線香花火






 暑い。暑い。暑い。アツい。あつい。あつい。
 いくら暑いと言った所で涼しくなるわけはないのだが、唇が勝手に動く。
 何しろ、真夏の炎天下、アスファルトからの照り返しの中を歩いているのだから、暑くないはずがない。
 遠くを見れば、道路の高さの景色がゆらゆらと歪んでいた。
 早い所外回りの営業から事務所に戻って涼みたい。
 「立ち止まるなよ…あとちょっと……ほら事務所が見えてきた」
 毎日のように出社している765プロダクションのお出ましだ。
 中に入れば空調の効いた冷たい空気が待っている。
 まず始めに何をしよう。そうだ冷蔵庫の中から冷やしたお茶でも出してグッとやろう。
 ああビールも飲みたい。飲みたいがさすがに昼間から酒は無理だし、この後も担当アイドルの仕事があるのだ。
 
 「ただいまー……」
 熱気にやられて疲弊しきった俺を、
 「うわー、お疲れ様です」
 パソコンのディスプレイの隙間からひょっこり、律子が顔を覗かせた。
 この後、もうしばらくしたら外に出る自分の運命を思ってか、げんなりした様子で苦笑している。
 (ふふふ、そうだ律子。お前も灼熱地獄を味わうがいい……)
 額から汗をダラダラ垂らしながら、思わず口元が上がった。
 自分のデスクの椅子に引っ掛けたタオルで熱気の残り滓(かす)を拭いながら、冷蔵庫へ歩いていく。
 名前を書くまでも無くサイズで俺専用と分かる、2リットルサイズの麦茶のボトルを取り出してラッパ飲みする。
 キンキンに冷えた液体がこめかみを圧迫するような痛みを神経に送るが、それよりも喉を潤す方が先だ。
 「……ぷはっ。ふー、生き返るなぁ」
 「プロデューサー、オッサン臭くなるにはまだ早いんじゃないですか?」
 律子がくすくすと含み笑いをしている。
 「なにをぅ、いいじゃないか」
 もう一拭い、タオルで額や首筋を拭いていると、ポケットの中の働き者がアブラゼミの腹のように震え始めた。
 アドレス帳に登録されていない番号からの電話は、この後の仕事先に予定されている撮影スタジオからのものだった。
 「えっ、今日のPV撮影は延期……日程の間違いって……そ、そうですか」
 また日程を取り決めて連絡する、とまで聞いて通話が切れ、働き者の携帯電話を折りたたんで元あった場所へ押し込んだ。
 さて、手帳を開いて今日の予定を再確認すると、どうやら残す所はPV撮影だけだったようだ。
 「律子、先方の手違いで今日の撮影は中止だそうだ。もう上がっていいぞ」
 俺の声にエビフライ頭が振り向くと、やはりと思ったがあからさまに眉を下げて口をへの字にしている。
 「それって向こうのミスじゃないですか。あーぁ、折角食べ物に気を遣って肌の調子整えてたのに」
 メガネの弦を指で挟んで、クイッと上げた。文句の一つでも言え、と目は言っている。
 「そう言うなよ。知名度が上がってきたとはいえ、俺たちは仕事を貰ってる立場だし、こういう時もあるさ」
 「むぅ……それはそうですけど…。もう、仕事が無くなった空白の時間をどうしろって言うんですか……」
 待ち時間中にだいたいの書類は終わったし、と律子が付け足す。
 有給で今日は出社していない小鳥さんの代わりを勤めていたが、あらかた片付いて本当に手持ち無沙汰らしい。
 あぁそういえば、と、先ほど外を歩いていた時に見た光景を思い出した。
 「祭りでも行って来たらどうだ?近くの神社に盆踊りのお立ち台があったし、今日辺りやってるだろ」
 律子の瞳が一瞬キラリと光ったが、片眉をぴくりと釣り上げて、レンズ越しの鋭い視線を俺に突き刺してきた。
 「……一人で行ってこい、と?」
 「な、なんでそうなるんだ。学校は夏休みだし、友達を誘えるだろ」
 俺がもっともなことを言うと、律子はハァと大きな溜め息をついた。わざとらしかった。
 「海行ってるんです、仲のいい友達はだいたいね。日焼けするのもマズイし仕事入ってるしで、断ってたんですよ」
 「あぁ、なるほどな。じゃあ、こういう機会もあまり無いからゆっくり体を休めて──」
 「だから、一人じゃ行きたくないって言ってるんです」
 苛立たしげな、トゲのある口調で割り込んでくる。
 「それなら事務所の他のコとか、小鳥さんなんかも呼べば来てくれるんじゃないか?」
 「他の皆は予定空いてませんし、休み取ってる人を呼び出すのもどうかと思いますよ」
 「じゃあ、どうしたら……」
 ああ言えばこう言う。口には出さず、俺が次の言葉を探して頭を捻っていると、
 「……もう、じれったいなぁ」
 ペン先が俺の目の前に突きつけられた。
 「失格です。罰としてプロデューサーが一緒に来ること。いいですね?」
 「え、俺が一緒に行くのか?っていうか、強制連行?」
 「拒否権はありませんので、ご了承下さい。仕事残ってたら手伝いますから」
 ボールペンの先端がくるくる回っている。蜻蛉がいたら目を回すかもしれない、と思った。
 祭りか……最後に行ったのは大学生の頃だったな。あまり興味も無くて、ただ友達に連れて行かれていただけだが。
 人混みのあまり好きでない俺は、祭りとか花火大会とか、夏の風物詩も敬遠気味だった。
 あらためて考えてみると、結構寂しい夏を過ごしていたような気がする。
 律子が若干怒っているように見えるのが気にかかるが、一緒に行くのがよく慣れた相手なら楽しくなりそうではある。
 「分かった。付き合うよ」
 よろしい──そう聞こえてきそうな、律子の納得した表情。腰に手を当てて、誇らしげだ。
 「まぁ仕事らしい仕事って実は俺も残ってなかったりするんだが……あぁそうだ、ミーティングやろう」
 今日の撮影が延期された分も加味して、スケジュールにある程度の修正を加えなければならない。
 他に話し合えることがあれば、今の内に現状の見直しなり今後の見通しを立てるなりしておきたい。
 俺が手帳とペンを取り出すと、律子もゴソゴソとバッグを探り始めた。


