オレンジ



 酔っ払いの相手をするのは、いつだって骨が折れる。
 時にそれは自宅での父親であったり、大学の同僚であったり、仕事の取引先であったり、自分の上司であっ
たりするが、こんなのは初めてだ。
「ほぅ〜ら、早く食べないとぉ、全部ペロンとしちゃいますよぉー?」
 バレンタイン企画に向けて買ってきた、ウイスキーボンボンの入ったチョコレート。俺はまだ一つも摘んで
いないのに、箱の中にはもう一つしか残っていない。八個入っていた内のほとんどを食べてしまったのは、会
議室の向かいに座る、まだ未成年の、俺の担当アイドル。
「まさか、この程度で酔いが回ってしまうとはなぁ……どうしたもんか」
 正直言って、ここまで律子が『弱い』とは思っていなかった。夕食をまだ取っておらずにお腹が空いていた
のかもしれないし、体が疲れていてアルコールが回っていたのかもしれない。
「くぉら、ぷろりゅーひゃー、なにを∀Ωーーーっと○∵☆Я」
「すまん、何を言ってるのかさっぱり分からん」
 初対面の頃から抱いていた知的な印象が、今はどこかに消えうせている。どうしてこうなった。
 とりあえず、酔いが回ったまま帰すわけにはいかない。お家の人にこのまま会わせれば、未成年に一体何を
したのかと問い詰められるのは必死だし、マスコミなんぞに見つかってもスキャンダルになってしまう。
「とりあえず、水を持ってくるから、ここで待ってろ」
 チョコで酔っ払うなんてまるで漫画か何かの世界だな、と思いつつ、席を立つ。が、右前方からニョキっと
手が伸びてきて、俺の袖を引っ張ってきた。
「……」
 どこに行くつもりですか、と律子が据わった目で訴えかけてくる。
「な、なんだよ」
 思った以上に、引っ張る力が強い。
「……■*д」
「日本語でおk」
 呂律の回っていないどころか、未知の言語にすら聞こえる律子の言葉に、苦笑いだ。
「むー……」
 眉間に皺を寄せて不満そうにしながら、俺に座るよう律子は視線で促してきた。とりあえず水を飲ませるな
りして落ち着かせたいのだが、ここは言うことを聞いておく。何をされるか、得体の知れない緊張が走る。
 俺が腰掛けると、俺の右前方に座っていた律子が椅子を引きずりながら、隣にやってきた。ゴツッと鈍い音
を立てて、椅子同士がぶつかる。
「ん」
 何か言いたげに、箱に残ったチョコレートに視線を落としてから、律子は俺の方に向き直った。
 眼鏡が少しズリ下がっていてなんとも不恰好だ。
「ほら、眼鏡ズレてるぞ」
 見ていられなくて、つい手を伸ばして位置を直してやると、澄んだレンズの向こうで、瞳が閉じられた。
「……」
 とっくのとうに俺は手を離したが、律子は何かを待つように目を閉じたまま静止している。
 ほんのりと桜色に染まった頬に、鼓動が高鳴った。
 視線を落としてみると、椅子の横で拳が握られている。
「律子?」
 呼びかけると、律子はゆっくりと目蓋を上げ、俺の目をじっと覗き込んでから、なぜか不機嫌そうな顔をした。
 太めに整えた眉が吊り上がり、唇はへの字になり、露骨に不満を表現する。
「何なんだ、一体……」
 律子の行動の意図が読めない。溜息の一つもつきたいぐらいだった。
「……プロデューサー、これ……」
 細い指が、テーブルの上を指した。一つだけ、箱の中にチョコレートが残っている。そういえば、俺はまだ
一つも食べていない。
「ひとつも、食べてないですよね?」
 たどたどしい口調で、律子が言った。
「まぁ、そうだが」
 他に返事のしようも無く、頷く。
 律子の手が、残った一つのチョコレートを摘む。
「……はい」
 眼鏡の奥の瞳は未だに据わったまま。ちょっと威圧感すら感じられる眼は俺から外れない。
 律子はチョコレートを俺の唇の前まで持ってきた。
 食べさせてくれるのだろうか。酔っ払いのすることとはいえ、ちょっと嬉しいかもしれない。
 と思っていると、チョコレートはそのままつやつやした唇の向こう側へ吸い込まれていった。
「何がしたいんだ、いったい……」
 ふっ、と息が漏れる。
「……ん」
 律子がちろりと舌を出した。
 指をさした綺麗な赤の絨毯の上には、原型を留めたままのチョコレートが鎮座している。
 長い睫毛の下から、何かを乞うような潤んだ瞳が見上げてくる。
 カメラの前ではおろか、表現レッスンでも見せたことの無い、表情だった。
 心臓が、一際強く血液を押し出したような気がした。
「……」
 律子が軽く顎を突き出した。
 唇を指差していた手が伸びてきて、俺の肩を掴む。
「えっ……?」
 そこまでしながらも、その双眸は、あくまでも俺を促していた。
「……」



 状況がそうさせたのか、押し隠していた本心がそうさせたのか。
 どちらかは分からない。

 とにかく、甘かった。
 そして、蜜柑のような香りがした。



「ところでプロデューサー、さっきのミーティングで何を話し合いましたっけ?」
 俺が律子を駅まで送っていこうと、事務所を出てしばらく歩いた所で、律子がそんなことを言った。
「ああ、来月バレンタイン番組に出してもらう時にどんなことするか、ディレクター側に提出するアイデアを
練ってたんだろ? 結局うまくまとまらなかったから、お互い情報収集してからもう一度、って結論に至った
んだ」
 半分は本当、半分は嘘。チョコを摘み始めた所で早々に律子が酔っ払ってしまったために、ほとんどミーテ
ィングは進まなかったのだ。
「そうでしたっけ? うーん、なんだかよく覚えていなくって……疲れてるのかな」
「ああ、相変わらず忙しいし、疲れてるんだと思うぞ。今日は帰ったらゆっくり休みな」
 俺から言える選択肢はそれしか無かった。ミーティング中何があったかなんて、話せるわけが無い。
 願わくば律子には忘れたままでいて欲しいし、俺も忘れたいと思った。唇はまだ甘ったるい。
 明日から、まともに律子の顔が見られなくなってしまいそうだ。


 ……もっとも、律子は本当に『忘れている』のかどうかも、俺からは知りえないのだが。
 冷たい風にいっそ今日一日の記憶を吹き飛ばして欲しいと思ったが、生憎、風は吹いてこなかった。
 駅のホームの向こうに消えていく律子が見せた笑顔に、胸を締め付けられる思いだった。


 終わり



−後書き−

真SSで行き詰まり、亜美真美SSがまとまらずに律子SSを書き始めたらあれよあれよと言う間に終わって
しまって何コレ状態。これが本命の力なのでしょうか……。今回のSSに関しては、いつもマメにweb拍手で
作品の感想を贈ってくれるかたくりこPの動画作品から着想を頂きました。ゆえに、かたくりこPへ捧げます。
これからも宜しくお願いしますです。