with you



一.朝の部


 朝。私の一日は、ご主人様に起こして頂く所から始まります。ベッドカバーが外れて外の光が射し込んでき
ました。まだ眠そうな目を擦りながらご主人様が私を抱き上げて下さいます。今日も一日の始まりです。
 「律子、今日も仕事なの?」
 「うん。レッスンと打ち合わせ、それと事務の仕事」
 「体は壊すなよ」
 「無茶はしてないから大丈夫よ」
 ご主人様は、ご両親と食卓を囲んで朝食を召し上がっている所です。トーストの香ばしい匂いが漂います。
 私が現在の仕事を始めてから、五、六年になるでしょうか。当時のご主人様は中学校に上がったばかりでし
た。先代の仕事を引き継ぐ形で配属されてきましたが、『階段から落ちた拍子に、ご主人様のお尻の下敷きに
なって、体を壊してしまった』との先代の話を聞いていたので、始めは心配でありました。しかし、私のそん
な考えがあまりにも失礼だったことを知るのには、ほんの僅かな時間しかかかりませんでした。
 ご主人様は真面目で几帳面な、聡明ながら気の強いお方です。それでいて、私をぞんざいに扱うようなこと
もなさいません。ただ、日頃から常に忙しい生活の中に身を置かれていますので、私の身と致しましては、余
計なお世話ながら時折ご主人様の体調が気がかりになってしまいます。
 ご主人様は『アイドル』というお仕事をされています。私も仕事の場には立ち会っていましたが、ご主人様
の仕事ぶりは熱心という言葉だけでは言い表せません。立場上の上司にあたる『プロデューサー』の男性をも
積極的に仕切って、日々芸能活動に邁進していらっしゃいます。

 朝食後、身支度を整えてご主人様がお仕事へいらっしゃる時間がやってきました。先月ここへ配属されてき
た新人へ引継ぎを済ませてから、私の朝のお仕事は終了します。以前は私が一日中ご主人様へ付き添って働い
たものでしたが、彼がやってきてからは私の負担は大幅に減りました。ご主人様、私がこんなに楽をしてしま
っても良いのでしょうか。私は常に申し訳ない心持ちでございます。
 ご主人様が化粧台の前に立ち、メイクの調子を確認されています。ご主人様は実に綺麗になられました。
 「よし、じゃあ今日も張り切って行きますか」
 ご主人様の一声と共に、新人が起きてきました。
 ──あ、おはよーございます、先輩。今日もアイドルのお仕事っすか。休暇欲しいんですけど、オレ。
 ──我侭を言うものではありません。しっかりご主人様をサポートしてくるのですよ。
 ──へーい。あーあ、オレもオバサンみたいに楽したいなー。
 ──オバサン!? なんてことを言うのです! 言うに事欠いてオバサンとは!
 ──そこで怒るからオバサンなんじゃないですか、先輩。
 この新人にはまだまだ教育が行き届いておりません。幸い、仕事先でご主人様の手を煩わせるようなことは
していないようですが、このようなやり取りの度に、私の力不足を痛感します。ともあれ、新人にバトンタッ
チを済ませて、私の朝の仕事はここまでとなります。
 ご主人様はご丁寧にもベッドまで私を運んでくださいます。視界が暗くなっていきます。