 ミーティングは滞り無く進み、先方からの連絡次第で変わるかもしれないがだいたいの調整は終わった。
 レッスンプランも見直し、売り出しの方向性についても少し話し合い、議題が見当たらなくなった所で終了となった。
 定時になると時報のなる765プロダクションの壁掛け時計は、午後四時を指そうとしている所だった。
 「さてと、じゃあ一旦上がらせてもらいましょうかね」
 そそくさと律子がペンケースやら手帳やらをバッグに詰め込んでいく。
 「あぁ律子、どうするんだ結局」
 言いがかりのような理由でついていくことにはなったものの、その話を全くしていなかったと思い出した。
 祭りに行くのは構わないが、汗が引いたとはいえシャワーが恋しかった。
 「六時に神社の鳥居前に集合しましょうか。仕事も済んだし、定時で上がれるでしょ?」
 六時か。それなら、退社して家に戻る時間はある。いかにも会社帰りな格好は、神社という場には全くもって不似合いだ。
 人差し指と親指でOKサインを出すと、それを合図に律子がぺこりと会釈してドアの向こうへ消えていった。
 定時までの一時間は、積み上げたままのファッション誌や音楽雑誌の類に使おう。
 最近の流行についてもしっかりつかんで、変化があるなら対応できるようにしなくてはならない。

 没頭していたらあっという間に時間は過ぎて行き、事務所を後にする社長に声をかけられて定時を過ぎていたことに気付いた。
 まだ事務所に人はいるので戸締りの心配は無い。
 社長を見送ってから俺も事務所を出て、車に乗り込んだ。
 太陽に蒸し焼きにされた熱気が中から俺を歓迎してくれるのを丁重にお断りして、数分待つ。
 熱い空気が程よく逃げた所で車に乗り込み、お気に入りのCDを流しながら家路に向かった。

