ワンサイド


 時間の流れというのは、とことんまでに容赦が無い。パソコンの前に座ってエクセルの打ち込みを始めたも
のの手元はぴたりと止まったままで、仕事が進む気配はまるで無い。溜め息をついている内に時計の針は一時
間も先に進んでしまっている。ぱっちり気持ちを入れ替えようと次いできたコーヒーも、満杯のままでとうに
冷めてしまっていた。
「……参ったな」
 今日果たして何十回目になるか分からない溜め息が漏れた。日増しに回数は増える。
 この仕事を始めた時から、全く予想していないでは無かった。
 可能性も、対策も、考えていたつもり……だったのだが。
「どうしたんですか、溜め息なんかついて」
 と、悩みの種が俺の隣の席へやってきた。最初の一音節を聞いただけで彼女と分かる、呆れたような声で。
「あれ、まだ打ち込み残ってたんですか?」
「ああ」
「終わってないんなら、手伝いますよ?」
 温かい息が耳元にかかる。俺の視界に彼女の姿は無いが、その温度、感じる気配の距離から、すぐ傍にいる
ことは分かる。その無遠慮な距離が、俺の鼓動をぐんぐんと高めていく。頼む、もう少し、離れてくれ──。
「……いや、大丈夫だ。律子に手伝ってもらうことも無い、すぐに終わるよ」
「でも、はかどってないみたいですから、まだ時間もありますし、大丈夫──」
「心配いらないよ。ちょっとこれからのプランを練ってただけだ。それより、律子こそ……早く終われるなん
てそうそう無いんだから、早めに上がっとけ。明日も午前から仕事なんだからさ」
 律子の言葉を遮るようにして、まくし立てる。
「それはプロデューサーだって同じでしょう? 最近、ずっと働き詰めじゃないですか」
 律子の顔が視界に割り込んできた。
「けどな、律子。体にかかる負担も、疲労が及ぼす影響も、体を使うことの少ない俺より律子の方がずっと大
きいんだから。休める時にしっかり休んでおいてくれないと」
「……もう、分かりましたよ」
 少々声を荒げてしまったのが、自分でも分かった。律子も溜め息をついた。だが、多少不機嫌になってしま
ったっていい。このまま律子が隣に座っていたりしたら、落ち着かなくてそれこそ仕事にならなくなってしま
うのだ。
「確かにプロデューサーの言う通りではありますけど、プロデューサーの代わりだっていないんですからね。
いくらなんでも私一人じゃやっていけないんだし、あんまり無茶ばっかりしないで下さいよ?」
 慈しむような声がすると同時に、律子が俺の肩にポンと両手を置いた。お先に失礼します、の一言と共に、
肩を包んでいた温かい両手が離れていった。やけに遅いテンポで、足音が遠ざかる。
 無理やり帰らせてしまったような気がして申し訳無い気になりつつも、頭を振って目の前のモニターに改め
て意識を集中した。目の前に並ぶ数値に意識を集中し、自らの意思を持たぬロボットにでもなった気分で、キ
ーボードを叩く。


