一 憂鬱そうな雲がどんよりと空を覆い尽くした、いかにも気分の盛り上がらない朝。 俺が出社した直後、律子から電話がかかってきた。 「もしもし」 『……おはようございます……』 弱弱しい声が揺れていた。受話器の向こうから、洟を啜る音が聞こえた。 「おはよう律子。……ヤバそうか?」 『は……はい、すいません、こんな時に体調崩すなんて……』 昨夜の時点でかなりフラフラしていたから様子がおかしいとは思っていたのだ。 次の朝辺りに本格的に体調が崩れそうなことも視野に入れてはいたので、驚きはしなかった。 手早く手帳を取り出して今日のスケジュールを確認する。 「……今日は収録や取材は無いな。外回りの営業だけだ」 「営業……プロデューサーだけで……平気ですか?」 熱にうなされているのだろうか、本当に苦しそうな声だ。喋らせているのが申し訳なくなってくる。 「ああ、任せろ。先方に事情は話しておくから」 「で、でも……私も行った方が……」 「大丈夫だ。今無理して仕事をさせたら、かえって後に響く。いい機会だと思ってゆっくり体を休めてくれ」 「……はい、そういうことでしたら……今日はお休みさせて頂きます」 深い溜め息が聞こえた。 「病院、行けそうなら行って来いよ」 「……お母さんが行きつけの所に名前書いてきてくれたので……後で行って来ます」 「そうか、まぁ、とにかく無茶なことはせず、お大事にな」 壁掛け時計を見てみると、もうそろそろ始業時間だ。昨日残してきた事務を片付けてしまわねば。 「じゃ、電話切るぞ」 「あ……プロデューサー」 「なんだ?」 「……ごめんね」 「ん? ああ、気にするなって。……じゃあな」 失礼します、と細い声を聞き届けてから、通話を終えた。 「さて、じゃあ今日も一日、頑張りますか」 と、自分に気合を入れようと思い切り背伸びをしてみた。 しかし、担当アイドルとの朝の挨拶が無い、というのは、どうにも気が締まらない気がした。 社長の物真似をしてダメ出しをされたり、「こんばんは」と言ってハリセンで引っぱたかれたり、というのも今朝は無い。 あれも始業ベルみたいなものだな、などと思いつつ、パソコンを立ち上げてマグを片手にコーヒーを汲みに向かった。 二 病院から戻って数時間。 点滴を打ってもらったおかげか、まだ少々だるいとはいえ昨晩・今朝と比べて随分体が楽になった。 昼食も取れたことだし、この分なら回復は早そうだ。 ソファーの上で雑誌を読みながらじっとしていると、ピピピと高い電子音が、私一人きりのリビングに響いた。 「……まだ微熱かぁ」 本日五度目になる体温測定の結果は、37.3℃。平熱よりはさすがに高かった。 「……何をしよう」 学校の課題はとうに終わっているし、授業の予習もあらかた済ませた。 忙しくて片付いていなかった部屋の整理もした。体が軽くなった所でシャワーも浴びた。 仕事と学校が生活の大半を占めていたせいか、いきなり大きな空き時間がポンと現れてもすることが無い。退屈そのものだ。 台風の目が頭の真上に来ていきなり静かになってしまったよう。 私は完全に暇を持て余していた。 「在宅でできるような仕事、何か残ってないかしら」 プロデューサーに尋ねてみようと思い、充電ケーブルの突き刺さった携帯電話に手を伸ばす。 アドレス帳から呼び出すのも面倒なので、直接発信履歴を開く。 彼の名前が幾つも並んでいて、隙間に学校の友達のものが挟まっている。 仕事の都合上仕方が無いとはいえ、見られたら誤解されそうだった。 リダイヤルを押して本体を耳に当てると、程無く呼び出し音が鳴り始める。 「もしもし、いま時間平気ですか?」 『もしもし……律子。大丈夫なのか?』 「はい。まだ微熱はありますけど、だいぶ楽には。