Never leave me!


 いつもよりも多い量の事務がようやく片付いたと思った所、置時計のアラームが鳴った。
 パソコンの脇に視線を落とすと、定時の午後五時を一時間も過ぎていた。
 昔は事務所の中にもアイドル候補生が沢山たむろしていたものだったが、その全員が芸能界へ飛び込んでいった今、事務所の中
は少々寂しく感じられることが多くなってきた。
 所属アイドルは忙しくあった方が芸能事務所としては望ましい。それは確かなのだけれど。
 マグカップに残ったカフェオレを飲み干して、水道ですすいでいると、ふと溜息が口から漏れ出た。


 ある年の四月に高木社長が引っ張ってきた一人の青年のことが頭に思い浮かんだ。
 道端で社長に声をかけられて、プロデューサーとして勧誘を受けたらしいその青年は、背が高くて体つきもしっかりしていたの
に緊張に背筋を縮こまらせていて、初めて会った時はやけに小さく見えたのを今でもよく覚えている。
 入社にあたっての事務的なことや、あの頃は居酒屋の上にあったささやかな設備の案内、アイドル候補生の簡単な紹介など、彼
がここに馴染むまでの世話はもっぱら私の担当だった。
 「女の子だらけで肩身が狭いです。本当に俺、やっていけるんでしょうか」
 担当するアイドルが決まって仕事が始まってからも、よく彼がこぼしていた愚痴だった。
 デビューしていったアイドルの女の子達も数十万のファンを抱えるようになり、新規に雇い入れたプロデューサーの教育も担う
ようになってからは、あまり彼と社内で顔を合わせることも無くなっていった。
 765プロ所属の女の子で例えるならば春香ちゃんみたいなタイプ。明るく純朴で、よく口元を綻ばせる人。
 言葉が出てこない時に人差し指をクルクル回す仕草が強く印象に残っていて、それを思い出すと、懐かしさが込み上げると同時
に雨漏りの雫のように寂しさがぽたぽたと垂れてきて、温まりゆく心を冷やした。
 考えたって仕方が無い。彼は順調に出世しているのだから、寂しさなんて感じるべきでは無いのだ。
 更衣室の中で制服を脱いだまま下着姿でぼんやりとしている自分に気付いて、慌てて着替えを済ませた。


 「社長、お先に失礼します」
 「あぁ、今日もご苦労だったね。まだ帰って来る者がいるから私は残っているよ」
 聞くだけで心が落ち着く高木社長の声を背に、ドアを開けて職場を後にする。
 出勤時間も退勤時間も噛みあわないし、忙しくて到底無理だろうとは思うが、久しぶりに彼の顔を見たいような気がした。
 恋しさに似たモヤモヤを抱えながら歩いていると、壁に寄りかかった人影が私の存在を目に留めて声をかけてきた。
 「やぁ、小鳥さん」
 「あ……」
  仕事帰りといった服装の彼を見て、久しぶり、の一言が喉の奥につっかえて出てこなかった。
 「定時に上がってくるものと思ってたけど、今日は長かったんですね」
 「ええ、今日はお仕事が多かったので……って、ずっと待ってたんですか?」
 はいそうです、と、彼は歯を見せて笑った。
 「えっと……小鳥さん。この後、時間ありますか?」
 僅かに言いよどんでから、彼が問いかけてきた。当然と言ってしまうのも情けないが、予定は無い。
 「はい。あとは家に帰るだけって感じで……ちょっとさみしい気もしますけど、あはは」
 「飲みに行きませんか? ちょっといい感じの店知ってるんですよ」
 懐かしく感じられるお誘い。以前はよく仕事の後に彼と一緒に飲みに行ったものだった。
 「いいですね……行きましょうか!」
 満足気に頷くと、エレベーターに向かって彼が歩き出す。その広い背中の後ろを私はついて行った。