 ようやく心からノイズが消えて集中力が高まってきた所で、先程とは質の違った足音が規則正しいテンポで
こちらに近づいてきた。
「はかどってますか?」
 少しだけトーンの高い、穏やかな小鳥さんの声。ゆっくりと顔を振り向かせてみると、インカムを外した小
鳥さんが、俺の隣の椅子に腰掛けた。香水がほのかに鼻腔をくすぐる。
「ええ、こんな時間になって、頭が冴えてきたというか、ははっ」
「やっぱり、律子さんが隣にいると、集中できませんか?」
「……っ!」
 何の前触れも無く、小鳥さんは図星を突いてきた。
「い、いえっ、そんなことは……」
 手を振って否定してみたが、小鳥さんは口元をにやりと吊り上げただけだった。
「ふふっ……前にからかってみた時も、そのリアクション、してましたよね」
「……よして下さいよ」
 黙々とキーボードを叩いていた手が止まってしまった。
「『最近になって、プロデューサーが他所他所しくなってきた気がする』……」
 仕方なく隣に向き直り、視線を合わせると、小鳥さんが神妙な顔つきになった。
「そんなことを律子さんが言ってましたけど、心当たりはありますよね?」
「……」
 心当たりが無いなんて、言えるはずが無い。仕事上、担当アイドルとのコミュニケーションは欠かしてはな
らないし、仕事上のコミュニケーションを欠かしていることもないつもりだ。それでも、意識的に律子と目を
合わせて話すことや、必要以上に接近するのを避けているのは、否定できない。
「……あるんですね?」
 小鳥さんが念を押す。
「……はい」
 俺は、少しだけ、あくまでも少しだけ、頷いた。この悩みを胸の内に留めておくことに限界を感じ始めてい
たし、一人で押し隠し続けることが良い結果を招くとは思えなくなってきていたからだった。
 観念して俺がイエスの返事をすると、小鳥さんは手に持っていたらしい缶ビールをそっと差し出した。
「少しだけ……打ち明けてみませんか?」
 手を伸ばして受け取ったそれは、ひんやりと冷たかった。プルタブを引いて、鮮烈な苦味を喉の奥へ流し込
む。小鳥さんも、缶チューハイのプルタブを引いている所だった。缶を再びデスクに置くと、缶が随分と軽く
なっているのが分かった。
「苦しそうですね、最近のプロデューサーさん」
「ええ、そうですね……苦しいですよ」
「良かったら、聞かせてください。誰にも言いませんから」
「そうですか、それなら……」
 一気に多く飲んだせいだろうか、普段酒を飲む時よりもかなり早く、軽い浮遊感を感じた。そういえば、今
日は昼から食事を摂れていなかったのだ。疲労も相まって、心にかかったロックが緩くなっていく。
「最近、いえ……結構前からですね。仕事中に息苦しさというか、緊張感に似たものを感じるようになってき
たんですよ」
「息ぐるしさ、ですか」
「はい。率直に言ってしまうと、律子と一緒にいるのが、段々辛くなってきたんですよ。アイドルをプロデュ
ースして、あちこちの営業に付き添ったりしてる内に、薄々、そうなるって予感はしてたんですが……」
 缶の中身を、また飲み下す。500ミリリットルあった長い缶ビールは、あっという間に空になった。
 レッスンで心と体と技術を磨き、オーディションを勝ち抜く中で、徐々に大きくなるステージの上でライブ
やコンサートを成功させる、ゆっくりと自分に自信をつけていく中で、律子はどんどん魅力を高めていく。
 『磨けば光る』とは、律子の周囲にいる誰もが言っていたことだったが、こんなに眩しく輝くようになるな
んて、俺はまるで予想できていなかった。気が付けばすっかり、律子の虜だった。
 いつからだったんだろう。レンズの奥で澄み渡る瞳の引力に逆らえなくなったのは。
 よく通るハキハキした声を聞く度に心を揺るがされるようになったのは。
 仕事で顔を合わせることを待ち焦がれるようになったのは。
 律子を……俺だけのものにしたいと思うようになったのは。
 しかし、そんな思いは、許されるものじゃない。事務所の大事な商品であり、何十万人というファンの共通
の偶像であるアイドルに対して、商品を売り出す側のプロデューサーである俺が抱いていい思いじゃない。
 そんなことを、俺は切々と小鳥さんに打ち明けた。一言切り出せば、数珠繋ぎに次の言葉が出てくる。
「そうですか……まぁ、そうなっちゃうのも、無理ないかもしれませんよね」
 もう一本飲みますか、と、小鳥さんが、二本目の缶ビールを差し出した。受け取るだけに留めておいて、プ
ルタブは引かずにおいた。
「立場上、誰にも言えませんし、自分一人で何とか諦めをつけようとしてたんですが、上手くいかなくて」
 スケジュール帳に挟んでいた一枚の写真を、机の上に置いた。
 アトリウムで仕事をした時に、デジタルカメラのセルフタイマーで撮ってみた一枚だ。俺と律子が、一見す
ると親しい恋人同士のように、腕を組んで写真に映っている。周りがカップルだらけだったものだから、つい
ノリで撮ってみた一枚だった。恥ずかしいからすぐに消してくれと律子は抗議していたが、結局消し忘れてメ
モリーに残っていたのを、こっそりとプリントアウトして、秘蔵のショットとして隠し持っていたのだ。
「ふふっ、可愛い。こんなに密着して意識しちゃわない方がおかしいですよ。もし発覚でもしたらスキャンダ
ル確実ですよ、こんなの」
「……まぁ、そうですよね。こんなことしなければ……」
 写真を手に取った小鳥さんが、目を細めて笑う。
「けど、こういう写真を撮っても撮らなくても、きっと同じだったと思いますよ」
「そうでしょうか」
「だって、嬉しいことも苦しいことも、悲しいことも怖いことも、一緒に経験してるんですもの。異性同士で
そういう共通の経験をしたら、今のプロデューサーさんみたいになったって、何の不思議もありませんよ」
 可笑しいことじゃないです、と、小鳥さんは付け足した。
「でも、プロデューサーの俺が、アイドルの律子に、なんて、許されることじゃないですよ」
「立場上、倫理上は、確かにそうですね」
「そうでしょう。だから、やはり、なんとしても、俺が押し殺さなければ……」
 ギリッと歯を食いしばる。もう少しで、業界内で『Aランク』と位置づけられるだけの人気に、律子は辿り
着ける。せめて、そこまでは……。
「それだけじゃ、止められないと思いますよ。ルールやモラルじゃ、人の心は縛れませんもの」
 小鳥さんの瞳に、からかいの色は窺えなかった。真摯で、思いやりの温かい光を湛えている。
「強引に押さえつけようとしてたら、逆にプロデューサーさんの方が参っちゃいますよ。現に、さっきだって
まるで仕事が手についていなかったじゃないですか」
「……」
 何も言えなかった。ただでさえ滞り気味の仕事が、これ以上遅れてしまっては、本当に業務に支障が出てし
まう。何しろ、右肩上がりに仕事の量は増え続けているのだ。
「そう頑なにならず、たまには楽しんじゃってもいいんじゃないですか?」
「楽しむ、ですか?」
「そうですよ。ほら、営業のついでにデートに誘っちゃったりとか、うふふ」
「えぇっ! ほ、本気で言ってるんですか!?」
 真面目だった小鳥さんの表情がほんのりと赤らみ、恋愛談義に花を咲かせる女性の顔になっていく。
「あら、一緒にゴハンを食べに行くぐらいだって、捉え方によっては十分デートなんですよ? 今までだって
そこそこの頻度で一緒に行ってたんじゃないですか?」
「そりゃ、確かにそうですけど」
「他にも、車で事務所に戻ってくる時にちょっと遠回りしてドライブを楽しんじゃったり、時間を取ってショ
ッピングに連れて行ってあげたり……何もプライベートで一日取らなくたって、律子さんと二人の空間を満喫
する時間はいくらでもあるんですもの」
「満喫って……よして下さいよ、そんな言い方」
 にやにやしながら語る小鳥さんの言葉に、思わず顔が熱くなる。
 だが、いつも仕事のついでにしていた食事や買い物も、見方を変えれば確かにそういうことになる。
 レストランで向かいのテーブルに座る律子、助手席でああだこうだと不満気にあれこれ愚痴を漏らす律子、
買い物に行った先で値札とにらめっこする律子……そのどれを思い浮かべても、俺の心はカッと昂ぶる。
 単なる仕事仲間以上の感情を抱いてしまっていることを改めて自覚し、自嘲した。
「せっかく、律子さんと一緒に仕事してるんですから。表立って関係することはタブーであっても、プロデュ
ーサーさんの立場だからこそできることっていうのもあるわけじゃないですか」
「……考えようによっては、確かに」
「まぁ、プロデューサーさんの抱いてる責任感も、とても大事なものですから。でも、たまには遊んでもいい
と思います。私は、応援しちゃいますよ」
 小鳥さんはそう言って、にっこりと素敵な微笑を浮かべた。が、
「ちょっと、羨ましいかも」
 ぽつりと呟いた。
「えっ?」
「……いえ、なんでも」
 席を立つ小鳥さんの、貼り付けたような笑顔の中心で、真紅の瞳はどこか哀しく透き通っていた。