 道は案外空いていて、家に戻ってシャワーを浴び、適当な服に着替えてから事務所へ戻ってきてもまだ時間に余裕があった。
 腕時計は午後五時四十分を指している。外回りの帰りに見かけた神社には、ここからなら歩いて約五分ほどだ。
 仕事帰りのサラリーマンやOLに混じって、ビジネス街にはそぐわないが風情のある浴衣姿の人をちらほらと見かける。
 その姿を見て、何も考えずにシャツとジーンズで来たことを少し後悔したが、どちらにせよ浴衣は持っていない。
 視界の中で鳥居がどんどん大きくなってくるにつれて、あのローソン店員のような水色のストライプを頭に思い浮かべる。
 (やっぱりまだ来てないか……おや)
 私の体は石でできています、と全身で主張する石灰色の鳥居の下に、浴衣姿の女の子が置物のようにちょこんと佇んでいた。
 木の葉を思わせる深い緑に、ところどころ、名前は分からないが鮮やかな赤い花をあしらった浴衣が可愛らしくて目を引く。
 その姿を見たら、ギラギラとした太陽が通り過ぎた夕方の空の下、気持ちいい風が頬を撫でた気がした。
 首の後ろでまとめてアップにした髪の毛を見て、ああ、この女の子は分かってるな、と心の中で呟き、そのまま通り過ぎようとした。
 (って、今のは律子じゃないか)
 つい目の前をすれ違いそうになり、二歩戻ってその女の子に視線を送ると、眼鏡越しにちくちくする視線をこちらに合わせていた。
 「今、気付きませんでしたよね? スルーしそうになってましたよね?」
 「い、いや、そんなことは無いぞ」
 会うなりいきなり律子の表情は強張っている。俺を下から見上げる格好だというのに、不思議なほど威圧感がある。
 一瞬視線を逸らしてしまったが、あらためて顔を見てみると、いつもよりしっかりとメイクが施されている上、
 「あ、眼鏡が違う」
 フレームは同じだが、いつもの黒縁と違う、深緑のメガネだ。浴衣の色に合わせたのだろうか。
 「あ、気付きました? この間買ってみたんです。弦の内側にイニシャルを入れてあるんですよ」
 指摘すると、逆ハの字に釣り上げていた眉を下げて、律子は口元を綻ばせた。
 「浴衣似合ってるよ」と素直に感想を述べると、律子にしては珍しく「もっと褒めろ」と言わんばかりの得意気な顔になった。
 仕事が無くなって不満そうだったが機嫌は良いようで、一安心だ。
 「プロデューサーも浴衣だったらよかったんですけど、まぁ、持って無いですよね。仕方無いか」
 行きましょ、と、鳥居の中を指差して、下駄をカラカラ鳴らしながら律子が歩き出した。
 帯の結び目には、白地に「祭」と黒で書かれた団扇が刺してあった。
 いつも剥き出しで見慣れているはずのうなじが今日は妙に色っぽかった。

 「あ、律子」
 早速出店の方に目を向けて品定めをしている律子を呼び止める。
 「なんです?」
 「甘いのは三つまでな」
 律子の目の色が変わった。視線の先を追ってみると、あぁやっぱり。
 案の定、クレープ、あんず飴といった、いかにもな文字が赤い暖簾に踊っている。
 「ぬぁぁんでですか! いいじゃない、最近ガマンしてるんだから!」
 怒号が飛ぶ。
 (意外と食い意地張ってるよな…)
 撮影を控えてる大事な時期なんだからと宥めるように言うと、面白く無さそうにしながらも渋々了解してくれたようだ。
 実際問題一日や二日でいきなり太ったりするわけでは無いのだが、折角節制しているものが崩れてしまいかねない。
 ダイエットの本来の目的は一時的な減量ではなくて維持なのだ。そこが見えていない女性たちのいかに多いことか。
 「むぅ……あ、ビールは飲んじゃダメ」
 どんな屋台があるのかと、首だけ回してあちこち見ていると、ビールを持った中年男性を見た律子に釘を刺された。
 「ええっ! そんな、仕事の後の一杯──その素晴らしさをお前……」
 「未成年にそんなの分かりません!……それに、私に甘いもの三つまでって言っておいてなんですかその言い草は……」
 呆れ顔の律子がジトッとした瞳で俺を睨んだ。いかんいかん。これじゃ俺も人のことは言えないな、
 まぁ、もし酔っ払ってしまったら勿体無いからな。浴衣姿の律子という珍しいものを拝めるいい機会なんだから。

