幸せになろうね


 鏡の中 ため息が一つ。
 俺がプロデューサーをやっていた頃に担当していたアイドル歌っていたフレーズをふと思い出した。
 鏡の中、憔悴した男。
 『ため息が一つ』なんていう物ではない。思っていたよりも遥かに強い、胃袋を押しつぶされるような緊張
に俺は心底参ってしまっていた。
 「はぁ……」
 新しく建てたばかりと言ってもおかしくないほどに壁も床もピカピカなトイレの中に、鏡を曇らせるような
低い溜息の音がこだました。初めてドームでのコンサートに挑んだ時や、全国ネットに流れる生放送番組の司
会を任された時の彼女が味わった緊張の何分の一かは味わっていることになるのだろうか。
 スーツのポケットを探る。本日の最重要アイテムは忍ばせてある。高層ビルの最上階近くに店を構え、いつ
もは下から見上げてばかりいるコンクリートの林を高みから見下ろせる、料理の美味しさだけでなく、そんな
夜景の美しさでも評判のレストランに予約も取った。この時のために、仕事終わりに時間を作れるよう何ヶ月
も前から予定していた計画は、最後の一押しを残す所のみとなった。
 「…………」
 スーツの内ポケットから手帳を取り出した。表紙を開けば、その裏には柔らかい笑みを浮かべる律子の写真
が挟んである。
 もう何年の付き合いになっただろうか。今日、これから俺は、律子にある重大な選択を迫ることになる。恐
らく、俺にとっても律子にとっても、これまで生きてきた人生の中で最も大きな選択になるだろう。
 何を言おうかは散々考えた。暗唱できるほどに何度も何度も練習してきたセリフを、頭の中で今一度繰り返
してみれば、思い描いた通りの言葉が浮かんでくる。何をどの順番で言うか。最後に言う言葉は何か。いつ、
律子にアレを渡すか。何十回と繰り返してきたイメージトレーニングは完璧だ。
 それなのに、掌の汗が止まらない。快適な温度に保たれているはずのトイレの中が、暑くて仕方が無い。コ
ースの豪華な食事自体はもう済んでいて、後は食後のワインがグラスに残っているぐらいだ。だが、何を食べ
たのか、どんな味がしたのか、美味しかったのか不味かったのかすら、俺は何も覚えていなかった。
 腕時計を確認すると、トイレに入ってからもう十分近くが経過していた。もう時間切れだ。これ以上律子を
待たせてしまうことはできない。
 「答えは……すぐに分かるよ」
 行けば分かる、と、鏡の中の自分を真っ直ぐに見つめて、そう言い聞かせた。鉛を括りつけたように重たか
った足は、一歩を踏み出した瞬間、少しだけ軽くなったような気がした。

 
 トイレから戻ると、いかにも退屈そうな顔をして律子はワイングラスを傾けていた。そんなに量は多くなか
ったので大丈夫とは思っていたが、顔が紅潮している様子も無い。食事とサービスで五桁の値段に乗る、フォ
ーマルな服装が望ましいようなレストランということもあり、ビジネススーツに身を包む律子も今日ばかりは
お下げ髪をほどいていた。
 「……ふぅ」
 腰を下ろす。律子の視線はステージでムーディーなサウンドを作り出すジャズバンドの方を向いていたが、
すぐに俺に戻ってきた。
 「ふふっ……どうしたんですか? そんなに緊張した顔して」
 全身の強張った俺とは対照的に、律子の口調はとても穏やかだ。
 「あ、あぁ。思ってたより立派な所だったから、ついな」
 「……うそつき。今朝出勤した時からソワソワしてたじゃないですか」
 「ははっ、やっぱりバレてたか」
 「当然じゃない。ほとんど毎日顔を付き合わせてるんですから。……で、何かあったんですか?」
 「何か、って……どうしてそう思うんだ?」
 「仕事の帰りにどこ連れて行かれるのかと思えば、夜景の綺麗な高級レストランの、一番いい窓際の席。誕
生日とか記念日でもないのに随分ムードを意識しちゃって、どうしたんだろうな、って」
 「へ、変か?」
 「ううん。でも、あなたにしては珍しいじゃない」
 窓の外に顔を向けて、暗闇の中で輪郭を浮き彫りにした街を眺める律子の表情は、あくまでも嬉しそうだ。
会話が途切れがちで気まずくなったり、ということも無さそうだし、話を切り出すにはいいタイミングだ。
 テーブルの下に隠した拳に、力が入った。


