高槻先生




 「律子さん、いま時間ありますか?」
 仕事と仕事の合間のオフの時間、事務所のパソコンに向かって収支計算をしていた私に、やよいが話しかけてきた。
 「あるけど……どうしたの?」
 「はい。実は……」
 振り向いてみると、やよいはこちらに見えるように英語の教科書と思われる本とノートを持っていた。
 脇には筒型のペンケースを抱えている。
 「学校のテストが近いんですけど、勉強が分からないんです」
 申し訳無さそうに言うやよいは、照れが混じっているのか、口元を僅かに上げて引き攣らせている。
 頭の中で今日のスケジュールを確認する。夕方からスタジオに入ってレッスン……あと二時間ぐらいは余裕がある。
 勉強を教えて欲しい、と言われるのは今に始まったことではなく、学校の友達で慣れっこだった。そういえば、私も学校の試験が
近付いている。そろそろそっちの対策も練っておかなくては、と思い出した。
 「いいわよ。会議室空いてたらそこに行きましょうか」
 モニターの電源だけオフにしておいて、ボールペンを何本かとメモ用紙を手に取って席を立った。

 
 「何の教科がヤバそうなの?」
 事務所の廊下を歩きながらやよいに尋ねてみる。
 「英語と数学です……数学は私のプロデューサーが見てくれたんですけど、打ち合わせに行っちゃって今日は戻ってこれないって
 言ってて……」
 「テストはいつ?」
 「来週です。まだ少し時間はありますけど、凄く心配で……うぅ〜……」
 良かった、まだ一週間も時間がある。
 不安そうに俯くやよいを横目に、明日がテストなどと言われなかったことに私は胸を撫で下ろす。
 会議室の中に誰もいないことを確認してから、先にやよいを通して座らせ、その隣の椅子に腰を下ろした。
 「それで、どこが分からないのかしら?」
 私の質問に、やよいが気まずそうにフリーズした。
 「うぅ〜……ぜ、全部……って言ったら怒りますか……?」
 やよいは青ざめて、私のよりも更に小さな指先をカタカタ震わせている。
 (もしかして、私ってそんなに怖いのかしら……)
 心の中で溜息をつきつつ、まずは試験範囲を確かめることから、と伝えると、程なくやよいは教科書の間から試験範囲のまとめら
れたプリントを差し出してくれた。ついでに、英語の教科書も手渡してもらう。
 「教科書の……ここからここまで……か。やよい、ちょっとだけ待ってちょうだいね」
 試験範囲はそう広いわけではないようだ。問われる内容を早速分析する。一般動詞が中心。基本的な文章の作り方と、単語。それ
と教科書本文を暗唱できるぐらいにすれば大丈夫そうだった。文章を作るなら英文における基本的な語順のパターンを理解しておく
ことが必須。そのためには最低でも主語と述語は理解しておかなければならない、か。
 「よし。じゃ、やりましょうか」
 小さい子どもを相手に仕事をする時のように、できるだけ優しい笑顔を作ってみせた。やよいが固くなっていた表情を崩して安堵
した笑みを見せてくれた所を見ると、掴みはOKだと考えて良さそうだ。
 まずは、何をすべきかはっきりさせておくために、メモ用紙に箇条書きで必要事項を書き連ねていく。
 「あれ、ページだといっぱいあるように見えたんですけど、思ったより少ないんですね」
 「大事なのは、ポイントをしっかり分かっていることなのよ。何をしたらいいか分からない……それが一番ダメ」
 「うあ〜、律子さん凄いですっ! なんか、本物の先生みたいっ!」
 やよいが、大きな目を更に見開いて感嘆の声をあげた。
 「いや、まだ何もしてないんだけど……」
 こんな調子で大丈夫かな、と思いつつも、キラキラ輝く尊敬の眼差しがくすぐったくて、少し嬉しかった。