 行ってらっしゃいませ、ご主人様。


二.昼の部



 家を出て駅のホームから電車に乗り、ご主人様は軽い足取りで事務所への道を歩いている。今日もいい天気
だ。雀の平和なチュンチュン声が、爽やかな朝の空気を強調してくれる。先月ご主人様に雇ってもらったオレ
が昼間はあのオバサンに代わって働くことになっている。
 オレの仕事は『落ちないこと』だ。何があっても地面に足をつかず、姿勢も崩さないのがオレの使命。単純
な仕事のようで結構な重労働なんだ、これは。今みたいに歩いているだけならさほど問題は無いけど、飛んだ
り跳ねたり、走ったりする時なんかは相当揺れる。急にしゃがまれたり垂直に跳ばれたりするのがオレは大の
苦手なんだが、今のご主人様は結構激しく動くんだから困ったもんだ。レッスンがあるって言ってたけど、今
日はあんまり動かないレッスンがいいな、と思うんですが、どうでしょう、ご主人様。
 やがて事務所に辿り着くと、まず最初に目に入ったのは机でキーボードを叩いている女の姿だった。ここの
事務員をやっている人らしい。タイムカードを押しながらご主人様がその女に挨拶をする。パソコンの画面に
は、よく分からない文字がズラーッと並んでいる。ご主人様もたまに同じような画面を見ながら仕事をしてい
るが、オレには何をやっているんだかサッパリ分からない。そんなサッパリ分からない仕事をバリバリこなす
ご主人様。カッコいいぜ。配属された最初の頃は名前で呼び捨てにしていたけれど、そんな一面を知ってから
は礼儀正しく『ご主人様』と呼ぶことにオレは決めたのだ。
 と、そこへ、プロデューサーと呼ばれる男がやってきた。
 「こんばんは、律子……ぶふぇっ!」
 男の挨拶に、ご主人様はどこからともなくハリセンを取り出し、派手な音を立てて引っぱたいた。破裂音に
驚いた事務員の女が慌ててこっちを振り向く。
 「目は覚めましたか? なんならもう一発……」
 「じょ、冗談ですよ……ははは」
 ふん、朝っぱらから寝ぼけたことを言ってるからだ。ざまあみろ。ご主人様、もっとやっちゃっていいと思
います。だいたいこいつは書類に不備があったりスケジュール管理が甘かったりでいつもご主人様の手を煩わ
せていやがる。ただでさえご主人様はアイドルと学生で二足の草鞋をやってるんだからこれ以上仕事を増やす
なよな。
 まぁ、こいつの仕事の手伝いまでしてしまうご主人様もたいがいお人よしだと思うんだけど。
 「早速だけど、出よう。今日はダンスレッスンが入ってるから」
 「はい」
 ……ダンス? その一言を聞いてオレの背筋は凍りついた。あぁ止めてくれ。ダンスだけは勘弁してくれ。
だってメチャクチャ揺れるんだぜ、アレ。酔っ払って吐きそうになるし。しかも今ご主人様が練習してる曲は
動きが結構激しいんだ。ピョンピョン飛び跳ねないことだけが唯一の救いとでも言えばいいんだろうか。
 残念ながら、オレがいくら嘆いてもその言葉がご主人様に届くことは無い。「ご主人様が慣れれば私達も楽
になっていくのよ」とあのオバサンは言ってたけど、本当なんだろうか。


 迫り来る生き地獄に備えて緊張するオレのことなんて関係無しに、プロデューサーの野郎とご主人様はスタ
ジオに到着した。身軽なジャージに着替え終わったご主人様は、暑くなると思ったのか、上着を脱いだ。白い
Tシャツを下に着ている。脱いだ上着を椅子にかけてヤロウと一声交わし、ご主人様はトレーナーの下へ歩い
ていった。
 「宜しくお願いします」
 ご主人様が頭を下げた。ダンスの時間が刻一刻と迫る。
 お辞儀をした時に体がグイッと地面に向かって持っていかれる感じにはもう慣れた。ただ、体を起こした時
に頭がズシッと重たくなるあの感じはまだ慣れない。
 「じゃあ始めます」
 トレーナーの一声で音楽が鳴り始めた。今ご主人様が練習してる曲は、エージェント夜を……何だっけ。あ
の漢字が読めない。つらぬく? あ『ゆく』だ。『エージェント夜を往く』。エージェントって何だろ。
 「腰の動き甘いよっ! 一回一回ピシッと止めて、かつテンポ良く!」
 「は、はいっ!」
 軽くマッチョなトレーナーがご主人様の正面でお手本を見せている。確かに動きはしっかりしてると思う。
ご主人様がその後に続いて踊ってみせる。鏡の前に行かないとオレにはよく分からないけれど、トレーナーが
言うには動きが良くなったらしい。その調子です、ご主人様。ファイト!
 アンダーグラウンドのサービスを呼ぶの……と聞こえた瞬間オレは戦慄した。
 ──うわあぁぁぁぁぁ!
 怖がる間もなくいきなり体が沈みこんで、胃が浮き上がるような異様な感覚に思わず絶叫した。『どんな時
も万全に応えられる』の辺りでいきなり体が落ちるのだが、先週から二度目の今日でも全く慣れない。高いビ
ルの上から突き落とされたような恐怖があるから、できればここはやらないで欲しい。オレは万全に応えられ
る自信は無い。
 「秋月さん、お尻が沈みすぎ! 膝から下に行っちゃダメだよ! そこもう一回!」
 マジかよ、勘弁してくれ。
 「くっそー、ここキツイ!」
 あ、ご主人様。乙女なんですから『くっそー』は良くないと思います。口の悪いオレが言えたことじゃあり
ませんが。
 ……なんだか、踊ってるご主人様を眺めるトレーナーの視線が変だ。口元がニヤけていて、顔を見てない。
 もう少し下の方を見ているようだが……あっ、この野郎!
 ──ご主人様! こいつ胸じろじろ見てますよ! ぶっ飛ばしちゃってくださいよ!
 鏡の前に行った時にチラッと見えたんだが、白いTシャツから下着が透けて見えていた。
 あの変態トレーナーめ。どこを見てやがる。プロデューサーのヤロウは少し遠目だからよく分からんが見て
るかもしれない。全く、ご主人様もなんで気付かないんだ。

