最も小さなサイン会


 机の上に取り出した、一冊の安っぽいアルバム。こいつとは、雑居ビルの事務所に通っていた頃からの長い
付き合いだ。中に写っているのは、アイドルのプロデュースを務める俺と、俺の担当するアイドル。七桁を超
える数のファンを抱えるスーパーアイドルとして、『ショービジネス界の新星』とまで言われた彼女の、デビ
ュー直前からの軌跡がここにはある。
 あれやこれやと、時には辛辣にお小言を言われながらも、二人三脚で一緒に歩いてきた道。
 先日リリースした新曲がミリオンセールスを記録した記念に撮った、最新の写真を最後のページに差し入れ
ながら、俺は昔を思い出していた。

 「世間に注目されるためには、視覚に訴える……ビジュアルを意識することが必要不可欠です」
 デビューしたばかりの頃に彼女はそう言って、まるで上着を脱ぐかのごとく、お下げにした髪をぱらりとほ
どき、眼鏡を外した。中学、高校と、眼鏡にお下げがトレードマークだったと言っていた彼女は、売り出すた
めの戦略だと主張して、その日、変身した。
 今思えば、確かに彼女の戦略は正しかった。いかに知恵を活かした戦略を練ろうとも、人間が情報認識の大
半を視覚に頼る以上、まずは見た目で人々を振り向かせなければならない。彼女は、アイドルの素材としての
自信の無さを度々口にはしていたが、決してそんなことは無かった。しっかり磨けばそれに見合った輝きを放
てるだけのポテンシャルは持っていたのだ。CDの売り上げや出演する番組の時間帯、コンサート会場の規模が
それを物語っている。
 「…………」
 アルバムを後ろ側からめくる。ダンスに躍動する長い黒髪、溌剌とした瞳がカメラに向かい、口元は不敵に
笑っていた。ファンの視線を釘付けにする会心のスマイルだ。PV撮影の時に撮ったオフショットや、恥を押し
殺して臨んだグラビア水着の写真もある。水着写真の撮影は、『新たなファンの獲得を目指すための戦略』と
頭では分かっていても今ひとつ乗り気になれない彼女をどうにかして仕事に向かわせるのが大変だったことを
今でもよく覚えている。

 やがて、最初のページに辿り着いた。俺と組んで活動することが決まったあの日、デビュー記念にと二人で
撮った写真だ。
 お下げにした髪に、セルフレームの眼鏡と、青いストライプのブラウス──変身する前の、俺が一目見て憧
れを抱いてしまった彼女。プライベートの時間に時々彼女と会うようになった今でも、俺はこの写真を見る度
に密かな胸の高鳴りを感じる。

 「あれ、プロデューサー、何見てるんです?」
 俺が最初のページを開いたままボーッとしていると、オフィスの一角へとその当人がやってきた。背中に届
くぐらいまで髪は伸びていて、切り揃えた前髪から大きな瞳が椅子に座る俺を見下ろした。
 「ああ、律子か。こないだの写真をアルバムに入れてた所でな」
 「あはは、懐かしいですね、このお下げとか眼鏡とか……」
 隣の椅子に腰掛けて、体が触れ合いそうになるほど近い距離まで律子が寄ってきた。ほのかなコロンの香り
が鼻腔をくすぐる。長い睫毛をしばたかせながら、律子が視線を落とす。
 「んー、自分で言うのもなんですけど、地味だなぁ。思い切ってイメチェンしてなかったら、今頃まだくす
ぶってたかも。見られることを意識するって、やっぱり大事ですよね」
 「地味、か……」
 他でも無い律子自身の口からその言葉が出てきたことに、ほんの少し、ずきりと胸が痛んだ。
 「ええ、そう思いますけど、どうしたんです?」
 「今だから言えるんだけどさ。俺はこの頃のお下げと眼鏡、可愛くて好きだったよ」
 「ええぇっ!?」
 ボソッと呟くようにして思わず出てきた俺の本音に、律子は椅子を軋ませながら素っ頓狂な声をあげた。
 「いや、そんなに驚くことか?」
 「だ、だって私、少しでも注目を浴びられるようにって一大決心して、その結果ファンもいっぱいついてく
れたじゃないですか。なんだかんだで、眼鏡とかは無い方が良かったのかな、って思ってちょっと自信もつい
たぐらいなんですけど」
 「うん、確かにイメチェンしたのは大成功だったよな。……まぁ、俺の個人的な好みってだけだよ」
 「…………」
 ただでさえほとんどの人が退勤して静かだというのに、事務所の空気が凍りついた。あれ、もしかして俺、
かなりマズいこと言っちゃった?