 彼に連れてこられた先は、喧騒めいた賑やかな居酒屋ではなく、地下にある落ち着いた雰囲気のバーのような場所だった。
 「予約していた者ですが……」
 店員に彼がそう告げると、名前を確認した後で奥へ案内された。椅子が横並びになったカウンター式のテーブル。
 いわゆるカップル席だった。
 「プロデューサーさん、予約してた……って」
 「あ、バレちゃいましたね」
 「……もしかして、私が来るまでずっと待ってるつもりだったんですか?」
 「そうですよ、だって……おっと」
 まだそこから先は禁止事項とばかりに、彼は突然口を噤んだ。
 「なんですか、隠すことなんですか?」
 「いやいや、直に分かりますから、もうちょっと待っててください。さ、飲み物頼みましょう」
 メニューを取って彼が私に手渡す。肩透かしを食らったような気分だが、直に分かるというのなら直に分かるのだろう。
 それ以上は気にしないことにした。
 二人でメニューを共有しつつ眺め、私はカシスオレンジ、彼はジン・トニックを注文することに決めた。
 ついでに大きめのシーザーサラダも注文する。彼が言うにはこの店のサラダは美味しいという評判らしい。
 以前に誰かと一緒に来たことがあるのだろうか。彼の担当アイドルは確か未成年だったはずだけど。
 もしかして、と、ふと頭に嫌な予感が過ぎって、口の中が苦くなるのを感じた。


 やがて飲み物とサラダがやってくると、喜びを顔の表面に滲ませながら彼が体をこっちに向けた。
 「さて、小鳥さん。明日は何の日だかご存知ですよね?」
 今日は九月八日。明日は、九月九日。九月九日は──
 「あっ……」
 生活のサイクルが一定になってしまってからは、そして、二十代も半分を過ぎた頃からはその日が訪れるのを煩わしく思ってす
らいた。
 「そう、小鳥さんの誕生日ですよね。俺、明日は仕事が遅くまでかかっちゃって……多分会えないから。フライングですけど、
 いいですか?」
 去年はお祝いできなくてすみませんでした、と彼は付け足す。
 申し訳無さそうに照れ笑いを浮かべる彼の左手が、不自然に腰の後ろに隠れているのが見えた。
 ──隠すならもうちょっと上手にやればいいのに。
 胸の内が温かくなって、頷きながら思わず唇が釣りあがった。
 「えーと……女性って年齢を重ねることに敏感だから、どうかな、とも思ったんです」
 「……そうね。私ぐらいの年になると結婚してる人も多いし、後ろめたさや焦りを感じるようにはなるわね……」
 私が言うと、彼の肩にぴくりと動揺が走った。
 「でっでも俺は、年を重ねるっていいことだと思います! 人生経験を積んでもっと人間が豊かになって……そう、今の小鳥さん
 は、去年の小鳥さんよりもっと素敵になってるはずですっ! それに、大きな怪我も病気もせずに去年から一年健康でいられてっ」
 (人間性が豊かになるほど経験を積んでいるのは私よりむしろあなたの方でしょうに……)
 ちょっと的外れなことを言っているような、と突っ込みたくなる気持ちにストップをかける。
 動揺を振り払うように力説する彼の表情があまりに一生懸命で、なんだか可愛かったから。
 緊張や不安に怯えるアイドルを励ます時もこんな調子なのだろうか。ちょっと彼女たちが羨ましい気がした。
 「……ってわけで、これ、プレゼントです。一日早いですけど、誕生日おめでとうございます」
 一息に言い切ってしまうと、彼は腰の後ろに隠していた左手を差し出した。
 思っていたよりも大きな箱。ご丁寧に黄と緑の縞模様のリボンでラッピングされている。
 こんな歳になっても、プレゼントを受け取る瞬間になると飛び上がりそうになる程の嬉しさが心の奥底から噴き上げてくる。
 「開けてもいいですか?」
 「ど、どうぞ。そんなに高価な物じゃないですけど……」
 リボンをほどいて中を開いて見ると、幾つか小さな箱が敷き詰められていた。
 花のような芳しい香りが何種類も混ざり合って箱の中からふわっと漂ってくる。
 爽やかな太陽が注ぐ土手沿い、優しい木漏れ日の差し込む森、泉のほとりに咲いた薔薇、そんなイメージが瞬間的に頭に浮かぶ。
 嗅いだだけで穏やかな気持ちになれる、そんな香りだった。
 「いい香り……」
 「アロマキャンドルと、お香と、アイピローです。この事務所、事務が多くて仕事大変だと思いますし、リラックスしてもらえれ
 ばと思って」
 キャンドルの入った箱を取り出してみると、日本語の一切無いパッケージ。外国産と思しきそれはいかにも気品が良かった。
 実用的といえば実用的で、夢が無いとも言えるかもしれない。
 しかし、これらのプレゼントの裏にある彼の心遣いが嬉しくて、静かな喜びにじんわりと体が温まるようだった。
 「うふふっ……もう三十路を意識する歳だっていうのに、嬉しくなっちゃった。ありがとう、プロデューサーさん」
 年甲斐も無く高校生みたいにはしゃいでしまいたい気分だった。
 「じゃ、お酒も来たことだし、そろそろ飲みましょうか。小鳥さん」
 彼がジントニックのグラスを手にとって、カシスオレンジのグラスをすっと向けてくれた。
 「えーっと……」
 私がグラスを手に取ると、彼が口元を引きつらせて、指をぐるぐる回した。
 どんなことを言ってくれるのだろう。私は彼の言葉を待った。
 「月並ですけど、小鳥さんにとって幸せな一年になりますように……ハッピーバースデー」
 『乾杯』とは言わず、その代わりに、キン、と薄手のガラス同士が透き通った音を立てた。


