「ただいまー! 兄ちゃんのコーヒーも買ってきたよー……あれ?」
テレビ出演を控えていたある日のこと。
ジュースを買いに行った私が楽屋に戻ってくると、兄ちゃんが机に突っ伏していた。両腕を枕にして、私から見ると右側の方に顔
を向けて、机の上にでろんとなっている。
近寄ってみても起き上がりそうな感じはしなくて、耳を澄ますとすぅすぅ呼吸の音が聞こえた。呼吸の音に合わせて、紺のスーツ
の背中が膨らんだり縮んだりしている。右肘のすぐ脇には、ホッチキスで留められたプリントの束が放り出されていた。
隣の椅子が空いていたので、ひとまず腰を下ろす。
「兄ちゃん、寝てるの?」
「…………」
返ってきたのは沈黙だけ。「返事が無い。ただのしかばねのようだ」なんて、家でやったゲームの台詞を口に出してみた。
机の上を見回して、黒のボールペンがルーズリーフの束の上に数本乗っかっているのが目に入った瞬間、楽屋のドアが開いた。
「メイクと着替え、終わったよー……って、あれ?」
クイズ番組への出演のために、薄いメイクをしていつもより少し大人っぽい服を着た真美が、伊達メガネをかけた目を細めて兄ち
ゃんの方を見た。テレビの中の双海亜美が前髪を右に流して髪を左でまとめている時は真美が出演する時。そのことを知っているの
は、兄ちゃんを始めとする765プロの人と、私達がステージに上がる準備をしてくれるヘアメイクや衣装スタッフみたいなほんの一部
の人だけ。
「あ、いけてるじゃん、そのメガネ」
「んっふっふ、なんか頭が良くなった気がするよ、コレ。……ところで、兄ちゃんはどうしたの?」
「寝てるみたい」
ドアが開いた音にも真美と私の話し声もどこ吹く風で、兄ちゃんはすやすや眠っている。壁の時計を見てみると、収録開始の時間
まではあと十五分ぐらい。
「起こした方がいいよね? もうちょっとで始まっちゃうし」
私がそう言うと、真美は黙って机の方まで歩いてきて、何度も読み返されてしわくちゃになったプリントの束を手に取った。そこ
に視線を落とす真美に釣られて、私も身を乗り出してプリントを覗き見る。
「これ、今日の番組のプログラムだよね。タイムスケジュールとか内容とかが目次に書いてある」
「うーん、でも字が細かいし、亜美達が読んでも分からなくない?」
唸りながら、真美が目次をめくって次のページを開く。めくった目次の裏側に、赤い文字で何か書いてある。
「あ、なんだろこれ、手書きの文字だけど……」
紹介、と四角で枠を作った中に書いてあって、その横には、PUT-TUN、路上嵐と右向きに矢印が引いてある。その先に、真美の名前
が大きくマルで囲ってあって、その次には恥外聞、アフタヌーン娘。……と続いている。
「ゲスト紹介の順番じゃないかな、これ」
「そういえば兄ちゃん、さっきそんなこと言ってたね。『路上嵐とチーム組むから一緒に入ってくんだぞ』って」
「これって亜美達に説明する内容を分かりやすくまとめた奴なのかも」
「そっかー! 真美も亜美も、ムズかしいこと言われたって分かんないもんね」
予想は正しかったようで、視線を紙の下の方に落としていくとちょっと汚い字で色々なメモが書いてある。
「恥外聞の次、司会が真美に話振る、新曲紹介、クイズはふつうにやってOK、ボケは恥外聞とアフタ娘……うんうん」
真美と私が一緒に声を出して読み、二人とも同じタイミングで頷く。一通り下まで読むと、今日は出演しない私でも番組の進行が
理解できた。
「……ねえ真美」
「なに?」
私が眠ったままの兄ちゃんをチラリと横目で見ると、真美も兄ちゃんを見た。
「兄ちゃん、寝かしといてあげよっか」
同じことを言おうとしていたのか、真美が目をぱちくりさせた。
「そうだね。今日はあんまり難しいこともしないみたいだし……なんとかなるっぽい」
そうこうしている間に、壁の時計は収録開始までの時間を黙々と刻み続けていて、残り五分。
「あ、もうこんな時間だ。行かなくちゃ。じゃあ亜美、行って来るね……兄ちゃんも」
含み笑いをしながら、真美は楽屋のドアの向こう側へ消えていった。
途端に、部屋の中がシーンとしてしまった。私が物音を立てなければ、聞こえてくるのは兄ちゃんの寝息だけ。
「仕事中に居眠りなんてダメだね、兄ちゃん」
話しかけても返事が来ない。それが分かっていても、なんとなく話しかけずにはいられなかった。楽屋で真美の出演を見る時はい
