サイン




 ある朝、亜美が高熱を出した。
 二段ベッドの下から苦しそうな呻き声が聞こえるのに気付いてすぐにパパに知らせた。
 パパが言うには、風邪だから静かにしていれば治る、らしい。
 「お仕事は真美に任せる……」
 そう言って、亜美は枕に頭を沈めて仰向けにひっくり返ったままだった。
 スケジュール帳を確認してみると、今日の仕事は雑誌記者の取材だけのようだ。
 何の下準備も無く亜美と私が入れ替わっても、特に大きな問題は無い。
 「兄ちゃんには真美から伝えとくから」
 「うん……」
 火が消えたようにかすれた声で返事をする亜美の事が心配で、熱を持った手をぐっと握ってから、部屋を出て玄関を後にした。


 いつもは二人で歩く道を一人で歩くのは、なんとなく落ち着かないような気がする。
 隣でニコニコ笑っている亜美がいないのは、靴下無しで靴を履いているようで…寂しい。
 それでも、どこをどう歩くか考える前に事務所のビルに辿り着いた。足が道を覚えているみたいだった。
 外の景色が見えるエレベーターに乗っていつもの階まで上って、事務所のドアを開ける。
 どうやら私は相当な早足でここまで歩いてきていたようで、いつもよりも体が熱くて呼吸が苦しい。
 まず最初にプロデューサーの兄ちゃんを探してみると、机に座ってコーヒーを飲んでいるのが見えた。
 砂糖の袋もミルクのポーションも置いてない机だからブラックだと思うけど、あんな苦いものがどうして飲めるんだろう。
 オトナって不思議だと思った。
 でもピヨちゃんとかあずさお姉ちゃんはいつもコーヒーに砂糖をいっぱい入れる。
 律ちゃんが飲んでるカフェオレも貰ったことがあるけど、やっぱり甘かった。
 そうすると、不思議なのは兄ちゃんなのか。
 兄ちゃんって不思議だ。
 「兄ちゃん、おはよ」
 私が後ろから声をかけると、湯気の立っていないマグカップを手に持ったまま兄ちゃんがこっちを振り向いた。
 目をしょぼしょぼさせて、人差し指の腹でまぶたを拭っている。パパが寝ぼけてる時の仕草とおんなじだ。
 「あ、おはよう真美……あれ、亜美はどうした?」
 「亜美はお休みだよ。風邪引いて熱出しちゃってる」
 その瞬間、兄ちゃんの顔つきが変わった。寝ぼけた顔から、キリッと引き締まったプロデューサーの顔に。
 兄ちゃんが仕事モードになった。
 「真美は具合悪くなってないか? 風邪なら移ることもあるからな」
 私のことが真っ先に出てきた。「元気だよ」と答えると、兄ちゃんは口元を緩めて笑った。
 たったそれだけのことで、なんだかホッとしたような気がした。
 「今日は、午前中に雑誌の取材。午後はレッスンを、と思ったけど……」
 仕事自体は午前中に終わるらしいけれど、午後は新曲に向けてレッスンする予定だ、と兄ちゃんは知らせてくれた。
 でもスタジオが空くまで時間がかかるから、待っている間はオフになるらしい。
 「俺はショッピングモールに行くつもりなんだけど、真美も来るか?」
 「え、ついてっていいの?」
 「ああ。最近仕事頑張ってるし、欲しいものがあったら買ってやるよ」
 「わーい、やったー!」
 亜美と私とでおねだりしてばっかりなのに、兄ちゃんから『何か買ってやる』なんて珍しいと思う。
 そうと決まれば、今日は……いやいや、今日もやる気120%で頑張るっきゃない。
 「よーし、今日は真美、亜美の分まで頑張っちゃうからね!」