 「……実はな、律子。今日は大事な話があって」
 「うん……何?」
 ゆっくりと、律子が振り向いた。ジャズバンドの演奏が終わり、他の客の拍手も止み、レストランの中に静
寂が訪れた。時が止まった。幾度と無く繰り返してきたシーンを頭の中で流し、現実とシンクロさせていく。
 「目を、閉じてくれないか?」
 真っ直ぐに律子の目を見つめながら言うと、律子は素直に従ってくれた。レンズの奥の瞳が閉じられて、長
い睫毛に縁取られた上下の目蓋が合わさる。
 「……はい」
 「そのままでいてくれよ……」
 と言ってしまってから、しまったと思った。左手を出してもらうように頼むのを忘れたのだ。のっけからい
きなりシミュレーションとは展開が違ってしまったが、ここは臨機応変に行かねばならない。席を立ち、向か
いに座る律子の隣にしゃがみこんで、自分のスーツのポケットを探る。音を立てないようにジュエリーケース
を開き、ここぞとばかりに奮発した指輪を取り出して、ダイヤモンドが上に来ていることを確かめてから律子
の左手を取る。細い薬指には、まだ指輪が着けられていない。これから着けるのだ。方向こそ同じであれ、ず
っと二つに分かれていた俺と律子の生きてきた道が、一つの道になる……その契約を結ぶために。
 指輪を通し終えても、律子は左手をぴくりと微かに震わせただけで、声もあげずにじっとしてくれていた。
 「いいよ律子、目を開けてくれ」
 左手は掴んだまま律子に呼びかける。律子を下から見上げる俺と、キョトンとした顔で俺を見下ろす律子。
さながら、女王の前に跪いて生涯の忠誠を誓う騎士だ。人生において最大と言ってもいい契りを交わすには、
いい位置かもしれない。
 瞳を潤ませながら、微かな物音にさえかき消されてしまいそうな声で、律子が俺の名前を呟いた。


 「秋月律子さん……俺とけっ──」
 意を決して走り出そうと勢い良く地面を蹴った時に限って、足元の小石につまづく──
 結婚してください。その一言を言おうとした瞬間、声が裏返ってしまった。
 「けっ……ぐ、ゴホッ……!」
 一呼吸置いて言い直そうと唾を飲み込んだら、今度は唾液が器官に入って激しくむせかえった。
 ああ、ダメだなぁ。俺ってば本当に、こんな時にまで。カッコいい所を見せようとすれば、これだ。


 「……焦らないで、深呼吸、深呼吸」
 簡単なはずの一言を言えずにいる俺を励ますように、責める様子など素振りも見せず、律子はにっこりと微
笑んでくれた。折角の雰囲気もぶち壊し。ご機嫌斜めになったっておかしくないのに、どこまでも優しい声。
 顔の火照る思いだった俺は、訳も分からないまま深呼吸をした。すると、ザワついていた心の波紋が澄み渡
り、体を縛り付けていた緊張の鎖が音も無く崩れ去って、嘘みたいに気持ちが落ち着いた。
 「……ごめんな、こんな時にまでダサくって」
 自然と、俺の口元が釣りあがるのが感じた。照れでは無く、胸のつかえが取れた爽快感から来る笑いだった。
 「ううん、いつものことじゃない」
 「はは……身も蓋もないな」
 「ねぇ、聞かせて。大事なこと、言おうとしてたんでしょ?」
 あなたのことは全てお見通し。律子の瞳はそう言っていた。多分、もう俺の思惑は、バレている。それでも
律子は、俺の口から出るその言葉を待ってくれていた。天井から吊り下げられたランプの穏やかな光が、左手
の薬指に乗ったダイヤモンドを照らす。その光すら、俺の背中を押してくれるようだった。