 全部分からない、と言ってはいたものの、やよいの学力はそこまで酷いわけでもなかった。確かに授業内容の定着は思わしくなか
ったが、本人がテストを『そびえ立つ絶壁』のように考えていた心理的な問題の方が大きいように思えた。
 なんのことはない。学校の試験なんて、授業でやったことをどれだけ覚えているかの確認のようなものなのだ。学校のテストなん
かよりも、生放送番組への出演やコンサートで歌うことの方がよっぽど『そびえ立つ絶壁』だ。
 先日、比較的規模の大きいアリーナでコンサートをした時のことだった。客のノリも上々、緊張に押し潰されずにのびのびと歌を
歌えていたが、曲目が進んでいくに連れて段々と体が重たくなっていき、ラストの曲に至ってはダンスのキレも無くなってしまって
息切れを押さえ付けながらのかなり苦しい展開となってしまった。それまで大盛り上がりだったステージの温度が、本来最高潮に達
するべきなのに少々下がってしまったのだ。何が不足していたかは分かっている。十分な体力をつけていなかったのに無理矢理気力
で押し切ろうとしたのが良くなかったのだ。以前よりも大きなステージでより時間の長いコンサートを行うのだからそれ相応に体を
鍛えておく必要があったのに、持久力をつけるための走りこみが嫌で怠け気味にしてしまったのが結果に表れてしまっていた。楽屋
に戻った時、プロデューサーが難しい顔をしていたのが強烈に印象に残っている。
 「……律子さん、どうしたんですか?」
 「え? あ、あぁ……なんでもないわ」
 やよいが、心配そうな目で私を見つめていた。苦い記憶を思い出しているのが、顔に出てしまっていただろうか。
 「教科書の文章、全部日本語に直せました」
 「どれどれ、見せてごらんなさい」
 一緒に声を出しながら確認してきた教科書の試験範囲。本文の内容を日本語に起こして、まずはそれだけをノートに書き留める。
内容が理解できているかどうかの確認だ。日本語の助詞の使い方が若干おかしいが、まぁマルをもらえる範囲内なので、重箱の隅を
つつくのはかえってナンセンスだろう。
 「よし、いいでしょう。じゃあ今度は教科書閉じて、今ノートに書いた日本語を英語にしてみて」
 「ええっ? そ、そんな、無理ですよ!」
 「落ち着いて、やよい。さっき一緒にやってきたじゃない。英語の文章は何から始まってるんだっけ?」
 瞳をぐらぐらさせて狼狽するやよいをたしなめて、私の方を向かせた。すぐにやよいは視線を定め、私の瞳を覗き込んできた。目
蓋を細めて二、三秒、速やかに思い出せたようで、ぴくりと頬が動いた。
 「しゅ、主語!」
 「うんうん。主語が出てきたらその次は何だったっけ?」
 「実技! じゃない、じゅちゅご! じゅつぎょ! ずちゅ……あうぅ……上手く言えません……」
 「ふふっ……大丈夫、分かってるから」
 『じゅつご』が上手く言えていないやよいの微笑ましさに、思わずにやけてしまう。この素直な反応はどうにもこうにも心をくす
ぐる。自然と笑みが零れて温かい気持ちになる。
 こんなやよいと日々仕事を共にする彼女のプロデューサーは楽しいだろうな、とふと思った。
 「述語、ね。覚えてるじゃない。じゃあノートの日本語を見て。ここが主語で、ここが述語。あとは分かるわね?」
 「私は……読みます……この本を……あっ」
 何か閃いた様子でやよいが私の顔を見て、にんまり笑った。
 それきりやよいはノートに視線を落としたまま、時折声を出し、指で文章を追いかけながら鉛筆を走らせていた。黙々と、では無
いのがやはりやよいだ。
 「うっうー! 律子さんっ、私やれます! 分かりますっ!」
 鉛筆が紙の上を滑っていく音が耳に心地良い。そのテンポから、やよいがしっかり内容を理解してくれたのだと分かる。
 ちょっぴり歪んだアルファベットにテンションの高さを窺い知ることができて、私も嬉しくなって頬が緩んだ。