 探りを入れるように俺の瞳を見つめること数秒、律子は何も言わないまま、おもむろにバッグに手を突っ込
んだ。取り出した手にはピンクのヘアゴムが二つ巻き付いていた。
 「律子?」
 「……何です?」
 そっぽを向いてぶっきらぼうに答える律子は、背中まで伸びた髪をまとめて耳の下で編んでいた。くるりく
るりと、黒い髪の巻きついた指が踊る。あっという間に向かって左の束を編み終えると、次は右へ。
 俺は一言も発することができず、髪を編む律子の仕草をじっと見入ってしまっていた。腹の中全てが心臓に
なってしまったかのように、バクバクと脈がアップテンポになっていく。
 「……身支度整えてる所なんて、そんなにじっくり見ないで下さいよ」
 トゲトゲしい抗議の声を飛ばしながら、律子はバッグの中からコンタクトレンズのケースを取り出し、細い
指先に乗せたレンズを中へしまいこみ、同時に……思いもよらなかった眼鏡ケースが出てきた。
 パカッとプラスチックのケースが開く音がして、セルフレームの眼鏡の弦が側頭部に垂れた髪に分け入って
いき、律子の指がそれをつまんだ。
 懐かしい、俺の憧れだった姿が目の前に現れた。間欠泉が噴出すような勢いで全身がカッと熱くなった。あ
まりの感激に喉の乾きすら感じるほどだ。
 「…………」
 何か感想を言え、とばかりに俺を目で促しながら、頬を桃色に染めながら律子は俯いた。ちらちらと上目遣
いで俺の様子を窺う律子に、胸がときめく。
 「に、にあ……似合ってる」
 落ち着いて感想を言おうとして、声が裏返ってしまった。慌てて取り繕うと、余計に緊張が高まった。
 「そ……そう、ですか」
 律子は何も言わず、ただますます顔を色濃く染めていくばかりだった。

 目の前にいるのは、まだ右も左も分からない新米プロデューサーだった頃に、『学級委員長みたいな女の子
がアイドルだったらいいな』という願望を密かに抱きながら声をかけた、憧れの女の子。売り出すイメージこ
そ最初とは変わったものの、世に名の轟く本物のトップアイドルになった彼女が目の前にいる。握手会に参加
して、テレビの中やライブ会場で遠巻きにしか見ることを許されていなかったアイドルを目前にしたファンが
持つような、興奮と緊張と歓喜がごちゃ混ぜになった複雑な感情が心の中をゆさゆさと波打った。
 「サ……サイン。サインが欲しいんですけど」
 口が勝手に動いたかのようにそう言ってから、お前は一体何を言っているんだと自分に突っ込みを入れた。
その突っ込みとほぼ同時に律子が顔をバッと上げて、目を大きく見開いた。
 「……ぷっ。あはははははっ!!」
 呆気に取られた顔になっていた律子が、腹を抱えて大笑いした。よく通る声が静かな事務所に響き渡る。
 「あはは……サインですね、いいですよ」
 ひとしきり爆笑した所でニコニコと明るい表情に切り替わり、ファンに対してするような営業スマイルで律
子が俺に愛想を振りまく。見せることに特化した笑顔。二人でいる時の素の表情とはまた違った魅力がある。
 「あ、でも、ごめん。俺、色紙持ってきてなくて……」
 仕事場で数え切れないぐらいに見てきたはずの表情なのに……いや、この姿で営業に行ったことは無いか。
とにかく、初めて目にする表情にドキドキしてしまい、つい素に戻れないまま『憧れのアイドルと対面したフ
ァン』になりきってしまう。そもそも、俺は律子の最初にして最大のファンでもあるのだから、時にはファン
の立場で律子に接してもいいのかもしれない。高みに上り詰めた今にそんなことを考え付くのが、なんだか可
笑しかった。
 「色紙、無くてもいいですよ。掌、出してくださいな」
 「は、はい」
 ペンも持たずに何をするつもりだろうと疑問を抱きつつも言われるままに右手を差し出すと、俺のよりも一
回り以上小さな手が、俺の手首を握った。空いた方の手からしなやかな人差し指が伸びてきて、広げた掌に着
地した。そのまま、律子がすらすらと慣れた手つきで俺の掌にサインを描く。手首に感じる柔らかい女性の肌
の感触は心地良く、手入れの行き届いた爪が掌を擦っていくのは、少しくすぐったかった。
 「はい、どうぞ」
 仕上げに俺の掌をギュッと握り締めてから、人肌の温かさが離れていく。
 「……ありがとうございます」
 「ふふ、物好きなファンもいたものですよね、プロデューサー殿」
 作り物の営業スマイルが顔から元のナチュラルな笑顔に戻り、からかうような調子で律子が言った。
 「まぁ、生憎ですけど、眼鏡は外したままで行きますよ。今更変えるのもなんですし」
 「そうだな。今の路線でいいだろうな。ただ……俺はこっちの方が好きだよ」
 共に積み上げてきた時間の厚みと苦労の重さ……それがあるからこそ、こんなことを言えるのだと思う。
 「え……あ……ぅ」
 プライベートでは今の姿の方が見たい。
 怒られることを承知でそんなワガママを言うと、律子は眉尻を下げて赤面し、浅く頷いてくれた。



 終わり



―後書き―

眼鏡を外すの髪を下ろすだのって律子スレ恒例の流れの中、『活動初期にあっさりイメチェンして、トップアイドルに
なった頃になって「好きだったな、お下げと眼鏡」と言われていそいそと髪を結ぶ律子』なる斬新なネタがあったので
久しぶりに勢いで突っ走るように書いたSSでした。こういう『もしも』ってのも面白いものですね。
書いておいてなんですが、律子本人がトレードマークを捨ててあっさりイメチェンを受け入れてしまうのは、心が痛
みます。裸眼と下ろした髪ってのはとっておきのサプライズにしておいて欲しいなぁってのが個人的な希望だったりw