 「結婚しよう」

 まるで事務所で交わす朝の挨拶のように、画竜点睛の一言は驚くほどあっさりと紡ぎだされた。

 「うん、結婚しよっか」

 一寸の躊躇も無く、律子は頭を大きく縦に振ってくれた。

 ジャズバンドのドラムがけたたましく鳴り響いた。サックス、エレキギター、ベースが一斉に続き、賑やか
なサウンドが辺りを満たす。自分と律子の二人しかいないように錯覚した世界がレストランのフロアに返り、
頭が現実に引き戻された。
 「……ふふふっ……」
 「くくっ……折角頑張ったのに、ムードのかけらも無くなっちまったな」
 ドラマチックな演出は、俺が全部台無しにしてしまった。しかし、不思議なぐらい清々しい気分だった。案
ずるより生むが易し、という諺が思い浮かんだが、微妙にこの状況には当てはまらないかもしれない。俺がプ
ロポーズしてから、律子から答えが返って来るまでにかかった時間は……五秒にも満たなかっただろう。

 「……なんとなくね、いよいよかなって気はしてたの」
 立ち上がって自分の席に戻った俺に、律子はそう言った。
 「なんだよ、気付いてたのか」
 「普段誘ってくれる時と雰囲気が全然違ってたし、こんないい場所に連れてこられたらね。頑張ってセッテ
ィングしたのに空回りしちゃう所があなたらしいけど、うふふ」
 下膨れのグラスの中で、くるくるとワインが踊る。
 「興醒めだったか?」
 「そんなわけ無いじゃない。嬉しいわ。"嬉しい"なんて言葉じゃ表現できないぐらい」
 「そうか。律子が喜んでくれたなら、俺はそれで……」
 「……でも、もうちょっとロマンチックな展開を期待してたのにな……」
 唇を尖らせる律子の言葉が、俺の脳天にグサリと突き刺さる。
 「それに、やらなくちゃならないことが一気に増えましたよ。式の日程とか、どこでやるかとか、ドレス見
に行ったりもしたいし、誰を招待するかも考えなくちゃですし、かかる費用の見積もりも出さなくっちゃ」
 ボロボロ涙をこぼしながら俺にOKをくれる律子、なんていうシーンを考えていたが、どうやらただの空想に
終わってしまったようだ。妙に冷静に先の展開を語る律子に今言った言葉をそのままお返ししてやりたい気持
ちになった。でも、かえってこの方が俺達らしいのかもしれない。そう考えると、肩の力がふっと抜けて楽な
気分になった。
 「そうだな。早い所お互いの両親に顔合わせも済ませたいし……スケジュールを調整しよう」
 一世一代の大勝負、プロポーズの場だった丸型のテーブルが、会議室の机に早変わり。もう何百回と繰り返
してきた律子とのミーティングが、今日も始まった。