 雑誌取材の人が来る前に取材内容の受け答えについて兄ちゃんと話し合った。
 今日の記者さんは、女の子向け雑誌の編集者さんらしい。
 アイドルに恋愛のスキャンダルは禁物、ってことで、そういう危ない質問は極力はっきり答えない方向で、と念を押された。
 それからしばらくして、雑誌の記者の人が来た。
 少し前に発表した新曲のこととか、TV出演のこととか、双海亜美にとって歌うこととは……みたいなことを聞かれた。
 途中途中で写真をパシャパシャ撮られながら取材は順調に進んで、いよいよ終わりって雰囲気が漂ってきた所に、
 「ところで、亜美ちゃんにステキな恋のお話はなにかありますか?」
 と、不意打ちみたいに用心していた話題が来た。
 「うーん、そういうお話ってまだ亜美には分からないかな〜。スキな人はいないよ」
 兄ちゃんと話し合った通り、あらかじめ用意していた答えで受け流す。『真美』と言い間違えることもしなかった。
 でも、半分は本当のことだ。誰かを『好きになる』って気持ちが何なのか、正直言って良く分からない。
 学校で男の子から告られたことはあったけど、良く分からないから断ってしまった。亜美もそうしたと言っていた。
 クラスの中にはもう男の子と付き合ってる子がいる。そんな子はどんな気分でカレシと過ごしているんだろう。
 気になった。


 取材内容にはすぐにOKが出て、雑誌の人はいい写真が撮れたとほくほく顔で帰っていった。
 「今日の受け答えは良かったよ」と兄ちゃんも頭をナデナデしてくれた。
 兄ちゃんの大きな手。パパの手も大きいけど、兄ちゃんの手はそれよりももうちょっと大きいかもしれない。
 「さ、じゃあ買い物行くか?」
 「うんっ!」
 何を買ってもらえるんだろう。
 私の頭の中はそれ一色になっていたが、車に乗り込む直前、亜美にもお土産を買わないと、と思い出した。


 前にも来たことのあるショッピングモール。全部を見ようと思ったら一日かかってしまうほどの広さ。
 そのモールの中は、休日の午後だからか人が物凄くいっぱいいる。
 そんな人混みの中を、あらかじめ兄ちゃんはどこに行くか決めていたようで、地図を見ながら目的地に向かう。
 私は、その後ろをついていくけれど、何しろ周りを歩いている人は私より背の高い人ばかりで、動き回る木が生えている森の中を
歩いているような気分になって、時々兄ちゃんを見失いそうになってしまう。
 歩いている人に時々ぶつかっては謝っていると、兄ちゃんの背中が遠くにあってどんどん小さくなっていった。
 「兄ちゃーーーーん! 待ってーー!」
 どうしよう、と考える前に私は叫んでいた。
 「ん……?」
 「あれ、この子どっかで……」
 「亜美ちゃんそっくり……ていうか本人?」
 ビックリした周りの人達が足を止めて一斉に私の方を見た。
 (あっ、やばい……かも)
 ザワつき始めた人混みの向こうから兄ちゃんが急ぎ足でこっちにやってくる。
 「す、すみません、ウチの妹がご迷惑を……さ、真美、行くぞ」
 私の名前を強調して言いながら、兄ちゃんが私の手を取って足早に歩き出した。
 何重にも重なった視線から逃げ出すように、私も小走りで兄ちゃんのペースに合わせる。
 兄ちゃんの手は私の手よりあったかくて、どうしてか分からないけど胸がドキドキした。
 「……悪かったな、よく後ろを見てなかった」
 「ううん、真美こそ大声出しちゃってごめんね。……それより、兄ちゃん『妹』って言ったよね?」
 「ん? ああ、ついな。ウチのアイドル、なんて言ったら変なことになりかねないし」
 「あ〜、それでかぁ。そうだよね、お仕事で来てるんじゃないもんね」
 プロデューサーの兄ちゃんが、私達の本当のお兄ちゃんならいいのにな、と思った。
 今度は、兄ちゃんは私のペースに合わせてさっきよりもゆっくり歩いてくれた。
 いつもは私と亜美が駆け回って兄ちゃんが後から追いかけてくるパターンだから、こういうのは新鮮だ。
 手を繋いだままひょこひょこ着いていくと、やってきたのはCDショップの前だった。
 「ちょっとCD買ってくるんだけど、隣の本屋ででも待っててもらえるか?」
 CDショップには今では当たり前のように亜美たちのCDが並んでいる。
 私が中に入ればさっきみたいなことになると兄ちゃんは思ったんだろう。私もそう思う。
 「うん、分かった。立ち読みしてるから終わったら呼びに来てね」
 一旦手を離し、兄ちゃんが店の中へ入っていくのを見送ると、私も隣の本屋に入った。


