あと少しだけの勇気


 世はバレンタイン。男の多くは女性からの贈り物を心待ちにし、時に歓喜し、時に落胆し、陰鬱とした気分
で一日を過ごす人もあれば、初めから斜に構えている人もいる。今年は「逆チョコ」などと言って、男性から
女性へチョコレートを送ろうというキャンペーンをやっているのを街のあちこちで目にしてきたが、裏にある
思惑が見え見えであまり気乗りしないのが正直な所だ。どちらかと言えば敗北感に打ちのめされていることの
多かった俺は、いつもと同じように事務仕事に打ち込むよう務めていた。
 「あのー、お疲れ様ですっ!」
 「ん……?」
 ホームポジションに指をセットした所でふと声をかけられて振り向くと、春香がそこに立っていた。トレー
ドマークのリボンを揺らしてぺこりと頭を下げると、赤いボーダーラインの入った可愛らしい小袋を取り出し
て、春香がにっこりと微笑んだ。
 「事務所の皆さんにお配りしてるんです。バレンタインなので」
 「あ、ああ、ありがとう」
 事務所の皆さんに、という前置きから、どんな意図かは推して知るべし。だが、それでも嬉しいものは嬉し
い。体を向けて素直に一礼すると、目を細めたままの春香が「頑張ってくださいね」と言って、また別のスタ
ッフへ声をかけに小走りで向かっていった。
 正統派、といった感じの爽やかなスマイルに、歯切れの良い口調。目立った特徴が無いといった批評も耳に
したことはあるが、なるほど広い層に人気が高いわけだ。
 「おやおやプロデューサー殿……嬉しそうですなぁ」
 と、そこへ、俺の担当アイドルがすっと視界に現れた。学校帰りらしい制服姿で、人をからかうような笑み
を口元に貼り付けて、というオマケ付きだ。
 「言っときますけど、義理ですよ、それ」
 「分かってるよ、そんなことは。でも、嬉しいものは嬉しいだろ」
 「まぁ、手間がかかってますしねぇ。特にそれみたいな手作りのは」
 袋の中で手作りらしさを醸し出す、微かに歪みを持ったチョコレートクッキーを指差して、律子が言った。
 「私も学校で友達から貰いましたよ、手作りのトリュフ。みんな頑張るわよね、面倒なのに」
 「……なんだか他人事みたいな言い方だな」
 「昔は作ったこともありましたけどね。自分の作ったものより店で売っているものの方が当然味も見栄えも
いいわけですよ。それに気付いた時に、ちょっと醒めちゃいましてね。面倒な気持ちが勝ってます、私は」
 律子がふうと溜息をついた。
 「男からすりゃ嬉しいもんだけどな。手間をかける苦労を思えば、さ。大変なんだろ? チョコレートを湯
煎で溶かしたりとか」
 「そりゃあもう。チョコレートって温度の変化に敏感だから、タイミングを逃すとあっという間に失敗しち
ゃうんですよ……っと、いけない。そろそろ行かなくっちゃ」
 「そういえば、どうして事務所に寄ったんだ? 今日は家の手伝いとか言ってなかったか?」
 「あぁ、ちょっと事務所に忘れ物をしてましてね。それを取りに来たついでに、義理チョコを貰って浮かれ
てるプロデューサー殿の顔でも見ていこうかな、と」
 「……そんなもの見に来るなよ」
 呆れる俺を見て、律子はくくくと含み笑いをした。
 「ま、765プロは女性が多いですから、期待できると思いますよ……そうそう、ついさっきのことなんで
すけど、小鳥さんがプロデューサーのことを呼んでましたよ」
 「小鳥さんが?」
 「ええ。何の用かは知りませんし、急いでもいないみたいでしたけど。それじゃ、お疲れ様です」
 そそくさと律子が背を向けて立ち去る。肩から提げた鞄から何か出て来るんじゃないか、という淡い期待は
残念ながら期待に過ぎなかったようだ。
 ほんの少しだけ、棘が刺さった時のような、小さな痛みが胸の内に広がった。重力に心が引きずられないよ
う、腰を上げて、俺を呼んでいたらしい小鳥さんの所へと足を向けることにした。