そっちはどうです?」 『ああ、ちょうど一仕事取れた所だ』 「仕事……」 仕事と聞いただけで胸が踊る自分に、我ながら少し呆れてしまう。仕事が無ければ禁断症状が出そうな勢いだ。 「どんな仕事なんですか?」 『海外で公開されてるクレイアニメ映画の吹き替えだ。映画会社の方が、是非律子の声を使いたいって』 「名指しとはまた光栄な……。声優ってのも中々興味深いですけど、映画はどんな内容なんですか?」 『なんだろ。パッと見ではアドベンチャー系だな。日本語字幕のDVDを貰ってきたから、今度律子に渡すよ』 「DVD……今度と言わず、今渡しに来れます?」 DVD鑑賞は時間がかかるが、時間を持て余しているこんな時にはそれこそが打ってつけだ。 『今? ああ、ここからなら律子の家までそう遠くないけど……平気か?』 「具合なら大丈夫ですよ。むしろすることが無くて退屈してるぐらいなんです。ちょっと寄って渡して行ってくれるだけでも」 『分かった。それなら今から向かうよ、じゃあ……』 「はい、お待ちしてます」 と、どこか事務的にも聞こえるようなやり取りを最後に、通話を切った。 三 空模様が怪しい。先ほどまでは晴れていたのに、分厚い雲が西の空からやってきた。 連日関東を襲い続けるゲリラ豪雨とやらが今日も街を荒らしに来るつもりだろうか。 エンジンを止めた車を後にする前に、後部座席の下に置いたままの傘を手に取る。 風はそんなに強く無いから壊れる心配は無さそうだ、と車を出て歩きながら考えていた。 このコインパーキングから律子の家までは曲がり角二回分。 「ん……来たか」 一つ目の角を曲がったところで顔に冷たい水滴が当たり、地面を見下ろすと所々に斑点ができている。 辺りの生垣からも土の匂いがたちこめてきた。雨の匂いは好きだが雨自体は好きでは無い。 瞬く間に雨の勢いも強まったところで、早速傘に働いてもらうとしよう。 「ってこれ、大穴が空いてるじゃないか!!」 六つに区切られたセクションがまるまる一つくりぬかれていて、そこから暗い雨雲を覗き見ることができた。 「わっ、濡れる! 濡れる!」 走りづらい革靴だということなどお構い無しに、バケツをひっくり返したような雨の中、俺は必死に走った。 少しならば大丈夫だろう、と思っていたが……甘かった。 最終コーナーを曲がってゴールする頃には、大穴から振ってきた勢いのある雨粒にだいぶ濡らされてしまっていた。 「わざわざすみませんプロデュー……って、傘持ってるのにどうしてビショ濡れなんですか」 インターホンを押して玄関のドアが開くなり、律子が俺と傘を交互に見た。 「いや、その、な」 こういうわけだ、と閉じた傘を再び開いて『覗き穴』を見せると、律子がガックリと肩を落とした。 あちこちが紺色に染まってしまったグレーのスーツのズボンからの湿った臭いが鼻を突いた。 「今タオル持ってきますから、ちょっと待っててください」 そう言って律子は玄関の奥へ引っ込んでいった。 山吹色のTシャツの背中が、薄暗い廊下の中でぼんやりと目立った。 「はい、どうぞ」 「ありがとう。外は凄いよ。ゲリラ豪雨も熱心なことだな」 ふかふかして温かみを感じるタオルで頭をガシガシ拭き、顔と手を拭う。 「野外のイベントを予定してた所は悲惨でしょうね、ここ数日」 「だな。そうでなくてもこの季節は台風が来るし。ああそうだ、コレ」 水滴にまみれた鞄からDVDのケースを取り出し、律子に手渡す。 「あ、このキャラクター、見たことある」 「………?」 さっきからどうも違和感を感じると思ったら、見慣れたエビフライが無くて、先端に軽くウェーブのかかった髪が肩まで伸びて いる。耳から首にかけてカーテンのようにかかった黒髪に、不思議な感覚を覚えた。 