 「なぁ律子」
 「なんですか?」
 「その指輪、どう?」
 夜のビジネス街に見られる、飲み会帰りのOLやサラリーマンに紛れて歩きながら、俺は律子に尋ねてみた。
 「いいデザインですよね……ゴテゴテしてないし、普段から着けちゃおうかしら。もう堂々と薬指に通せる
ことですしね」
 「いくらしたんですか、とか訊かないのか?」
 「訊きませんよ」
 「どうして」
 「もし安物だったらそれこそ興醒めですからね。高かったでしょ? それで十分です」
 「そっか。なぁ律子」
 「はい」
 「家事は交代でやろうな」
 「あ、それ、こっちから言おうかなーと思ってたんですけど」
 「共働きだからな。何もかも律子に任せっきりじゃ、大変だろ」
 「うん……ありがとう」
 「ああ、でも楽しみだな。朝一緒に家を出て、夜も一緒に同じ家に帰ってくるんだ」
 「……うん……」
 「寝室は一緒がいいな。でっかいベッドを買ってさ……別に、変な意味じゃないからな」
 「…………」
 テンポ良く続いていたキャッチボールが突然途切れた。二人分の足音も聞こえなくなって、隣にあった気配
が忽然と姿を消した。
 「律子?」
 足を止めて後方を振り向くと、街を行く人々の流れの中で足を止めて立ち尽くす律子の姿があった。外した
眼鏡を右手で支え、目元を覆う左手の甲から一条の光が夜の空気に抜けて行き、その奥にも、キラキラと美し
く光る物が見えた。出会ってから何年にもなるのに未だに見たことが無かった、律子の涙。
 「う……っく……うぅ……!」
 すすり泣く嗚咽と共に、顎から垂れた涙が灰色のアスファルトをぽたりぽたりと濃く染めていく。
 「本当に……ぐすっ……いいの? わ、たし……なん、か、で……」
 「律子っ」
 今にもその場に崩れ落ちてしまいそうな律子の肩を抱いて支えると、人波の流れがぴたりと止まった。幾つ
もの視線が一斉に俺と律子に集中するのが、確認するまでも無く分かる。派手さの無い律子のルックスはそう
目立つものではないが、律子は今でも有名人だし、それに、人の行き交う道のど真ん中で女性が涙を流してい
てはどうにも注目を集めてよろしくない。
 「律子、ひとまずこの場を離れるぞ」
 ウンともスンとも返事を聞かない内に、半ば強引に細い手を握って律子を引っ張って俺は歩き始めた。どこ
に行こうかなんて考えちゃいない。どこでもいい。人気の無い所なら、どこだって。
 