 「え、特に用は無いですよ?」
 エクセルの表を見ながらモニターに向かってテンポ良くキーボードを叩く小鳥さんに話しかけると、全く何
も聞いていなかったらしい彼女はそう答えた。
 「本当ですか? 律子がそう言ってたんですけど……小鳥さんじゃなくて、別の誰かだったのかな?」
 「そうかもしれませんね。プロデューサーさんに用があるなら、直接声をかけに行くと思いますよ」
 そうですね、と小鳥さんに返事しながら、机の上に視線を走らせる。春香が持ってきたのと同じ小袋が、小
鳥さんのパソコンの隣にも置いてあった。封は解かれている。と、その視線に気がついたのか、小鳥さんが俺
と目線を合わせて、つやつやした唇をきゅっと吊り上げた。
 「用ってほどじゃないけど……プロデューサーさんにも、はい、どうぞ」
 小鳥さんが両手で差し出してきたのは、丁寧にラッピングされた赤い小箱。"Happy Valentine's Day"と、ラ
メが入ってきらきら光る緑色のステッカーに書かれている。
 「手抜きになっちゃいましたけど、あはは」
 「いえ、とんでもない。ありがたく頂きます」
 両手で差し出されたものは、両手で受け取る。名刺のやり取りをする時のように腰を折り曲げたお辞儀をし
て、小鳥さんからもチョコレートを頂いた。
 「律子ちゃんからは、貰えましたか?」
 「いえ、全く。チョコ作りはめんどくさい、みたいなことを言ってただけで、もう帰っちゃいましたよ。バ
レンタイン自体、あんまり興味無さそうな感じでしたね」
 「あら、そうなんですか。でも、興味無いってことは無いと思いますよ。律子ちゃんだって、年頃の女の子
なんですから。案外、そんなこと言っておきながら、プロデューサーさんのために手の込んだのを用意してる
かもしれませんよ」
 「……そうだといいですね、ははっ」
 そんなわけ無いじゃないですか、と言いたくなる気持ちを喉の奥へ押しやりながら、自分でも分かるほどに
乾いた笑いを漏らすと、窓の外でカアと間の抜けたカラスの鳴き声が聞こえた。空は、もう茜色に染まり始め
ていた。