そのまま視線を下げてみると、丸首のTシャツには黒縁で囲われた『HOT』の文字。緑・黄・赤という配色がジャマイカやエチオ ピア辺りを連想させる。膝の辺りまで伸びた深緑のハーフパンツに足元のスリッパ。自宅での律子のくつろぎぶりが如実に感じ取 れる格好だった。 「髪下ろしてる所、初めて見たよ」 「え? あぁ、さっき髪乾かしてからそのままにしてて」 下ろした髪もいい感じじゃないか、と言おうとして飲み込んだ。 あの髪型には彼女なりのポリシーがあると以前に聞かされていたことを思い出したからだ。 ファン人気に行き詰ったらイメチェンも考えると言ってはいたが、現状ではその必要も無いだろうし。 「凄い雨音ですね、外。……しばらく雨宿りしていきます?」 律子が向かって左手にある階段を指差した。 「え、それは悪いよ。お家の人もいるだろうし」 「いえ、いないですよ。両親は店の方に行ってますから。仕事の話したいし、コレ一緒に見ません?」 DVDのケースの角で頬をくぼませながら律子が言った。 体の調子がまだ戻っていないのか、顔は笑っていたが声は小さかった。 「じゃあ、お言葉に甘えてお邪魔させてもらおうかな」 デビューしてすぐの頃に両親とお話をしたことはあったが、家まで車で何度も送っているにも関わらず家に上がるのは初めてだっ た。あの律子がどんな家に住んでいるのか、興味深かった。 「お邪魔します」 「はい、どうぞ。リビング二階にあるんですよ。一階はお風呂場とかお父さんの部屋で」 律子が向こうを振り向くと、体の回転に合わせて下ろした髪がサラリと柔らかく揺れた。 先を行く律子の後に続き、二人分のスリッパの足音が細長い階段にペタペタ響く。 (……いい眺めだ……) スカート姿では中々見られないお尻の輪郭がくっきり浮き出ていて、いけないと思いつつも視線が吸い込まれてしまった。 四 (えっと、プロデューサーはブラックで良かったかしら) 自分の分のレモンティーを淹れてから、私はインスタントコーヒーをマグカップにとんとん注ぎ入れていた。 することが無くて暇を持て余していた所に、仕事。降って来た幸運に、倦怠感も忘れて思わず頬が緩んだ。 プロデューサーがいるから仕事の話もできるし、これで退屈せずに済む。 「はい、プロデューサーのコーヒー」 「あ、ありがとう」 ソファーの前に置いてある小型のテーブルにマグカップを二つ並べた。 そういえば、プロデューサーを家に招いたのは初めてだが……何というか、とことん『素』だ。 部屋着のままってだらしなく見えないだろうか。 顔はすっぴんだし、髪も先ほど乾かしてから下ろしたままだ。 まだ直っていない風邪をプロデューサーに移してしまうことも無きにしもあらず……。 仕事ができる嬉しさに頭から抜け落ちてしまっていたが、後からそんなことを思い出した。 それに、男の人を、私一人しかいない家に招くという客観的事実。 へっぽこプロデューサーだってれっきとした年上の男性だ。 (ひょっとして……ちょっと大胆なことをしちゃってるのかしら、私) ヘンな雰囲気になっちゃったらどうすればいいんだろう、なんて思考が宙に浮きかけて、慌てて私は頭を振った。 彼とこの仕事を始めてなかなかに長い。お互いのことが分からないような浅い関係では無いと少なくとも私は思っている。 担当アイドルに手を出さないモラルを持っていることぐらい分かるし、こんな色気の無い女相手だとしても強引に迫ってくる度胸 なんてまず持ち合わせていないだろう。 そもそもの前提条件としてまだ自分の体調が悪いのを彼は知っているのだ。優しい人ではあるんだし、安心して間違いはない。 私らしくもないバカなことを考えてしまったと思い、掌で額を叩いた。 