 それから、しばらく。TV局での収録の帰り道で、俺は握り締めたハンドルを指でタップしながら、首都高
速を走っていた。助手席には、スケジュール帳を取り出して何やら書き込んでいる律子がいる。いつもと同
じ光景だ。しかし、俺の体には、いつもとはやや質の違った緊張感が走っている。
「どこに食べに行くんですか?」
 期待を滲ませた様子で、律子が眼鏡を押し上げた。おごりと来たら、すぐにこれだ。
「たまには、少しばっかり奮発しようと思ってな」
「んー……大丈夫なんですか?」
「ああ、今日はゴールデンで流れる番組だったからな。随分緊張してただろう?」
 隣を走る高速バスが、段々と車体の後ろへ流れていく。それを見て、少しだけスピードを落とした。
「ほぉ〜……よく見てましたね。気付かれないかと思ってたんですが」
 感心感心、といった様子で律子が頷く。
「そりゃあな。一緒に仕事して、もう結構長いんだから」
 本当は別の理由があることは伏せておきつつ、テンポ良く言葉のボールを投げ返す。
「ふふ、光栄に思っときますね」
 わざわざアクセントまでつけて『一応』と付け足しながらも、表情は柔らかく崩れる。
「それはそうと、奮発するんでしたら、それなりの所、期待しちゃいますよ? 言っときますけど、私の目は
厳しいですから」
「ああ、楽しみにしとけ。もうじき到着だ」
 興奮は、皮膚の内へ。秘めた思いは、ひた隠す。胸から広がる鼓動は次第にテンポを上げていく。
 ヘッドライトを上向きにした対向車が、俺をスポットライトで照らすようにして、通り過ぎていった。


 終わり



―後書き―


担当アイドルからプロデューサーへの恋愛感情はあれど、プロデューサー側からのそれってゲーム中では示さ
れてないよなぁ(当然のことですが)という疑問から書き始めたSSでした。もしもPが律子にベタ惚れ状態
だったら……という仮定は、中々に興味深くあります。