 泣き止まない、しかし俺の手をしっかりと握り締める律子を連れて細い道へ細い道へと行く内に辿り着いた
のは、小さな公園だった。滑り台、ブランコ、ジャングルジムに砂場。見覚えのある位置関係──。
 そうだ、ここはまだ雑居ビルの一角に居を構えていた頃の765プロの近くにある公園だ。砂場の隣に屋根のあ
るスペースがあったはずだ。確か、ベンチはそこに……。
 「律子、あそこに座ろう」
 「う……うん……」
 こくこくと頷く頭をそっと撫でてから、律子をベンチに座らせて、その隣に俺も腰を下ろす。何も言わずに
じっと待っていると、程なくしゃくりあげる声が鎮まり、荒かった律子の呼吸が次第に平静を取り戻した。
 「落ち着いた?」
 「あ……はい。すいません、見苦しい所を……」
 ポケットからハンカチを取り出し、目元を綺麗に拭ってから、律子の眼鏡は元あるべき所へ収まった。
 「見苦しいもんか。泣き顔も綺麗だったよ」
 「……ばか」
 ぱしん、と肩を平手ではたかれた。ちっとも痛くない。
 「……律子が泣いてる所を見たのは初めてだ」
 「でしょうね。私、人前では絶対に涙を流さないことに決めてたんで」
 「決めてた……過去形なんだな」
 「だってしょうがないじゃない。もう見られちゃったんだから」
 「……そうだな」
 ふぅ、と律子が小さく息を吐いた。ぽつんとたたずむ街灯の明かりの向こうの空に、くっきりと月が見えた。
 「私のラストコンサートの日、覚えてます?」
 「ああ、今でもはっきりな」
 「あの日ほど緊張した日はありませんでした……お別れコンサートの他に、もう一つビッグイベントが待ち
構えてたから。プロデューサーに励ましてもらえないから、私一人で勇気を出さなくっちゃいけなくって……」
 ビッグイベントとは、新事務所を立ち上げる話を俺に切り出したことを言っているのだろう。自身がアイド
ルを卒業すると同時に765プロを抜け、更にプロデューサーを引き抜いていく……確かにビッグイベントだ。
 「プロデューサーの人生を変えてしまう選択を迫ってたんです、私。だから、今日のあなたの気持ち、凄く
分かるんです。ああ、緊張してるんだろうなぁ、不安に押し潰されそうになってるんだろうなぁ、って」
 言われてみれば、あれは人生の転機だった。いきなり芸能事務所の社長になるなんて、荒波渦巻く大海へ漕
ぎ出したような気分だったが、日々が刺激に満ち溢れていた。次第に経営も軌道に乗り始め、会社の規模が大
きくなって事務所を引っ越した時は、興奮して夜も中々眠れなかったものだ。律子の誘いに乗っていなければ
あの興奮は無かっただろう。
 「新しく芸能事務所を立てて、やりたかったアイドル育成の仕事を、一緒に仕事をしたかった人とやってい
ける……幸せでした。その内、ずっと好きだったプロデューサーとも恋人同士になって……これ以上の幸せな
んてあるんだろうか、って本気で思ってたんです」
 ぽっと頬を染めながら、律子がちらりと俺の顔を見た。
 「でもさっき、あなたにプロポーズされて、色々考えたんです。……カッコ悪かったから、しばらく頭から
飛んじゃってましたけど」
 「そこ、一言多いぞ」
 俺の突っ込みに、律子はぺろりと唇から舌を覗かせた。
 「店を出るぐらいから、『あなたと結婚したらどんな生活を送るんだろう』って考えてて……胸がはちき
れそうなぐらいになっても幸せな気持ちが止まらなくなって、私、こんなに幸せになっちゃっていいのかな、
って思ってた所に、あなたがあんなこと……言うから……もう、ガマンできなくって……!」
 穏やかな調子で語り続けていた律子の声が、小さくなる語尾と共に震え始めた。
 「ねぇ……本当にいいの? 私みたいなカタブツと結婚しちゃって……後悔、しない?」
 「おいおい、今更何言ってるんだよ。後悔なんてするわけないだろ」
 「あなただったら、もっといい人見つかるかもしれないのに……」
 「俺にとって、律子以上にいい人なんていないよ」
 「口、キツイし、お小言、いっぱい言っちゃうわよ?」
 「何も言われない方が寂しいよ。大歓迎だ」
 「お買い物、一緒に行ってくれる?」
 「勿論だ」
 「私の方が帰り遅くなっても……寝ないで待っててくれる?」
 「いくらでも待つよ」
 「……朝ごはん、一緒に……食べてくれる?」
 「ああ。たまには俺も作るよ」
 「仕事……無い日は……寝坊、してもいい?」
 「いいとも」
 日頃、あんなに現実をシビアに見つめる人間が抱く願望……なんて平凡で、なんてささやかで、なんて可愛
らしいんだろう。律子の頭を抱き寄せ、あやすように柔らかい髪に指を通しながら、胸が熱くなる思いだった。
 「ひっく……わ、私のこと……好き?」
 「好きなんてもんじゃない」
 両の掌で頬を包むようにして律子の顔をこちらに向かせる。今にも瞳から大粒の涙が零れ落ちそうだ。
 「愛してるよ、律子」
 しっかりと見つめあい、心の底から言葉を吐き出すと、涙の雫が滑らかな頬の上を滑った。
 「う……嬉しいよぉ……わた、私もっ……! うぁ、ああぁぁ……!」
 「なんだよ、意外と泣き虫なんだな。ほら、眼鏡持っててやるから」
 ボロボロ涙を零す目元からそっと眼鏡を外し、俺のスーツの胸ポケットに引っ掛けて、子どもみたいに声を
上げて号泣する律子を胸元にきつく抱き寄せた。目頭が熱くなってきて、俺まで泣いてしまいそうだ。大きな
コンサートを成功させる度に目を真赤に腫らしていた俺の泣き顔なんて、律子はさぞ見慣れていることだろう。
 「よしよし……俺以外は誰もいないから、思いっきり泣いていいんだぞ……」
 「うぅ……だ……だーりぃん……」
 律子が俺を見上げた。まだその顔は涙でぐしょぐしょだ。
 「しっ……幸せに……幸せになろうねっ……!」
 「……ああ……そ、そうだな……」
 再び、律子が俺の胸に顔を埋める。頬を熱いものが伝うのを感じた。
 くっきりと空に輝いていた月は、ぐずぐずに滲んでしまって、もはや見えなかった。



 終わり



―後書き―

11月2日、若林さんのご結婚にあたり、いつか書こうと思っていたプロポーズのシーンを書いてみました。
折角だから思い切り濃いのを書いてやろう!と思って書いたら今までに無い濃度となった気がします。
ドラマチックな話になるよう頑張ってみたけど、果たしてその狙いが読む側の人に伝わるか、どうか。