「じゃ、早速見ましょうか、プロデューサー」 自分を納得させた所で、ソファーに座った彼の隣に腰を下ろしてリモコンを手に取った。 オープニングが流れ、薄暗い洞窟が映った。何人かの足音が響いている。 「律子の担当する役は……この女の子だな。勝気で世話好き、チームの頭脳、か。まるで律子みたいだな」 画面の中では、現代風の服を着た赤毛の女の子が何やらまくしたてながら大木みたいな男の脛を蹴っていた。 傍らには、ヒトの言葉を理解する犬と、女の子と同じぐらいの背丈の少年が辺りを見回している。 三頭身ぐらいのミニサイズが可愛い。 「台詞が一番多いらしいから、律子の出番は相当だぞ」 「この時点で随分喋ってますもんねぇ……こりゃあ結構大変かも」 画面下部の字幕を追いかけるのも大変だ。 登場人物は英語で喋っているが、速くて聞き取り辛い。本場の英語はこんなにも速いものか。 洞窟のシーンが終わって画面が暗転し、場面が街中へと移った。買い物でもするのだろうか。 思った通りに主人公達の一団は買い物を済ませ、店を後にしてどこかへ繰り出すのかと思いきや、酒場のような場所で顔を突き合 わせて何やら話し合っている。ほのぼのとしたBGMから、次の展開まではまだかかりそうなことが想像できた。 「アドベンチャーものとは言っても、みんなのほほんとしてるな。この女の子が一人で急かしてる感じだ」 「……そ、そうです……ね」 いけない、眠くなってきた。さっき飲んだ風邪薬の効果が出てきたのかもしれない。 体の倦怠感が強くなってきて、手足の先からどんどん力が抜けていく。 家で静養しながらも仕事ができる折角の機会なのに、眠ってしまうわけには……。 (ああ、まぶたが重い……) けたたましく早口で喋る女の子の声が、子守唄のように聞こえた。 五 「凄い。この女の子、さっきからずっと喋りっぱなしだ」 うおォン、彼女はまるで人間マシンガンだ。 日本語に直したらいったいどんな台詞になるんだろうか。相当な量の仕事をこなさなければならないであろうこの役に律子を指 名してきた先方の思惑が少し分かったような気がする。大変ではあるが、宣伝する機会が多く取れれば人気の更なる向上に繋がり そうでもある。むしろ絶好のチャンスと言えるだろう。 「……なんかさっきから肩が重いな……悪霊にでも憑かれたか?」 左半身に妙な重みを感じて、正面のテレビを向いたままだった首を左に傾けてみた。 「っっ!?」 「くぅ………すぅ………」 体こと律子が寄りかかってきていた。左肩に乗った律子の頭から、寝息が聞こえる。 思わず飛び退きそうになったのをどうにか堪えて、急激に跳ね上がる鼓動を抑え付けるように自分の胸に手を当てた。 乱れた心を落ち着けようとしたが、シャンプーなのか、隣から漂ってくる食べ頃のフルーツのような甘い匂いが鼻腔をくすぐり、 これでは到底落ち着けそうもない。 (どうもリアクションが返ってこないと思ってたら、いつの間にか寝てたのか。 元気そうにしていたが、体調が悪いんだしそりゃ眠くなってもおかしくは無いだろう。 夏用の薄手のYシャツ越しに肩へ伝わってくる体温が熱い。まさか熱が上がってるんじゃないか。 大丈夫かな、と思いつつも俺は動けずにいて、目線もその穏やかな寝顔から外せなかった。 起こしてあげた方がいいのだろうが、すやすや眠っているようだしそっとしておきたいとも思う。 電車に乗っていて、隣の人が寄りかかったまま眠っていて、起こそうかそっとしておこうか迷った挙句に自分の駅を乗り過ごし てしまった時のあの感じに似ている。 ひとまず、リモコンを操作してDVDの再生を停止する。俺一人で見ていてもしょうがない。 さてどうしようかと思っていると、左腕が何かとてもサラサラして得体の知れない柔らかいものに擦れた。 