つも、隣に座るか、あるいは気分次第で膝の上に乗っかったりしながら、兄ちゃんと喋っていたから。
一人きりで楽屋の中にいるのは退屈だった。
ふと、ルーズリーフの束とボールペンが目に入った。
学校の国語の教科書、物語の終わりのページに作者の顔が書いてあって、そこにヒゲを書き入れたり額に『肉』と書いて遊んだの
を思い出して、私のイタズラ心にボッと火が点いた。
「んふふ、兄ちゃんが寝てるのが悪いんだよ」
はやる気持ちを抑えてボールペンのキャップを外し、いざ、と兄ちゃんの顔を覗き込む。
少し長い前髪の隙間から、手入れされた眉毛がちらちら見えていて、閉じられたまぶたを守るようにかぶさっている睫毛は意外と
長い。テレビ局の人や雑誌記者と話している時の、ビシッと引き締まった兄ちゃんはそこにはいない。
力尽きたように机の上に突っ伏しているその姿を見ていると、イタズラするのは気が引けた。
「……ホントに疲れてるんだね」
ぴくっと眉毛が動いて一瞬眉間にしわが寄ったのを見て、私は巻き戻されたように、ボールペンを近づけていた手を引っ込めた。
でも、ボールペンを持ったままの手は納得してくれなくて、ムズムズしていた。
「そうだ、似顔絵描こう、似顔絵」
束からルーズリーフを一枚引っ張り出し、ペンを走らせる前にもう一度よく兄ちゃんの顔をジッと観察してみる。
実際の年齢を考えてみれば当然だけど、パパよりずっと若い。パパは笑うと目元がシワッてなるけど、兄ちゃんはそうならない。
「うーん……」
よし、とにかくやってみよう。最初は顔の輪郭から。
私のうなり声と一緒にボールペンがさっさっと薄い紙の上で踊る。私の視線は、紙、顔、紙、顔、顔、紙、顔、紙、顔、顔、顔。
マグカップみたいな形で輪郭を描き終わって中身を描こうとすると、自然と顔を見る回数が増えた。
もっと近くで見ようとして顔を近づけていると兄ちゃんの鼻息がかかって、くすぐったかった。
(そういえば、こんなに近くで兄ちゃんの顔を見るの、初めてかも)
ちょっとだけ恥ずかしくなって、胸がドキドキした。
前々から思っていたけど、兄ちゃんは何気にカッコいいと思う。と言っても、学校の友達に写真を見せても返事は「微妙」だし、
事務所の他の女の子に聞いても、「悪くは無いけど……」と首をひねられてばっかり。やよいっちは「いいと思う!」って言ってた
けど、何がいいのか良く分かってない感じだった。
みんなにとっての『カッコいい』って、今頃真美が一緒にクイズをやっているジョニーズ事務所の男の子たちみたいのを言ってい
るのかな。勿論、あの人達はカッコいいと思う。イケメンって言葉がぴったりだし、私達女の子のアイドルの男の子版バージョンな
んだから、ルックスがいいのは、冷たい飲み物をいきなり一気飲みしたらしゃっくりが出るぐらい当たり前。
でも、あの人達みたいな、一目見て「わぁカッコいい!」っていうのじゃなくて、兄ちゃんのカッコいいは、なんか違う。どうや
って言えばいいのか分からないけれど、なんだっけ、色んな思い出があって、古くなった筆箱を捨てられずに使っていた時に先生か
ら言われた言葉。あの感じ。
「イソギンチャク……じゃないよね。あれ、海の図鑑に載ってたのだし……キンチャクはちっちゃい袋のことだし……」
まぁいいか。分かんなかったら兄ちゃんに聞けばいいや。
とにかく、兄ちゃんのカッコよさは私と真美だけが知っていればいい。他の人は知らない方が、むしろいいかもしれない。
ふうと一息ついてペンを置いてみると、色々考えている内に似顔絵ができあがっていたらしい。
「……こ、これはちょっとダメっぽい……」
考え事をしながら描いていたのが良くなかったのか、あまりどころか全然似ていなかった。右目と左目の位置がズレていて、鼻も
途中でひん曲がっている。
それでも、空いた所に『(E)兄(C)』と書いて周りにごてごてハートを付け足して、それが兄ちゃんの似顔絵だということにした。
ついでに、私の名前も隅っこに書いておく。兄という漢字をじっと見ていたら、下に二本生えた足がヒゲのように見えてきて、思わ
ず笑いが込み上げてきた。
強引過ぎる兄ちゃんの似顔絵の余白をハートやら星やらで埋め尽くした辺りでとうとう書き込む場所が無くなり、ペンを置いて紙
