葡萄酒


 空に煌々と輝く太陽が沈み、人々が建物の中へ帰ってから更に数刻。辺りから人の喧騒は消え失せ、代わり
に鈴虫の涼しげな鳴き声が澄んだ空気を表すかのように響く。広場の噴水も夜間は動いていない。静かで平和
な夜のように思えるが、穏やかなようで空気はどこか不気味さを感じさせるもので、クリスタルが力を失った
影響が出ているのか、頬を撫でる優しい風は感じられない。
 旅路での魔物との戦いで傷んだ武器を修理に出し、必要ならば新しい物を調達し、不足がちな薬、食料品な
どなども……といった雑用を何故か一人ですることになった俺も、そろそろ仲間が取ってくれているはずの宿
へ足を向けようと思い立ち、肩に担いだ袋をもう一度担ぎ直した。

 宿屋のカウンターで店主に尋ねてみると早速俺は部屋に案内された。今夜は割と商売繁盛しているようで、
団体部屋が空いていなかったらしい。案内された先の部屋は一人用の個室。他の三人も同様の部屋をあてがわ
れているのだろうと思うと、出費のことが一人でに頭の中へ湧いて出てきた。
 雑用兼経理係が板についてきてしまっているのかもな。認めたくは無いけれど。
 「よっ、と」
 担いでいた袋を下ろす。道具の割り振りは明日でいいだろう。ひとまず自分の物だけ取り出しておけばいい。
 俺たちは、クリスタルのかけらに残っていた力を借りて戦いの日々を生きている。俺の役目は、シーフだ。
 シーフっていうとつまりは泥棒なわけであまりカッコいいものじゃあないが、戦いにおいては素早さを活か
して敵を引っ掻き回したり、器用な指先で宝箱の鍵を開けたり、魔物の持ち物を盗み取ったり、と目立たない
ながらも地味に活躍している……つもりだ。ガラフのじいさんみたく派手に黒魔法を唱えたりもしてみたいん
だけどな。
 まぁ、全員で担当を決めたわけだし、それぞれ大事な役目なんだから、文句を言ってはいけないか。そんな
ことを思っていると、厚い木の扉の向こうからノックの音がした。
 「はーい、どちらさん……ああ、ファリスか」
 扉を開くと、俺と同じぐらいの背格好の、中性的な顔立ち。
 「よう、思ったより時間食ってたみたいだな」
 整った顔の半分ぐらいは紫の長い髪で覆われていて、隙間から覗く長い睫毛に縁取られた瞳が、俺の姿を捉
えて僅かに細まった。
 「ああ、道具屋のオヤジにぼったくられかけてな。交渉するのに難儀したよ。……で、どうした?」
 「んー、別に大した用件があるわけじゃないんだが」
 そう言いながら、ファリスは右手を口元まで掲げた。その手に握られた何かの瓶がちゃぷ、と鳴り、手首か
らは小さな袋が下げられている。
 「バッツ。お前、酒は?」
 「酒? 別に飲めないことは無いけど」
 「さっきまで酒場でポーカーをやっててね。しばらく勝ってたら葡萄酒を貰ったんだが、お前も来いよ」
 手招きをしながらファリスがドアの外へ体を半分出した。まだ「はい」とも「いいえ」とも言っていないの
に、ファリスの中では俺がついていくことが確定しているようだ。まぁ、断る理由は無いが。