 その後あちこちで何度もやり直しがかかって散々振り回されたが、時間がやってきてレッスンの時間が終わ
った。結局、ご主人様は最後まで気付かなかった。Tシャツは今度から白じゃないのにするといいと思います。
 「お疲れ、律子」
 「うーん、課題が残ったわね。これはまだかかりそうかも……」
 ホッと一息つくオレとは対照的に、ご主人様は不満げなようだ。
 昼食にサンドイッチを食べるご主人様。正面には、あんパンを齧るプロデューサーがいた。
 オレはというと、先ほど振り回された疲れにうとうとしかけていて、気が抜けてズリ落ちそうになってしま
っていた、ふと、体勢が崩れた。
 ──しまった、落ちる!
 そう思った瞬間、ご主人様の手が伸びてきてオレの体を支えてくれた。
 ──ありがとうございます。サボらずしっかりやります、すいません。
 顔から火が出そうだった。気を抜いてしまって申し訳ない、という気持ちが湧き上がり、身が引き締まる。

 昼食を終えた後はどっかのビルへ行って、いかにも中年って感じのオッサンとなにやらよく分からない話を
していた。頷くご主人様にゆさゆさと揺られながら話を聞いていたけど、難しくてよく分からない。テキパキ
と話を進めていくご主人様はやっぱり凄い。プロデューサーのヤロウもこの時ばかりはしっかりしてやがる。


三.夕方の部


 それから事務所に戻ってきて、ご主人様はパソコンの前に座った。隣では事務員の女がキーボードをカタカ
タ叩いている。すぐさまカバンの中から紙を何枚か取り出して、ご主人様も隣の事務員と同じようにキーボー
ドを叩き始めた。
 「それでね、凄かったのよ。あずささんの前髪がこうニョーンってなって、なんとナイフになったの! ア
メリカの特殊部隊が使うようなスペツナズナイフよ!」
 妄想に囚われた事務員が手を休めないまま何か喋っている。お前は何を言っているんだ。
 「スペツナズナイフは旧ソ連ですよ。アメリカだとバリスティックナイフって言うみたいですけど」
 ご主人様も適当にあしらっちゃえばいいのに、こんな支離滅裂な話にどうして相槌を打つんですか。でも、
この事務員の妄想話にまともついてこれるのはご主人様だけらしい。金髪の女の子に同じような話をして「よ
く分からないの」の一言でスルーされているのを見た時は、哀れに思ったものだ。
 「私が貫かれようとした瞬間、颯爽と現れた真ちゃんが転蓮華を鮮やかに決めて助けてくれたのよ」
 ダメだこいつ、早くなんとかしないと……。
 「結局いつものオチなんですね」
 そんな事務員も相手してあげる慈悲深いご主人様、ますます尊敬します。

 やがてご主人様が事務仕事を終えてパソコンの電源を切る頃、プロデューサーがやってきた。
 「自分でチェックはしたが、一応頼む。今回は間違い無いはずだ」
 数字が並んだ紙をご主人様が受け取った。オレの腕にご主人様の指が触れた。
 ──大丈夫です、さっきみたいなヘマしませんから。オレ、しっかりやってますよ。
 「ふむふむ……誤字脱字はOK。今回は不備無しですね」
 物凄いスピードで書類に目を通し終わったご主人様がそう言った。
 おう、珍しいじゃねぇか。明日は雨だな。
 「じゃ、今日の仕事はここまでだな。お疲れ様」
 「お疲れ様です」
 更衣室へ続く廊下から事務員がやってくるのが見えた。どうやら事務員も仕事が終わったらしい。
 「律子、今から時間ある? 帰り、夕飯食べに行くんだが、一緒にどうかと思って」
 「あっ、空いてますよ。行きます行きます!」
 ……ご主人様、嬉しそうですね。声のトーンが上がってますよ。
 「小鳥さんもどうです?」
 おい、お前。そこで事務員にも声をかけるのかよ。ほらご主人様もちょっと動揺してるじゃないか、バカ。
 「ん〜……あたしはちょっと予定があるから……お二人で、ごゆっくり……ふふ」
 ナイスアシスト。事務員は気の回る奴だ。少しだけ見直した。だがそのニヤケ面は止めろ。妄想もするな。
 ご主人様の顔がなんだか熱くなってきた。多分恥ずかしがってるんだと思うが、この男はそんなことには
気付く気配も無い。バカPめ。
 「うーん、そうですか。小鳥さんも一緒にと思ったんですが、残念だなぁ」
 「…………鈍感」
 あーあ、この朴念仁は。ご主人様ちょっと機嫌悪くなったぞ。少しは乙女心ってものを勉強してきやがれ。
 ──それにしても、ご主人様も物好きな人ですよね。
 背を向けてオフィスを後にする事務員の背中を見ながら、俺は溜息の出る思いだった。