 それから、射的をやったりヨーヨーを釣ったりと、祭囃子のカンカン鳴る中で出店の定番を一通り楽しんだ。
 律子は、三つまでという条件を忠実に守り、あんず飴・チョコバナナ・クレープと実に美味しそうに食べていた。
 やはり抜け目が無いというかなんというか、三つという縛りの中で最大限に食べられるチョイスをしていた。
 「甘いものじゃないですからね」
 と、焼きそばやたこ焼きも俺の横で食べていたので、むしろ制限しない方が良かったかもしれない。やれやれ。
 律子はあそこに行こうもう一度見ていこうと俺を随分引っ張り回していたが、はしゃぎまわる姿は年頃の女子高生のものだった。
 花も恥じらう十八の乙女……と、思わず口を滑らせそうになってしまった。
 ステージの上で見せるのとはまた違う解放感に溢れた笑顔に少し鼓動が高鳴って、思わず胸を押さえた。
 (まあ、アイドルやってるんだから可愛くて当たり前なんだけど、嬉しい反面心臓に悪いな)
 やがて出店も二周ほど回り、お立ち台の下で踊る人たちをひとしきり眺めている内に、花火をやろうということになった。
 近場のコンビニに入ってみると一つだけ花火のセットが残っていて、チャッカマンごと購入して店の外で待っていた律子に手渡した。
 事務所の裏手にある小さな公園に行ってみると、みんなお祭りに夢中なのか、ぽっかりガラガラだった。
 待ちきれないといった様子で律子が袋を破き、俺が事務所のバケツを持ってくると花火に火を点け始めた。
 「プロデューサー!あははっ、見て見て!」
 赤い光と青い光を放つ花火を両手に持って、とびっきりのスマイルを浮かべた律子がくるくる回っていた。
 その純粋な笑い声を聞いていると、わけもなく幸せな気持ちになった。
 俺も、細い筒型の花火に点火して、時々手に伝わる衝撃と勢い良く闇を切り裂いていく光に胸を躍らせていた。
 幾つか花火を消費すると辺りはすっかり火薬の匂いに包まれ、それがまた花火ムードを盛り上げてくれる。
 未成年の律子はともかく、いい大人の俺まですっかり童心に帰りながら、次々と袋の中身を燃やしていく。
 程なくバケツの中身が水以外のもので埋め尽くされると、袋の中身はいよいよ線香花火を残すのみとなった。