 酒場に連れて行かれるのかと思いきや、俺がやって来た先は、同じ宿の、ファリスが割り当てられた個室だ
った。鞘に収められた剣がベッドの上に無造作に放り投げてあり、外套は椅子の背もたれに引っ掛けてあった
が、着替えて洗濯した衣服の類は行儀良く畳まれている。荒くれ者の海賊とはいえ、頭領ともなればそれなり
に身だしなみは求められるということなのか。それとも──先日明らかになったばかりなのだが──男として
振る舞い、押し隠していてもやはり女性ということなのか。
 「ほれ、そっち座れよ」
 無骨なデザインの椅子がゴトッと鳴った。促されるままに腰を下ろすと、その向かいにファリスが座った。
細い手首に下げられていた袋からは、香ばしい匂いのする炒ったアーモンドと、赤褐色の干し肉が数枚、それ
に円形の物を切り分けたと思われるチーズがごろごろと皿の上に転がり出てきた。
 「まずはお前の分な」
 ファリスがおもむろに瓶を開け、宿屋の備品らしい木製の杯に良く熟した感のある赤紫色の液体が注がれて
いく。半分ほど満たされた所で俺に瓶が手渡され、今度はファリスが杯を手に持って突き出した。
 「こんなもんでいいか?」
 「ああ、サンキュ。じゃ、早速やるか」
 互いの杯に酒が入るや否や、乾杯。慣れた装いだった。
 葡萄酒を飲むのは初めてでは無いけれど、酒全般に通じる独特の苦味や酸味、舌が焼けるようなあの刺激感
はまだ不慣れだと感じるぐらいだ。ちゃぷちゃぷと揺れる液体をしばし眺めてから、口の中へ流し込む。
 「……そんなに強くないな、これ」
 思っていたよりも刺激は弱く、甘酸っぱいような風味が口の中に広がる。少し、渋い。
 「そうだな。ちょっとしたジュース感覚で、初心者向けって所かね」
 俺と同じように、鼻へ抜ける葡萄の香りに神経を集中させているのか、焦点を合わせない薄目をファリスは
杯の中へ注いでいる。俺はその様子を見ながら、干し肉を一枚手に取る。
 「強い酒の方が好きなのか?」
 「いや、どっちかって言えば甘い方が好きかな、俺は。強いのも嫌いじゃないけどな」
 「へぇ、意外だな。どうも海賊ってそういうのをガンガン飲むイメージがあるからさ」
 「ははっ、大体合ってるよ。ウチの子分どもはキツイのを浴びるように飲むのが好きだからな」
 ファリスの言葉に、塩気の効いたアーモンドをつまみながら俺は半ば自動的にトゥールの酒場を思い出して
いた。備蓄してた酒をファリスの子分達で飲み尽くしてしまって、ガラフがカウンターを背にして愚痴をこぼ
していたっけ。
 「酒場でワイワイやるのも嫌いじゃないんだが、俺はこうして静かにチビチビやる方が好きなんだ。錨を下
ろした海の上、波の音を聞きながら、夜空の星だとか満月だとか、そういうのを肴にゆっくり飲むのもいいも
んだぜ」
 「落ち着いた場所が好きなんだな、ファリスは」
 「ま、そういうこった」
 ニヤリと口元を吊り上げてファリスが笑った。
 女であることを悟られないために身につけた処世術なのか、こうして話をしていると、その気さくな口ぶり
や堂々とした立ち居振る舞い、鋭く澄んだ眼光など、相手が女だと分かっていても男と話しているような気分
にさせられる。甲冑に身を包み、大剣を手に切り込んでいき、時には仲間を庇うナイトの力を使って戦ってい
るせいもあるのかもしれない。
 男として見れば、羨ましくなるほどの美男子。女として見れば、しなやかで力強い美女。初めてファリスを
見た人はどっちだと思うんだろうな。会話をすれば十中八九は男だと判断するだろうけど。
 「お、早速一杯目が空になったな。もう一杯行くかい」
 カタンと俺の杯が乾いた音を立てると、ファリスがそれを目ざとく見つけて瓶から新たに葡萄酒を注ぐ。
 「おいおい、酒が強いとは言ってないぞ俺は」
 「まだまだ行けるだろ? レナなんて一口二口だけで真っ赤になって潰れちまったんだから」
 「え、レナにも飲ませたのか?」
 「ああ。山登りする前の日だった。まぁ疲れてたせいもあったんだろうけど。今日も今頃夢の中じゃないか?」
 「王族だからな、レナは。元々旅してた俺や海賊やってたファリスとは体力も違うだろう」
 俺の言葉を聞いて、ファリスが一瞬だけ視線を胸元に落とした。心なしか表情が曇ったようにも見える。
 「どうした?」
 「いや、なんでもない……。とにかく、俺達に合わせてあんまり無理してなきゃいいんだけどな」
 今の瞬間の動揺は何だったのだろう。会話の流れにおかしな所は無かったはずだけど。
 ファリスの瞳にちらりと現れた迷いのような物の正体が気になった。