「に……二の腕か。ビックリした」 寄りかかった体を見てみると、律子の二の腕が俺のそれに触れていた。 「二の腕って胸と同じ柔らかさなんだよ」と学生時代に女友達が言っていたのを思い出して、自分まで体温が上がりそうだった。 こっそり触っても今ならバレないかもしれない──そんな邪な考えが顔を覗かせた気がして、きつく目を閉じて頭を振る。 (ダメだダメだ。実際に動いてはっ! 行動だけでも誠実でなければ信頼を失うっ!) いくら無防備だとはいえ、いつかのように狸寝入りだということも考えられる。 それでも、漂ってくるいい匂いと、男には無い柔らかく滑らかな肌に、否が応にも『女』を意識させられて頭がグラグラした。 (落ち着け俺はプロデューサーなんだそうだこんな時は素数を数えろ1,3,5,7,9ってあぁ9は素数じゃない) DVDを消してしまったせいで部屋の中は静寂に包まれていて、外の雨音が聞こえてくるぐらいだ。 自分の鼓動の音がやけにうるさかった。 「あら、プロデューサーさんじゃない。いらっしゃい」 突然、右前方から声がした。 「っ!?」 声のした方向を見ると、律子の母親がドアからひょっこり顔を出していた。 「ど、どうも! お邪魔しております!」 律子の家に立ち寄ったのは仕事上の用事で、上がっているのはゲリラ豪雨の雨宿りで、律子が寝ているのは……なんだろう。 瞬時に膨大な量の情報を頭が駆け巡り……俺は反射的に立ち上がって素っ頓狂な声で挨拶していた。 階段を上ってくる音に全く気が行っていなかったので、思わず焦った。 大変な所を見られてしまったような気がして、背筋を汗が伝って腰へ落ちていった。 「……あ」 ぼすん。 横で寝ていた律子の方を振り向くと、俺が肘掛けにしていたクッションにバランスを崩して前のめりに突っ込んでいた。 ぴくりとも動かない所を見ると、どうやら夢の中にいるらしい。 「ちょっと律子の様子を見に戻ってきたんですけど……あら、眠ってるの?」 「ええ、そうみたいで……実は……」 かくかくしかじか。ここで母親に事情を説明する。 「そうなんですか。ちょっと良くなったからすぐに仕事がしたかったんでしょうね。退屈が大嫌いですから、この子は」 穏やかな口調で母親は返してくれる。不審には思われなかったようで、ホッと胸を撫で下ろした。 「でも、律子が人前で眠るなんてまず無いですよ。珍しくって私が驚いてるぐらい」 「そうなんですか? 前にジャズライブを見に行った時、疲れてたのか寝ちゃってたんですけど……」 「うふふ……よっぽどプロデューサーさんに気を許してるのね」 母親の、含みのある視線。笑った顔は律子そっくりで、きっと律子は母親に似たのだろう、と思った。 「ほ、本当にそうなら……う、嬉しいというかホッとするというか……」 「本当だと思いますよ。よくあなたの話が出てくるの」 「えっ?」 「ええ。あの子なりにあなたのことを気に入ってるんじゃないかしら?」 しょっちゅう律子に怒られている自分としては、いきなりそんなことを言われても実感できないのが正直な所。 あのキツい口調で細かい所まで責められて以前は密かに胃を痛めていたものだった。 「どうです? ウチの娘の仕事ぶりは」 「物凄く熱心というか……生き急いでいるようにすら感じられますね。楽しんでいるみたいなのは確かですが」 俺の返答に、ああやっぱり、と母親は二、三度頷いていた。 「お父さんの背中を見て育ってるから、自分も早く成功したいって思ってるんですよ、律子は。店が今の規模になるまでかなり の時間がかかりましたし、苦労の連続だったんですけどね。