 (あ、この雑誌、さっき取材に来た人達のだ)
 今日の取材の時にタダで貰ったのと同じ雑誌が何冊も並んでいた。
 その内の一冊を手に取ってパラパラとめくっていると『見逃すべからず恋のサイン!』という見出しが目に入った。
 見出しのすぐ下には、プリクラに仲良く移っているカップルの写真がペタッと貼り付けられていた。
 『何気ない『スキスキサイン』。本当はビビビッと来てるのに、自分で気付いてない……なんてこと、ありませんか?』
 そんなような文章があって、来月自分が載る予定だということを忘れて視線をそこに落として読んでいく。
 (胸のドキドキ、視線を離せない、仕草を真似てしまう、声をかけられると嬉しくなる……)
 箇条書きになっている項目に一つ一つ目を通す度に、自分の経験を振り返ってみる。
 あるような、ないような……はっきり「そうだ」と断言できるものは無いように思えた。
 パラパラページをめくってみると、他はメイクはファッションのページが大半を占めていた。


 「終わったよ、真美」
 後ろから声をかけられて、雑誌を積み上げられていた場所へ戻して兄ちゃんの方へ向き直った。
 兄ちゃんは右手から黄色いビニール袋をぶら下げていた。
 「じゃ、俺の用事は終わったから次は真美のお買い物だな」
 「わーい! ……あ、でも何買ってもらうかまだ決めてないや」
 店の外に出ると、辺りの人通りはまだ多かった。
 「うーん、やっぱり人多いなぁ」と言いながら、兄ちゃんは空いた左手を差し出してきた。
 さっきみたいなのはやだなぁ、と思いながらその手をギュッと握り締めた。
 (あっ……この感じ)
 さっき感じたのと同じ、胸のドキドキ。体中の温度が一気に上がったような気がした。
 「ん、どうした?」
 歩き出そうとして足が止まったままの私の方に兄ちゃんが振り向いた。
 なんでだろう。兄ちゃんのその顔を見たら、顔が急に熱くなった。
 「な……なんでもない。行こ」
 恥ずかしい? キンチョーする? どっちだか分からないけど、とにかく手足の先がムズムズした。
 一緒に歩いている間、何メートルか歩いては兄ちゃんの顔が気になってチラチラ見上げた。
 じっと見るのは、なんだか恥ずかしい気がした。
 ジュエリーショップ、雑貨屋さん、サーティワンの看板が見えても、一向に何を買ってもらうか思い浮かばなかった。
 そんな中、ゲームコーナーの中に置かれたプリクラの筐体が目に入った。
 「兄ちゃん、プリクラ撮ってこうよ」
 さっきの雑誌に写ってたプリクラを思い出したら、口が勝手に動き出してそう言っていた。
 「ん、プリクラか。いいよ」
 兄ちゃんが二つ返事でそう言って、お互い足をゲームコーナーへ向ける。
 早速空きの筐体を見つけて、カーテンをくぐって中に入った。
 後ろの緑色のスクリーンを一瞥して全体をぐるりと見回してから、兄ちゃんが財布を取り出して百円玉を三枚投入した。
 「真美とのツーショットなんて、珍しいよな。いつもは亜美もいるから」
 「そ……っ、そうだね」
 ツーショットなんて友達といっぱい撮ってきたのに、なぜか兄ちゃんとのそれは凄く特別なもののような気がした。
 「ところで、真美」
 兄ちゃんがじっと私の顔を見つめる。
 「なんか顔赤いけど、大丈夫か? まさか熱があるんじゃぁ……」
 大きな体を屈めて私と目線の高さを合わせながら、ぺたっと兄ちゃんの手がおでこに触れた。
 「ま……真美は大丈夫だよぅ!」
 体調は悪くないつもりだけど、体中がカッカと火照って本当に熱が上がってしまいそうだった。
 (あぁ、そうか、もしかしてこれが……)
 さっきから感じていたドキドキや恥ずかしさやムズムズ。
 これが、『スキスキサイン』って奴なんだ。
 『好き』ってこういう気持ちになることなんだ。
 霧がさーっと晴れたように、モヤモヤしていたのがすっきりしたような気がする。
 (あれ、でも……何をすればいいんだろ)
 とりあえず、まずは目の前で待ち遠しそうにしているプリクラを撮りたい、と思った。
 それも、さっきの雑誌に載ってたのみたいに、抱っこしてもらったり、抱き合ってたりするような物を。
 「とりあえず撮っちゃおうよ、兄ちゃん」
 「そうだな。ポーズとかはどうするんだ? 真美に任せるよ。俺はよく分からないし」
 ステージに上がる前みたいに、ちょっと緊張した。
 こんな時、兄ちゃんは「思い切って行ってこい」ってよく言ってた。
 その言葉通り、思い切って言ってみようと思って、グッと拳を握り締めた。
 「真美が前に立つからさ、兄ちゃんはこう……後ろから抱っこしてよ」
 「えっと……こうか?」
 私が前に立って兄ちゃんを促すと、長い腕が体の前で交差して、大きい手がお腹の前に置かれた。
 そのまま体を後ろに倒して寄りかかってみると、兄ちゃんはぐっと抱き寄せてくれた。
 ちょっと恥ずかしいけど、それ以上に嬉しさが内側からどんどん湧いてきた。胸に甘酸っぱさが込み上げてくる。
 心臓がバクバク言っていて、体の中でうるさいぐらいに響いていた。
 「うん……じゃあそのまんま……」
 コンピューターがカウントダウンを始めるのに合わせて、笑顔を作ってみた。
 ピカッと目の前が真っ白に光って、『二枚目の撮影をします』とアナウンスが流れた。
 「今度はどうするんだ?」
 兄ちゃんの顔はいつも通りで、私みたいに緊張したりドキドキしたりしているような感じはしない。
 ちょっと悔しかった。もっと思い切ったのを撮ってやろうと思った。