を前へ押しやった。
余白に書きこむのに夢中になっていた間、兄ちゃんは少し体勢を変えたようで、さっきみたいに机の上にのっぺりした感じじゃな
くて、団子虫みたいに丸まっていた。
部屋の中は暖かいのに、ちょっと寒そうに見えた。
毛布があるか楽屋の中を見回してみたけど、そんなものが置いてあるはずはなかった。
「うーん、これでいいかなぁ」
着ていたパーカーを脱いで、隣で寝ている兄ちゃんの背中に被せた。私が下に着ているのは半袖のTシャツだけだけど、少し暑さ
を感じ始めていた所だから、私はこれぐらいで丁度いい。
やっぱりというかなんというか、兄ちゃんの背中に私のパーカーは小さすぎた。パーカーが被さっているというより、落っこちな
いように頑張ってへばりついているようにしか見えない。
自分でやっておいて、ヘンな光景だと思ってくすくす笑い声が零れた。
「…………」
いよいよやることが無くなった。テレビモニターの中では真美がクイズで回答している最中。でも、兄ちゃんと一緒に見ていない
と、何を言っても反応が返ってこないのが分かってるから、真美には悪いと思いながらもあまり見る気にならなかった。
「兄ちゃん、つまんないよー……」
兄ちゃんと同じ体勢で机の上に私も突っ伏した。腕に触れる顔の温度は少し熱くて、顔に触れる腕の温度は少し冷たかった。
こんな時、真美だったらどうするのかな。真美は兄ちゃんが起きるまで待っているのかな。私は待てなさそうな気がした。
私達がもっといい子にしていれば、兄ちゃんはこんなに疲れなくて済むんじゃないか。ふとそんなことが頭に浮かんで、心の中で
兄ちゃんに「いつもごめんね」と言った。
「これ見てみろよ。机に置いてあったんだ」
「あ、兄ちゃんの似顔絵……なのかなぁ。あんま似てないね。亜美、絵は上手いのに」
「亜美も疲れてたんじゃないか? だって、まだ」
全身が温かくて、上下に心地良く揺られているのを感じる。耳に、真美と兄ちゃんの話し声が入ってきた。
「うーっ、真美だって疲れてるんだからね。今日はクイズ頑張ったのに、兄ちゃんも亜美も寝ちゃっててさぁ……」
「わ、悪かったよ。ご褒美あげるから、拗ねないでくれって」
「じゃあ、真美も今度おんぶしてね」
「ああ、それでいいなら」
(おんぶ?)
目を開けてみると、まず自分の視界の下の方にいる真美の姿だった。少し左を見るとすぐそこに兄ちゃんの首があって、そこで初
めて兄ちゃんに背負われていることに気がついた。
「ふぁ……」と、目を開けるとすぐにあくびが出た。
「お目覚めか?」
「あ……あれ?」
きょろきょろ辺りを見回してみると、楽屋に来る時歩いていた通路と同じ景色が飛び込んできた。遠くに、車がまばらに停まって
いるのが見える。
「おはよ、亜美。お仕事終わったよ」
「お……おはよ……」
腕がスースーすると思ったら私は上にTシャツしか着ていなくて、私のパーカーは真美が腕に抱えていた。腿の裏に何か熱いよう
なゴツゴツしたものが触れているのは、多分兄ちゃんの掌だろう、と思った。鼻で呼吸すると、香水が微かに、すうっと香った。
「しかし、最近の男性タレントってのはホントにイケメン揃いなんだな。ジョニーズの連中はともかく」
兄ちゃんが喋ると、声に合わせて背中がビリビリ震えて、スピーカーの上に寝そべっているみたいだった。
「あの人たちもアイドルだもんね。でも、真美は兄ちゃんもイケメンだと思うよ」
「あっ、亜美もそう思う。みんな分かってないよねー」
「おいおい、何をお世辞言ってんだよ。欲しいものでもあるのか?」
兄ちゃんは苦笑するだけだ。
「違うよー! 本気で言ってるんだよ? なんていうかさ、パッと見そうでも無いんだけど、じーっと見てるとヌンチャクが湧く
っていうか……ねぇねぇ亜美、イソギンチャクだったっけ?」
「亜美もそう思ったんだけど、それは違うよ。でも……何だろ」
「……ひょっとして、愛着のことか?」
「あ、そうそう! それだよそれ」
私と真美の声が見事にハモっていて、兄ちゃんが声をあげて笑った。
何が面白かったもよく分からないのに、兄ちゃんの笑い声に釣られて、私と真美も笑っていた。
終わり
―後書き―
どこにも投下無し菜作品。亜美メイン。
『思いやり』をテーマにしてみたつもり。
アフタヌーン娘。とか恥外聞は当然アレです。