四.夜の部


 目の前が明るくなりました。朝の陽光とは違った蛍光灯の明かりが私のベッドに差し込んできます。
 ──お帰りなさい、ご主人様。
 新人はもう退勤して、今頃はベッドで眠っているようです。ご主人様の表情は明るく、何かいいことがあっ
たのだろうと一目見て分かりました。どんな楽しいことがあったのでしょう。
 ご主人様はタンスの引き出しを開けて衣類を取り出し、私を抱えたまま部屋を後にしようとしています。
 大丈夫ですか。忘れ物はございませんか。
 「あ、ブラ忘れた」
 すぐにご主人様はお気づきになりました。流石でございます。

 脱衣場の中で一日分の疲れを脱ぎ捨てていくご主人様は、私を洗濯機の上に座らせてくださいました。
 浴室に続くガラスの扉。その先は私にとっておぞましい空間なのです。
 まだ私が配属されたばかりの頃、ご主人様が私を連れたままお風呂場に入られたことがありました。視界は
たちまち曇り、水蒸気が張り付いて呼吸をすることもかなわない私にご主人様はすぐに気付かれ、助けてくだ
さいました。私の体を拭い、安全な場所へ寝かせてから浴室へ戻っていくご主人様の背中を見て、この人にず
っとお仕えしようと決意したのでした。

 やがて、ご主人様が浴室の扉を開いて出てこられました。いつもは編んでいる髪がほどかれ、肩に散ってい
ます。体重計に乗り、ほっと胸を撫で下ろすご主人様。体重は維持できているようで何よりです。
 私を抱き上げて、ご主人様が鏡の前に立ちました。昔とは比較にならないほど、立派に女性らしくご成長な
された全身が映っています。
 「……はぁ、もうちょっとお腹を絞れないものかしら」
 気になるほどでは無いようにお見受けします。ご主人様はどうやら自身のスタイルに不満を持たれているよ
うですが、あまりそのように溜息をつかれますと、世の女性達が嘆いてしまいますよ。
 「ああそうだ。忘れない内に復習しなきゃ」
 ご主人様は右手を突き出して、ピンと背筋を張り、腰を左右に揺すり始めました。ダンスの練習ですか。新
曲を出す時期になったのですね。復習に余念の無いご主人様、昔から変わらず本当に勤勉でいらっしゃる。
 しかし、お言葉ですがご主人様。せめて下着を身につけてからにした方がお体にもよろしいかと思われます。
 
 部屋に戻ったご主人様は、机のライトをつけて教科書を広げ、学校の勉強をしておられます。アイドルのお
仕事だけでも大変だというのに、この様に自身の学業にも手を抜かずに取り組まれています。傍らには携帯電
話が置かれていて、受信メールの画面が開いたままになっています。その画面には、教科の名前とページ数が
並んでいます。定期試験が近づいているようです。
 教科書のあちこちには付箋がついていて、時計はもう次の日を指してしまっているというのに、右手は止ま
ることなくノートに文字を書き続けています。
 ご主人様。あまり根を詰め過ぎず、ご自愛下さい。

 机の上に広げられた教科書やノートが畳まれ、ご主人様はベッドの上に座られました。鞄の中から手帳を取
り出し、表紙の裏にシールのような物を貼り付けています。よく見ると、ご主人様とプロデューサーの方が一
緒に写っています。キラキラに縁取られたフレームの中で、ご主人様は笑顔を浮かべています。
 帰ってきた時の明るい表情はこのおかげだったのですね。楽しい時間を過ごされたようで、私までもが、め
でたい気分になります。
 「ふぁ……そろそろ寝ないと……」
 欠伸をされたご主人様が、掌に私を乗せました。先日私が頂いたチェーンが、ちゃり、と鳴ります。
 「もう使い始めて何年になるのかしらね、この眼鏡」
 ベッドに私を寝かせたご主人様は懐かしそうな遠い目をしていらっしゃいました。私を大切に扱って下さる
ご主人様に巡り会えて私は幸福の極みにございます。この身果てるまで、ご主人様にお仕え致します。
 「お休み……」
 部屋の電気が消され、私のベッドの蓋も閉められました。
 
 お休みなさい、また明日。


 終わり



―後書き―

ダラダラ書いてた物だったんですが、『律子のメガネになりたい』の一言で火が点いてガーッと。
最後の最後になるまで『眼鏡』という単語を徹底排除してみたんですが、『私』と『オレ』の正体に
読んでる人が気付くのはどの辺りなのかなー、と思いましたが、しょっぱなでバレてますかね?w
眼鏡の気持ちになって展開を考えるのは中々楽しかったです。また何か思いついたらやるかもしれません。