 「やっぱりこれで仕上げなくちゃな」
 二人で壁を作るように屈んだままで向かい合い、一本ずつ線香花火を手に取って、根っこの先に点火する。
 ジリジリ……橙色の炎が下から火薬を飲み込んでいくにつれて、甘さと苦さの同居した香りが俺と律子を包み込んだ。
 重力に引かれて溜まった赤い雫が燃え尽きれば嬉しさに笑みを浮かべ、落ちてしまえば照れ笑いを浮かべた。
 柔らかい光を下から受けてぼんやりと闇に浮かび上がる律子の表情は穏やかだったが、なぜだろう──寂しさの匂いがした。
 夏の香りを放ち続けていた線香花火もやがて尽き、袋の中に残るのはあと一本。
 「律子、いいよ」
 「プロデューサー、どうぞ」
 俺がチャッカマンを向けて点火しようとすると、律子は掌を広げてチャッカマンを受け取ろうとした。
 「俺はいいって」
 「いえいえ、私はいいです」
 すれ違いに道を譲ろうとして、お互い同じ方向に体をどかしてしまった時のような気まずさが走る。
 どちらからともなく沈黙して、吹いてきた生ぬるい風が律子の切り揃えた前髪をさらりと揺らした。
 鈴虫の透明な鳴き声しか聞こえなくなった中で沈黙を破ったのは、砂利が擦れる音だった。
 「じゃ、二人でやりましょ」
 向かい合っていた所から隣へ移動してきて、右手で線香花火の茎をつまんで俺の目の前へ持ってきた。
 俺にも線香花火を持つよう促し、言われるままに左手を伸ばして細い手の下に潜り込ませ、同じように茎をつまんだ。
 「火」
 「ん」
 俺がチャッカマンを手渡そうとしたら、
 「違いますよ、そうじゃなくて」
 と、律子は息を軽く吐いて、チャッカマンを握る俺の右手に左手を絡めてきた。
 俺よりも一回り以上も小さな掌が寄り添い、引き金を押さえる人差し指に律子のそれが覆いかぶされずにちょんと乗った。
 ドキ、と心臓が音を立てて跳ねた。聞こえなかっただろうか。
 互いの手が触れている。律子は気になっていないのだろうか。
 「さ、点火しましょ。せーの……」
 カチッ。
 全く同じタイミングでお互いの人差し指がトリガーを引き、黒いステッキが勢い良く火を噴き上げて紫色の根っこを焼いていく。
 焦げ臭い匂いと共に、ささやかなフィナーレの幕が上がった。
 橙が紫をあっという間に飲み込むと、燃える部分を食べつくした炎が下向きの力を受けて先端に集まり、紅い玉を作った。
 「今日は楽しかったな」
 「……そうですね」
 周りに誰かがいたら聞こえないような、小さくてかすれた声。
 「どうした?」
 「『楽しみ』が『楽しい』に変わって、『楽しい』が『楽しかった』に変わる……」
 顔を覗き込んでみると、どこを見るでも無い視線。目だけが線香花火に向けられていた。
 「こういう時に『楽しかった』って聞くと、寂しくなりませんか? あぁ、『楽しい』が終わるんだな、って」
 「そりゃ…いつかは終わるよ」
 「その時は楽しくて舞い上がってても、いつかは醒める。結局のところ、夢みたいなものなんですよね」
 チャッカマンが二人の掌をすり抜けて地面に落ち、パタ、と小さな音を立てた。
 まだ、線香花火の先端はジリジリ焼ける音を僅かに発している。
 落ちるか燃え尽きるか、幕引きの瞬間は目の前に迫っている。
 律子が炎と一緒に消えて無くなってしまうような気がして、冷気が腹の底から噴出してきて背筋を駆けのぼった。
 遠慮がちに触れさせていた手を思わずがしっと握り、繋ぎ留めるように指を根本まで絡めた。
 「えっ……?」
 驚いたように律子はぴくりと手首を震わせたが、戸惑いつつも向こうからも握り返してきた。
 ちらりと横顔を覗き見ると、うっすらと明かりに照らし出された頬は紅を引いたように見えた。
 しかし、底に沈んでいた淀みが表層に浮き出たかのような、ほの暗い表情は変わらない。
 線香花火の淡い光に照らされていながら、そこだけが翳っていた。
 「アイドルの仕事、辛いのか?」
 「ううん。なんだかんだで楽しいですよ、でも」
 「でも?」
 「仕事のこと忘れてただの女の子に戻って遊ぶのって、こんなに楽しかったんだ、って思っちゃって」 
 「結構なことじゃないか。仕事は仕事。遊びは遊び。割り切って楽しめばいいだけさ」
 「まぁ、そうなんですけどね。……でも、この『楽しい』もやっぱり終わってしまうのが、残念で」
 「それでいいと思うよ。いつまでも『楽しい』だったら、飽きちゃうだろ。いつか終わるから『楽しい』時間を全力で楽しむんだ」
 「でも……あと少しでいい。『楽しい』が続いたら。このまま時間が止まって──ただの女の子でいられたら」
 俺からの肯定を催促するかのように、律子の細い指がキュッと締め付けてきた。
 仕事にひたすら打ち込む律子。熱意を持って打ち込んではいても、遊びたいって気持ちは誰だって持つものさ。
 求める言葉はなんとなく察しがつくが、それでは文字通りひとときの慰めにしか過ぎず、何も生まない。
 立ち止まって後ろを振り返るんじゃなくて、前を見て胸を張って歩いていけるような言葉。必要なのはそれだ。
 「残念ながら今日の『楽しい』はもう店じまいだ。……なぁ律子。これ、落ちるか燃え尽きるか、どっちだと思う?」
 線香花火と炎の玉との繋ぎ目は糸のように細くなり、今すぐにも離れてしまいそうだ。
 落ちると思います、と答えた律子の口調には、諦めが混じっていた。
 「なら、俺は燃え尽きる方に賭けるよ」
 じっと繋ぎ目を見つめていると、火の玉はだんだん小さくなっていき──闇に消えていった。
 「落ちなかったな」
 「……落ちませんでしたね」
 終わりを突きつけられたと感じているのか、律子の表情は浮かない。
 「じゃあ律子、今度また遊びに行こうな」
 「じゃあ、って何ですか」
 「だって賭けに勝っただろ、俺」
 「そ、そんなこと言ってなかったじゃない」
 「俺が勝ったら律子はまた俺と遊びに行く。律子が勝ったら俺がもう一度今日の罰ゲームを受ける……言い忘れてたな」
 どんなもんだ、と言わんばかり、俺は大げさに胸を張って得意気になってみた。
 「それって、どっちにしても一緒に出かけるってことじゃ……」
 「いいじゃないか。律子といて楽しかったし、また一緒に遊びに行きたいな、って思ったんだよ」
 「う……い、いきなりそういうコト言うの、やめません? ビックリするっていうか、恥ずかしい……」
 「ん、俺、なんか変なこと言ったか?」
 「なんでもない……」
 うつむいた律子の耳は赤くなっていて、掌にはっきりと熱を感じた。
 「まぁともかく、律子さえ良ければまたどっか遊びに行こう。どうだ?」
 「……そうね、たまになら……」
 「よし、決まりだな。『楽しみ』にしててくれよな」
 「……あ」
 何かに気付いた様子で律子が顔を上げて、マジックの種明かしを見る時の目になった。
 「確かに『楽しかった』で一つの『楽しい』が終わるけどさ。次の『楽しみ』が始まるだろ?」
 「そっか……そうよね、うんうん」
 納得したように頷き、寂しさに翳っていた表情がみるみる内に晴れ渡っていく。
 数秒もすれば、一仕事終えた後のような清清しい笑みがそこにはあった。どうやら上手くやれたと考えて良さそうだ。
 「じゃ、帰ろうか」
 「あっ……」
 燃え尽きた線香花火をバケツの中へ投げ入れ、握っていた手を離して立ち上がると、律子が子供みたいな声を出した。
 「どうした?」
 「いっいえ、なんでもないです。なんでも……」
 気まずそうに逸らした視線の先は、小さな掌に落ち込んでいた。
 その残念そうな視線に、思わずバケツを持っていない方の手を律子の方へ差し出す。
 「か、勘違いしないでください。ただ、ちょっとそういう雰囲気かなって思っちゃっただけですからね」
 公園を後にする時左手に感じていた温度は、空気よりもあたたかかった。
 