 そして一週間後にやよいはテストを受け、「手ごたえがありました」というその言葉に密かな期待を持ちながら、答案返却日がや
ってきた。私もやよいも午後から別々に仕事が入っていて、話をする時間が今日はあまり取れそうにない。結果が出たら報告に来る
というやよいを、私はデスクに座って待っていた。結果がどうだったのか気になってしまい、キーボードの上に置いた手はぴたりと
止まったままじっとして動かなかった。
 「律子さん! 律子さん! 律子さーーーーーーーーんっ!」
 耳を澄ますまでも無く、遠くからやよいの声が聞こえてくる。入り口のドアが開き、やよいがこっちに近付いてくるのに合わせて
急速に声のボリュームが上がっていく。
 駆け寄ってきたやよいは、相当急いでいたのか、息が上がっていた。
 「はいはい、そんなに大声を出さなくても聞こえるから……で、どうだった?」
 私が声をかけると、何かにウズウズしていてもう待ちきれないといった様子のやよいが、肩から提げた鞄に手を突っ込んだ。クリ
アファイルの中から二つ折りになった藁半紙を取り出し、折り目から紙が千切れ飛んでしまいそうなほどの勢いでバッと広げて私に
見せてくれた。
 「100点ですっ! クラスの中で一人だけ満点だったんです、私!」
 「ひゃ、ひゃく!?」
 答案の"Yayoi Takatsuki"の横には赤いボールペンで書いた100が燦然と輝いていて、その横には"Perfect"の文字。エクスクラメー
ションマークが四つもついていた辺りに、教師の驚きの表情が目に浮かぶようだった。
 自分でやよいに勉強を教えておきながら、息が詰まりそうなほどに私は驚いていた。
 「まさか満点を取ってしまうとは……教えたこっちがびっくりだわ。ケアレスミスもしなかったなんて……」
 「律子さんが教えてくれた内容を、毎日一回は声出して読んでたんです。一人じゃ怠けちゃうと思ったから、私のプロデューサー
にも聞いてもらって、律子さんを信じて頑張れば大丈夫ってとにかく自分に言い聞かせてました!」
 やよいは感激に目を爛々と輝かせている。自分の教えたことをこうも素直に信じて、愚直なまでに何度も何度も反芻してくれたこ
とが、私は恥ずかしくなるぐらいに嬉しかった。誇らしさと安堵と照れ臭さが胸の中でごちゃまぜになっていて、とにかくじっとし
ていられない心持ちだった。
 「全部律子さんのおかげです! 私にも分かりやすく話してくれて、一緒になって練習してくれたから……」
 「いいえ、やよい。確かに私は大切なポイントを教えたけど、満点が出たのはあなたが頑張ったおかげなのよ。やよいがそんなに
熱心に復習したから、答案がその頑張りに応えてくれたのよ。よく頑張ったじゃない」
 思わず私は手を伸ばして、自分より少しだけ背の低いやよいの頭を撫でていた。
 「あ……えへへ」
 はにかむやよいの柔らかい髪の感触を掌に感じながら、私は先日の苦い失敗を思い出していた。
 あの失敗の原因は、根本的な私の体力不足にあった。プロデューサーもそこを指摘してきたけれど、私がしたのは『ペース配分が
悪かった』という言い訳に過ぎなかった。要するに、理屈を捏ねて地道な体力作りの辛さや苦しさから逃げ出そうとしていたのだ。
 根性論や精神論は嫌いだと自分で言っているのに、地道な努力を避けた挙句、本番では苦し紛れに「頑張ればなんとかなる」と考
えていた。自分の持論と土壇場での行動に矛盾が生じていた。
 私は、プロデューサーの言うことをいつもいつも頭の中で疑ってから自分なりに消化して今まで取り組んできた。彼の言うことを
何も考えずそのまま鵜呑みにするのは単なる思考停止にしか過ぎないが、疑うあまり自分の主張で彼を納得させようとするのも独り
善がりなのかもしれない。
 (素直に相手の言葉を聞き入れることも、自分の頭で考えることと同じぐらい大切なのね)
 「なんだか律子さん、プロデューサーみたいですね」
 「え? そ、そうかしら?」
 やよいの言葉に、我にかえる。
 「はい。私のプロデューサーも、仕事で頑張ると時々こういう風に頭を撫でてくれるんです」
 やよいの目はどこまでも正直だ。嘘をつくということを知らない顔をしていて、世間に溢れる打算や計算といったものとはまるで
無縁。悪い言い方をしてしまえば世間知らずとすら言える。
 (……ダメね。私、すぐこういう風に考えちゃう)
 物事のリスクは常に考えるべき、と自分にも他人にも言い聞かせ続けてきたが、それが全ていいとは限らないのだ。現に、目の前
で無邪気に喜ぶやよいのような純真さを、私は全く持ち合わせていない。仕事場を外れたら、私は可愛気の無いひねくれものだ。
 やよいが羨ましかった。
 「律子さん、どうしたんですか?」
 「……ううん、なんでもないの」
 「先週も同じ顔してました。悩みごと……ですか? でも、律子さんの悩みなんてきっと難しすぎて私には……うぅ〜……」
 瞳を曇らせて長い睫毛を伏せたやよいが、頭を抱える。
 この子を不安にさせるのはあってはいけないこと。なんとなくそんな気がした。
 「大丈夫よ。自分のことは自分でなんとかできるつもりだから」
 「……律子さんって凄いですよね。頭良くて、いつも先のことまで考えてて……私は、何も考えないで全力投球! ってばっかり
で、律子さんみたいに色々考えて計画的に動けないです」
 何も考えないで全力投球……その言葉に、私は胸を突かれたようにハッとした。あれやこれやと考え込まずに、今やれることに全
力を注ぐ。そのひたむきさこそが、今の私に足りていないものだったように思えたから。
 「やよいも、もう少し大人になったらこれぐらいにはすぐになれるわよ。……それより、私の方こそ勉強になっちゃった」
 「えっ、何がですか?」
 「私もやよいぐらい素直になれたらな、ってこと」
 目線の高さを合わせるために少し屈み、がしがし頭を撫でてからポンと掌を広げて脳天に置いた。そうしていると、私のプロデュ
ーサーがやってくるのがやよいの肩越しに見えた。