 それからしばらく。
 やがて葡萄酒の瓶の中身も皿の上の肴も底を突き、段々と酔いの心地がぼんやりと全身を包むのを俺は感じ
始めていた。見れば、目の前で杯の中身を飲み干すファリスの頬にもすっかり赤みが差している。
 「ファリス、大丈夫か?」
 「ん……話し相手がいて気が緩んじまったかな。俺としたことが、飲みすぎたみたいだ……」
 トーンが若干高く、語気も穏やかな、女性的な声だった。いつものあの声は……いや、女であることを悟ら
れないための振る舞い全てにおいて、ファリスは気を張って生きているんだろう。
 柔らかくほぐれた表情からは、一人きりの時に感じているであろう『くつろぎ』が窺い知れた。
 「眠くなってきちまった。そろそろ、お開きかな……」
 「そうするか。俺も眠く……ってファリス、机に突っ伏して寝るなよ?」
 「わーってるよ、だいじょーぶ、だって……」
 そうは言うものの、言っていることとやっていることがまるで噛み合っておらず、ファリスは今にも前のめ
りになって沈んで行かんばかりだ。
 「ほら、すぐ近くにベッドがあるんだから寝るんならそこで寝ろっての、おいっ」
 「うー、ん……いーよ、おれ、ここでねるから……」
 両肘をついて腕で枕を作り、とうとう緊張感の抜けたファリスの顔は長い髪にすっぽりと隠れてしまった。
 木目の走るテーブルに、鮮やかな紫色が散る。
 「まったく、こんな所で寝たら風邪引くってのに……しょうがないな」
 言葉でこれ以上言っても無駄と判断して、俺はしゃがみこんでテーブルに目線の高さを合わせた。
 あどけない、とう形容が当てはまるであろう少女のような寝顔に、まだファリスが女だと知らなかった頃で
あったにも関わらず感じた、一種の禁忌じみた胸の高鳴りが呼び起こされる。
 ──まぁ、怒ったらその時はその時だな
 フンと一息気合を入れて、膝と肩を支えて抱え上げた。ゴツゴツした男の硬さではなく、厚めの生地越しで
も伝わってくる柔らかさは女性を感じさせるものだったが、身につけている物のせいか、思いの外重かった。
 「よっ、と」
 ベッドの上に長身の体を下ろす。
 「ほらっ、ちゃんと毛布被って寝ろ」
 「……悪いな」
 閉じられていた目蓋がうっすらと開いて、俺と視線が合った。
 「おっと、起こしちゃったか」
 「なんか、ガキみたいだな、こういうの。まるで寝かしつけられるみたいでさ……」
 「気に障ったか?」
 「昔、子分に同じことをされた時はムカついて蹴っ飛ばしちまったが……今はそうでもない」
 ファリスの表情に苛立ちは感じられなかった。蹴りが飛んで来なかったことに胸を撫で下ろす。
 「なぁ、バッツ」
 「なんだよ」
 「また……こんな風に飲もうぜ」
 「ああ」
 「じゃ、俺は、寝るよ……おやすみ……」
 そう言って、今度こそファリスは静かに寝息を立て始めた。年頃の美しい女性そのものの寝顔、それはいつ
までも眺めていたいものだったが、ずっとここにいるのもバツの悪い話だ。
 願わくば、次も二人きりで飲み交わせますように。
 心中密かにそう願いながら、俺はそっと扉を抜けて自分の部屋へと足を向けた。


 終わり



―後書き―

FFDQ板のファリススレに投下してきました。
確かこれを書いた時はFF5の動画をあれこれ見てました、はい。
女であることを悟られないために色々努力をしているのだろうと考えると、ファリスはいいですね。