ」
「んん〜もっとベタベタしようよぉ〜」
細い腕が首筋に絡みついてきて、少し甘い律子の香りに混じってアルコールの匂いが漂ってくる。
「わ、ちょ、ちょっと! 酔っ払ってるだろ、お前!」
「酔ってないよぉ〜? いいじゃん、イチャイチャしたいんだからぁ」
鼻を鳴らして甘えた声を発しながら、頬同士が触れ合う。
律子の頬は熱くなっていた。
「へへ、キスしちゃおっか……ん〜……」
いきなり擦り寄ってきた律子にどぎまぎする俺のことなどお構い無しに、しっとり濡れた唇を押し付けられた。
柔らかい唇の感触に心臓が音を立てて波打つ。冷静だった頭が強制的に沸騰させられるようで、顔が燃え上がりそうだ。
「……今だったら……セクハラしても怒らないぞう……えへへ」
そう言いながら、俺の右手を取って胸元へ導いていく。
加減が分からないのかグッと押し付けるようにされて、掌にふにふにした弾力が覆いかぶさるようにのしかかってきた。
布地越しにゼリーを詰めた水風船のような感触が伝わってくる。
(これは幸せな……って、いかんいかん、酔っ払いに翻弄されていてはっ)
慌てて手を引いて、頭を横に振って熱を飛ばす。
手を離すと律子の鼻息が耳にかかって、くすぐったさに肩がビクッと跳ねた。
「んふ……なんだかいい気持ち……いぇい!」
「何が『いぇい!』だよ……全く」
「……ねぇ、ダーリン?」
「な……なに?」
「あたしぃ……にひひ……あたしねぇ」
律子が俺の二の腕を掴み、肩の上に乗せていた顔を俺の正面に持ってきた。
横から寄りかかってくる体勢だったのが、いつの間にか膝の上に乗る形になっている。
視線を落とすと、はだけ気味のスカートの下のむっちりした太腿が露になってしまっていた。
少し高い位置から俺を見下ろす律子の表情を見てみると、とろけた笑みを口元に貼り付けている。
目は俺を見ているが焦点が合っていなくて、意識が別世界に飛んでいるように見えた。
「お、お、落ち着けって。視点が定まってないぞ、おーいっ」
「ダーリンが大好き……愛してるよぅ……頭の中いっぱいで……あはは、あはははっ!」
「…………」
「一緒に事務所開いて……好きなお仕事できて、時にはダーリンと……んふ、幸せだなぁ〜……いひひ」
続けざまに『好き』とか『愛してる』とかの直接的な言葉を合間に交えて、律子が大胆な言葉をシャワーのようにぶつけてくる。
矢継ぎ早に律子がまくしたてるものだから、俺は返事もできずに律子の熱烈な愛の言葉を浴びていた。
情熱的な瞳を潤ませて、俺でも言わないような言葉も口にする律子に、俺は恥ずかしくてたじたじになってしまっていた。
「へへ……愛してるよぉ〜……ん」
ひとしきり言って満足したのか、再び腕が首に回ってきて、前のめりに倒れこんできて俺に体重を預けた。
密着する上半身と無遠慮に押し付けられる柔らかさに、嬉しいというレベルを通り越して、顔が火照る。
「…………ぐすっ」
「え……律子?」
急に静かになってしまったと思ったら、律子が俺に抱きついたまま肩を震わせている。
「辛かったよう」
すすり泣く声を証明するかのように、首筋に液体の伝う感触がした。
「一ヶ月以上も……ずっと、ほったらかし、で……す、凄く寂しかった……」
嗚咽が混じるのも構わず律子が言う。
「挨拶だけで……なんかそっけないんだもん……愛想尽かされちゃったみたいで……えぅ、うぅぅ……」
「律子……」
「わた、私だって、ほっとかれたら……さ……さび、寂しくなるんだから……ほっとかないでよぉ……バカ……バカ!」
ボロボロ涙を流して泣く律子の、レンズが濡れた眼鏡を外して、胸に抱き寄せた。
本当は、話をしようと思えば毎日少しだって時間は取れたのだ。
律子がいつも平気な顔をして仕事に打ち込んでいるものだから安心して、本心を汲み取ることを放棄してしまっていた。
一昨日、亜美が出て行く時に遠くから見ていた目……寂しそうな目をしていた。
いったい何日の間、律子は同じような視線を俺に向けていたのだろうか。
生真面目な性格だから、仕事に関係ないことは辛くても中々言い出せなかったのだろうと思うと、切なくなった。
胸の内で凍りついたような悲しさが冷たくて、温かい律子の体を余計にきつく抱き締めた。
亜美に言われるまで気付かなかった自分が情けなくて、申し訳無い気持ちでいっぱいだった。
「律子、すまなかった。ごめん、寂しいの我慢して頑張ってたんだな」
まだ顔を埋めたままの律子の、さらさらした髪を撫でる。
「…………」
律子は何も言わなかった。今は返事が無くてもいいと思った。