律子は小さかったから覚えてないのかしら」 「……なるほど」 アイドルに事務手伝いに学業と三足の草鞋を履いてそのどれもに打ち込む異常なバイタリティ。そういった背景があったとは。 「……無理しているのでしょうか」 「本人は自覚してないと思うけど、端から見たらそうね。だから今は、手綱を握る人の存在が欠かせないと思うわ」 「手綱……」 「勝気な性格なのでプロデューサーさんに失礼をすることもあると思いますが、律子のこと、宜しくお願い致しますね」 柔和な表情を浮かべていた母親が真剣な目つきになり、深々と頭を下げた。 「……はい」 何と言っていいか上手く言葉が出てこなくて、俺はただ頭を下げることしかできなかった。 「さて、よく寝ているようだけど……お客さんの目の前で寝ているのはちょっと感心しないわね」 そう言いながら母親はソファーで寝ている律子へつかつかと歩み寄っていく。 「こらっ律子! お客様をほったらかしにして寝てるんじゃないの!」 「うわ……」 両手で頬をギリギリつねっている。結構力入ってないか? 意外とワイルドというか、優しそうな印象だっただけに予想外だった。 「い、いふぁ、いふぁいっ!」 「おはようお嬢さん。お目覚めはいかがかしら?」 「もう……そんなに強く抓らなくたって……」 うつぶせになっていた体がのっそりと持ち上がった。本当に熟睡していたらしい。 「ほら、あんたが寝ちゃうからプロデューサーさん困ってたのよ?」 「はっ……す、すみません、プロデューサー」 まだ半開きの目で律子は一生懸命こっちを見ようとしていた。眼鏡がずりさがっている。 両方の頬には真赤な痕が落書きをしたように残っていた。 「いや、いいんだ。体が休息を求めてるんだから」 反省の意思なのか恥ずかしいのか、ソファーの上で律子は正座していた。ちんまりと折りたたまれた姿に噴出しそうだった。 「仕事の続きはまた明日だ。今日はゆっくり寝ておくこと。いいかな?」 「は……はい」 「じゃ、服も乾いたことだし、俺は事務所に戻るよ」 「あ、待ってくださいな」 DVDはそのまま律子に預けることにして、鞄を持って部屋を後にしようとすると、母親に呼び止められた。 「今から夕食の支度するんですけど、プロデューサーさんもご一緒にどうですか?」 「いえ、さすがに悪いですし、お腹はまだ減っていま──」 丁重にお断りしようとした所、『嘘ついてんじゃねーよボケナス』とばかりに腹が情けない悲鳴をあげた。 「……ほらね。もう夕方ですもの」 「プロデューサー、折角ですから食べてって下さいよ。ただでさえ普段の食生活がアレなんですから」 「あら、そうなの?」 「そう、結構酷いわよ。肉ばっかりで野菜食べてる所全然見ないもの」 全く持ってその通りで、返す言葉が無い。しかし、男のエネルギー源は肉というのが俺の持論だ。 「それなら、ちょっと野菜は多目に摂っていただかなくちゃ、ね?」 母親の言葉に律子はうんうんと頷いていた。 (……世話好きなのは親譲りなんだな) 子は親に似るもの、か。ムズがゆい気分だったが、「ご馳走になります」とお願いすることにした。 その後、野菜のたっぷり入った煮込みうどんをご馳走になった。 俺の丼には他の二人の実に二倍近くもの野菜が入っていて、ラーメン二郎を縮小したような『盛り』であった。 見た目は大味な印象だったが、あっさりしていて美味しかった。食卓を囲むという雰囲気もあったかもしれない。 アットホームな空気に触れて、休みが取れたら久しぶりに実家に帰ろうかなどと、珍しく考えていた。 「ところでプロデューサーさん。ウチの娘、どうですか? 頭の良さは保証しますし出る所も出てますから……おススメですよ」 「は、はぁ……」 「ちょ、ちょっとお母さん! 何を耳打ちしてるのよっ!」 続く……かも?