 撮影終了、しめて四枚ナリ。
 フレームの落書きは私が担当することになって、兄ちゃんはゲームコーナーの外へと歩いていった。
 撮影した写真を確認してみると、後ろから抱っこされた写真が一枚。横向きになって抱き合った写真が一枚。
 横抱きにされた『お姫様抱っこ』の写真が一枚。そして最後に、普通に横並びでピースしている写真が一枚。
 「うわぁ、なんかこうやって見てみると、恥ずかしいなぁ……」
 撮っている最中は夢中だったが、どの写真も密着度が凄い。三枚目なんかは顔がすぐ近くにある。
 よく撮影中に自然な笑顔を浮かべていられたと思う。撮影のお仕事で得た経験に感謝……かな?
 兄ちゃんは素直に私の言うことに従ってくれたけど、兄ちゃんは恥ずかしくなかったんだろうか。
 これは亜美には……というか私と兄ちゃん意外は誰にも見せられないな、とフレームに落書きしながら思った。
 落書きを終えて、プリントアウトされてきたシールを二人分に切り分けて、外で待っている兄ちゃんの下へ向かう。
 「終わったよ兄ちゃん。はいコレ」
 「ありがとう……って、ははっ、凄いの撮れちゃったな」
 「へへ……そ、そうだね」
 驚きながらちょっと照れ臭そうな兄ちゃんを見て、私も急激に恥ずかしさが込み上げてきた。
 「兄ちゃん、このプリクラぜーーーったいナイショだよ! 真美と兄ちゃんだけのヒミツなんだからね」
 「あ、ああ。こんなの他の人には見せられないよ」
 兄ちゃんが手帳を取り出して、その中にプリクラをしまいこんだ。
 私も、プリ帳ではなくスケジュール帳を取り出してカバーの裏に隠すようにしてしまった。
 重大なヒミツの共有。
 でっかいイタズラを一緒にしてしまったような気分になって、笑いが漏れた。兄ちゃんも笑っていた。
 「さて、まだ時間はあるし、買い物の続きと行くか。何が欲しい?」
 「あ、えーっと……」
 そうか、まだ欲しいものを買ってもらっていなかった。
 ……とはいっても、思い浮かばなかった。このプリクラで今の所は大満足だ。
 「今は思い浮かばないから、今度でいいや……そうだ。亜美にお土産買って行こうよ!」
 「お、いいな、ソレ。美味しい食い物でも探しに行くか」
 「よーし、それじゃレッツゴー!」
 今度は、兄ちゃんが手を差し出す前に自分から握りに行ってみた。
 ちょっとビックリしたような素振りを見せたけど、兄ちゃんも握り返してくれた。
 誰にも言えそうに無い秘密と、お仕事の楽しみがもう一つ増えた。
 今日のこれからのことや、明日からのことを考えると、それだけでワクワクしてくる。


 「人を好きになるってとっても素敵!」って、大声で叫びたい気分だった。


 終わり



―後書き―

亜美真美は真美の方が精神年齢の成長は早そうな気がします