「今度、時間取って遊びに行こう。スケジュールの調整効くように色々考えてみるから」
「……ぅっ」
胸の中で律子が身じろぎした
「律子?」
「気持ち悪い……吐きそう」
背筋が凍りついた。
「ま、待て! ここ事務所だから! ト、トイレ行って来いトイレ!」
「む……無理……」
絶体絶命、万事休す、そんな言葉が頭の中に反射的に浮かんだその時。
『ここは俺に任せろ!』とばかりに、青いバケツが視界の隅で光り輝いていた。
翌日、俺の出勤した五分後に出勤してきた律子はいつも通りの表情だった。
会うなり顔を赤らめたり申し訳無さそうな表情にならない所を見ると、昨日のことは覚えていないらしい。
(律子の部屋まで連れて行ったんだけど……まぁ寝てたしな)
幸い、俺のスーツをクリーニングに出すような事態にはならなかったし、被害は最小限に留まったと言えた。
二日酔いにもなっていなさそうだし、ホッとした。
「おはようございます、社長」
「おはよう律子。調子はどう?」
「悪くは無いですね」
視線を律子の肩の向こうへやってみると、まだ誰も出勤していない。
戸締りをする俺が他の誰よりも早く出勤するし、律子も早いから当然といえば当然だが。
「ちょっと、社長室に来てくれるかな」
「え? 別にいいですけど……」
朝日の入り込む窓の前を通り過ぎ、応接室、会議室のドアを前を歩き、最奥の社長室へ。
「社長室に何か……ひゃっ!」
律子を先に入らせて、俺がドアを背にする形で後から入り、こっちを振り向いた律子との距離を詰めて、抱きしめた。
「なっ……な、なんですかいきなり! 始業前ですよ!」
拒絶こそされないが、抗議の声が飛んでくる。以前と違うな、と感じるのはこういう時だ。
「いや、なんていうかな。律子が恋しくなって」
朝にシャワーを浴びてきたか、石鹸やシャンプーの匂いが濃い。
俺のスーツにも似たような匂いが染み付いているのに気付いたのは、その時だった。
「……昨日一緒にお酒呑んだじゃない。寂しがるには早過ぎるんじゃないですか?」
「いいじゃないか、別に。まだ誰もいないんだから」
「……もう」
呆れたように溜息をつきながらも、律子が俺に体重を預けてきた。心地良い重みだ。
「あ、そういえば私、家に帰ってきてたのは覚えてるんですが、呑んでた時の記憶が無いんですけど」
「あぁ、昨日は律子、早いペースで呑むもんだから早々に寝ちゃったんだよ。帰ろうって時になって起こしたんだ」
「ホントですかぁ〜? 寝てるのをいいことに……え、エッチなこととかしてませんよね?」
「してないよ」
こんな時は変に考えずさっさと言い切ってしまうに限る。こっちからは本当にしていないのだから。
律子に疑う時間を与えないように、次の言葉も言ってしまいたい。
「今日さ、仕事終わって事務所に戻ってきたら少し待っててくれるか?」
「えー、また呑みですか? 二日連続でそれはどうかと……」
「いや、ただ単に、車で送っていくから一緒に帰りたいな、と思って」
「あはは、なにそれ。中学生みたいなこと言わないで下さいよ。……ま、了解です」
笑いながら返事する律子の声を聞き届けてから、自分より一回り小さい体を捕まえていた腕を解いて、体を離す。
「じゃ、そういうわけだ。こっちもなるべく早く片付けられるように頑張るから」
「……うん、待ってる」
軽く頭を撫でて律子が心地良さそうに目を細めるのを見てから、ドアを開いて元来た道を戻る。
鼻の奥には、まだ律子の香りが残っているような気がした。
「あ、おはよ!」
「律ちゃんおっはよーん、あ、兄ちゃんも」
パソコンのあるフロアへ戻ると、亜美と真美の二人が出勤してきていた。
顔も髪型も声も背丈も一緒だが、突き抜けるように明るいのが亜美、いい意味で落ち着いているのが真美。
律子の教育の成果なのか、この二人も時間前行動がすっかり身についている。
「あと二十分ぐらいしたら出るわよ、二人とも。午前中はラジオ局で公録だから」
はーい、と元気良く応えながら、亜美が俺と律子とに視線をキョロキョロ往復させている。
その様子を目ざとく見つけた真美が、律子を一瞥してから俺の方に視線を向ける。
二人は目を細めて笑い、こっそりサムズアップした。
俺も、同じサインを二人に返した。
終わり
―後書き―
なんという『酒の力を借りたキャラ崩壊』……
ほんのり匂わせる描写が好きで自分の作品はそれが多いような気がするのですが、今回はベタベタ気味。
亜美真美は成長した姿を思い浮かべるのが楽しいです。