 今ひとつ釈然としない気持ちに拳を軽く握りながら、小鳥さんから貰ったチョコを片手に自分の席に戻って
椅子に腰掛けると、立てかけたフォルダの陰に隠すようにして、さっきまではそこに無かった何かが置いてあ
るのに気がついた。無地の白い紙袋に"For You"と筆記体が印刷してある。
 「何だろう……あ、カードが入ってる」
 開いていいものかどうか迷いながら取っ手の奥を覗き見てみると、二つ折りになったカードが壁際に寄りか
かっていた。『味の保障はできかねますので、苦情は一切受け付けません、悪しからず』と、よく整った手書
きの文字でそう記されている。この筆跡は、書類やメモ書きで見慣れたものだった。
 「これ、律子の字じゃないか」
 カードを中から取り出すと、袋の中から甘酸っぱいオレンジの香りが立ち上ってきた。リボンで束ねられた
包装紙の奥からの匂いのようだ。中身が気になる。しかし、これは本当に律子のものなのだろうか。先程の、
気だるそうに手作りチョコの大変さを語る律子の表情が脳裏に甦る。
 俺の机の上に置いてあるのだから、俺が開けて悪い道理は無い。そう分かっていても、何の確認も取らずに
中身を確認するのは気が引けてしまい、思わず俺は携帯電話を取り出して律子の番号を呼び出した。呼び出し
音が途切れるのは、すぐだった。
 「もしもし、律子。今大丈夫か?」
 「あ、大丈夫ですけど。……気がつきました?」
 「なんだ、やっぱり律子だったのか。なんだよ、あんなこと言ってたから、くれるとは思ってなかったぞ」
 「……紙に書いておきましたけど、味の保障はしませんから、あまり期待しないで下さいね」
 「ということは、手作りなのか? ありがとう、義理だったとしても、嬉しいよ」
 「いえ、義理じゃ──あっ!」
 思わぬ事実に照れ臭いような気持ちになりながら俺が言うと、律子が急に一回り大きな声を出して、会話が
硬直した。
 「ん、どうした?」
 「…………」
 驚いた声にばかり注意が行ってしまい、その前で何を言ったのか俺が思い出せずに尋ね返しても、律子はぴ
たりと押し黙ったままだった。こっちの受話器が拾った音か、はたまた向こうのものか分からないが、受話器
越しに、犬の遠吠えが微かに聞こえてきた。
 「そ、その……え……えーっと、あの……」
 律子の声が揺らいでいる。
 「いきなりうろたえてどうしたんだ?」
 「ぎ、義理じゃ……無い、です」
 「えっ?」
 義理じゃない。その意味を思い浮かべた瞬間、心臓が大きな音を立てて跳ねた。ひとりでに背筋が緊張し、
携帯電話を握り締める手に汗がにじみ、力が入る。
 「義理じゃなくて……えっと、こ、心の準備が……そうじゃなくって!」
 ビシバシものを言い、生放送ですらスラスラ喋れる律子が、しどろもどろになっていた。
 これは、もしかして……いやいや、まさか、律子が……。
 「か……かん、しゃ……そっ、そうっ、感謝の気持ちって奴ですよ! ほら、なんだかんだで私、プロデュ
ーサーには日頃からお世話になってますし、こういった形で感謝の気持ちを表現させて頂こうと思ったわけで
して、なんていうんですかね、直接普通にホイッと渡すだけじゃアレなんで、ちょっと驚かせてやろうと、つ
まりはそういうことなんですよ!」
 言葉を詰まらせていた律子は突然堰を切ったように早口になったかと思いきや、息継ぎもせずまくし立てる
ようにそう言った。
 「いやー、思いつきで作り始めたはいいんですが、予想以上に面倒くさかったんですよ。店の手伝いとかも
忙しかったから一人分を用意するのがやっとで、他の人の分は作れなかったんですよね」
 「あ、ああ、そうなのか」
 その時、俺の全身に流れたもの。安心だったのか、落胆だったのか。相槌を打つことすら許さないようなペ
ースで話し続ける律子に、俺はそれを判断できないでいた。
 「まぁ、とにかく、そういうわけで、残さず食べてくださいね。それじゃ──」
 「お、おい、律子」
 話すだけ話して一方的に話を打ち切ろうとする律子を呼び止めて、
 「義理だなんて言って悪かった。なんていうか……ありがとな。手間かけてくれて嬉しいよ」
 そう伝えた。それだけは伝えておきたかった。
 「……うん……」
 すると、なぜか落ち込んだような律子の声。
 「なんだよ、いきなり喋りだしたと思ったらテンションが下がったり、今日は忙しいな」
 「いえ、何でも無いんです……こっちの問題ってだけで」
 お疲れ様でした、と、残念そうに、何かを惜しむような調子で言う律子の声を最後に、通話が切れた。後に
は、ツーツーという無機質な電子音だけ。パタンと携帯電話を閉じる音も、切なげに響いた。


 紙袋を取り出して中身を取り出して、リボンを解く。柔らかい二重の包装紙の奥からは、鮮やかなオレンジ
が現れた。立ち上る香りはここから来ていたようで、更にオレンジの中には、くりぬいたスペースにチョコケ
ーキがふんわりと顔を覗かせていた。一緒に包まれていたフォークを手に持って、俺は心の中で律子に向かっ
て両手を合わせ、ほろりと崩れた欠片を、オレンジの皮ごと口の中へ運んだ。爽やかな香りが鼻を通り抜けて
行き、チョコレートの甘さと、ほろ苦さを抱いたオレンジの酸味とが口の中で程よく溶け合う。
 「……美味しいな」
 じいんと胸の奥まで染み渡る甘酸っぱいチョコケーキには、律子の思いやりが滲み出ているように感じた。
 ──ホワイトデーのお返しは、ちゃんと喜んでもらえるものを用意しなくちゃな。
 カードの裏面に描いてあった赤いハートを眺めながら、そう思った。



 終わり



―後書き―

ちー誕が終わって一段落ついたんで、久しぶりに律子スレに書いてきました。……十一時から夜中の三時までかけてorz
バレンタインには二日遅れだけど気にしたら負けです……きっと。クリスマスネタも正月ネタも節分ネタも
書けなかったからなぁ……。
直接渡す勇気が無いからこっそり机の上に置いて行ったり、きちんと本音を伝えたかったのに「感謝の気持ち」
という言葉で本心を誤魔化すチキンな律子をPの視点で表現したかったんですが、うまくいかなかった予感(;´∀`)

ちなみに元ネタは:http://www.kyoritsu-foods.co.jp/cooking/choco/recipe087.html