 翌朝出勤してきた律子の表情は明るかった。
 昨夜一緒に遊んだ時のことは話題には出さなかったが、ほんの少し雰囲気が柔らかくなったような気がする。
 「おはようございます、プロデューサーさん、あ、これ」
 すれ違いざまに声をかけてきた小鳥さんから、一枚の紙切れのようなものを手渡された。
 「え、これ、ちょっと……!」
 一枚の写真だった。昨晩、公園で寄り添って線香花火をしていた時の俺と律子の姿。
 「たまたま昨日通りかかったんですけど、公園で花火して遊んでる人たちがいたんですよねぇー……」
 わざとらしく、とぼけたような小鳥さんの口調。口元を押さえているが、ニヤけているのが隠せていなかった。
 「私の他は誰もいなかったんでぇ〜……声かけようとしたけどそんなフンイキじゃなくってぇ〜……」
 「こっ、小鳥さん、このことはどうか他の人には」
 「んー……内緒にはしといてあげますけど……ひとつ条件が」
 小鳥さんがおもちゃを見つけた子供の目になっている。背筋に悪寒が走った。
 「今度あずささんと飲みに行く約束してるんですけど、財布をいっぱいにしてプロデューサーさんも来て下さいね」
 「お、おごりですか……分かりました」
 お酒強いんだよな、小鳥さん。それもかなり。まあ仕方ないと思い俺が頷くと、小鳥さんの顔が近づいてきた。
 「今あっちでウキウキしてる律子ちゃんのこと、その時たーっぷり聞かせて欲しいなー……なんて、ふふ、うふふふっ」
 俺の耳元でひそひそ囁くと、楽しみーと言いながら小鳥さんは小躍りで自分のデスクへと向かって行った。

 小鳥さんにしこたま飲まされてテーブルに空きジョッキがいくつも並んだのは、それから数日後のこと。
 同じぐらい飲んでいたはずの小鳥さんはケロッとしていて、あずささんはスローペースだったため常時素面。
 度重なるしつこすぎるぐらいの誘導尋問を切り抜けるのは一苦労だったが、僅かに悟られてしまったかもしれない。

 嗚呼音無 容赦も遠慮も ありゃしない

 字余り。

 

 終わり



-あとがき-
火薬って夏の匂いですよね