 「あ、律子さんの……おはようございまーっす!」
 向き直って彼に挨拶するやよいに続いて、私もプロデューサーにお辞儀する。
 「おはよう。えーと、律子。これから行く予定のレッスンなんだが、スタジオが急に使えなくなったとかで今日は中止だ」
 「中止……まぁしょうがないですね」
 「あと、新しいオファーが入ってきたんだが……」
 新しい仕事が入ってきたにも関わらず、彼は歯の間に物が挟まったようにそう言って、メモ用紙に視線を落とした。
 「写真集の撮影なんだが、水着のショットを入れてくれって要請が来ててな……どうしようか相談──」
 「やります」
 水着、という単語が聞こえた瞬間、最後まで彼の言葉を聞く前に私はイエスと答えていた。肌を晒すことが目的のようで水着仕事
は決して好きでは無いが、この際だ。自分にハッパをかける意味でも、こういった仕事にも前向きに挑んでいくべきだ、と思ってい
た。苦手な勉強に全力投球して結果を出したやよいのように。
 「やります……って、いいのか? そんな二つ返事で。今回の水着、以前のより露出激しいぞ?」
 「ええ、ちょっと苦手ですけど……思い切って頑張れば他に繋がるかもしれませんから」
 以前、シティリゾートで水着撮影に臨んだことがあった。帰りたい、やりたくないと渋りまくる私を、プロデューサーは懸命に説
得しようとしていた。私が大胆なショットを出すことで、新たなファンを掴むきっかけになると言うのが彼の主張だった。実際あれ
も、終わってみればセールスの売り上げやライブの動員数に結果として表れていた、と言えるだろう。
 熱心に復習したから答案が頑張りに応えてくれた──さっき私がやよいに言ったばかりの言葉を、自分で反芻した。
 そうだ、この苦手意識を捻じ伏せて頑張れば、きっと何かが返ってくる。そう信じよう。
 「……分かった。意気込み十分なようだし、このオファーは受けよう。それにしても、何かあったのか? こうもすんなり……」
 「時には、『何も考えないで全力投球』ってことです。いい先生を見つけたんですよ、私」
 私は横でなんとなく佇んでいるやよいにちらりと視線を送った。
 「うっうー! なんだかよく分からないけど、律子さんメラメラーって感じですね! 私も頑張らなくちゃっ!」
 お互い頑張りましょう、と右手を上げたやよいに応じるように、私も右手を差し出しハイタッチして、その手をガシッと握った。
 「プロデューサー、私、レッスンの分の空き時間は走り込みに行って来ますから」
 「あっ、土手に行くんですか? 今の時間オフなんで私も行きます!」
 生き生きとした表情で笑うやよいと、珍しく胸の内が燃え上がる心地の私。
 プロデューサーだけが、呆気に取られた顔で私達を見ていた。


 終わり




―後書き―

P以外との絡みを書いてみたい!と思いつつ書いた作品。
やよいはいいですね。ほっこりします。