 二時間ほどが経っただろうか。しばしお手洗いに席を外して戻ると、プロデューサーさんが机に突っ伏していた。
 広い背中と幅のある肩を縮めて、大きな体をコンパクトにまとめている姿が笑いを誘ってしまう。
 「……やっぱり疲れてたのね」
 どうりで顔が赤くなるのが早いわけだ。いつもなら最後まで元気にワイワイやっているのに。
 今日もこの時間を作るのに相当頑張っていたのだろう。改めて彼の苦労が頭に浮かんだ。
 (リラックスして欲しいのはプロデューサーさんの方ですよ、まったく)
 少しだけ寝かせてあげてもいいかな、と思い、彼の隣に腰を下ろす。
 「こ…………小鳥さんは」
 「ん?」
 弱々しく、喉の奥の隙間から漏れ出てくるような声。
 寝言だと思った私は微笑ましい気分になった。
 「小鳥しゃんは……俺が幸せにするじょ……指輪」
 「え……えっ!?」
 何か言うかな、と耳を傾けていると、思いがけない言葉。
 飛び上がりそうなほどに驚いて、心臓が激しく動悸し始めるのを感じた。
 周りに誰もいないのをキョロキョロして確かめると、瞬く間に燃え上がるような熱が頭を焼く。
 「指輪……今日は持って来れにゃかったけど……いつか……むにゃ」
 「えっ……プロ……えっ、あ、あたし……どうしようっ!」
 血液が沸騰して毛穴から吹き出してしまうのではないかと思うぐらい、体が熱くなった。
 狼狽する気持ちに思わず椅子から立ち上がり、膝が彼の座った椅子にぶつかって音を立てた。
 その衝撃を感じ取ったのか、小さく折り畳まれた彼の体がビクッと跳ねた。
 「う……」
 のっそりと彼が起き上がる。まだ頭を地面に向けて垂れたままだ。
 (私、もうすぐオバサンになっちゃうかもしれないっていうのに)
 彼の頬の一角が妙に視界の中でやけに目立って……私は唇をそこに重ねた。
 「んんっ!? ……あ、ヤバ……俺、眠って……?」
 重たそうに閉じかけた目蓋をゴシゴシ擦りながら、彼は背筋をゆっくりと伸ばした。
 私が口付けた場所を見ると、うっすらと口紅の後がついてしまっていた。
 自分のしたことの印がそこに残っているのが急に恥ずかしくなって、手近にあったナプキンを手に取る。
 「な、なんか今、ほっぺが気持ちよかったような……?」
 「ほらほらプロデューサーさん、そこ濡れちゃってますよ」
 と言いながら、自分の照れを拭い去るようにしてそこを乱暴に拭き取った。
 「あ、小鳥さん……ごめんなさい。俺、自分で誘っといて寝ちゃうなんて」
 「女性をほっといて寝ちゃうなんてプロデューサーさん酷い、って言いたい所ですけど……疲れてるでしょう?」
 「い、いえっ……その……すいません」
 一旦は誤魔化そうとしたが、やっぱり誤魔化さなかった。嘘をつけない性格は変わっていない。
 安心すると同時に、久方ぶりの甘酸っぱさが胸に込み上げてきた。
 「そろそろ出ましょうか。明日もお仕事大変なんでしょうから、ふふっ」
 「……はい」
 観念したようにぺこぺこ頭を下げながらグラスに残った水を飲み干して、彼は席を立った。


 店の外にはまだ会社帰りのサラリーマンが歩道を埋め尽くすようにして歩いている。
 時々漂ってくるアルコールの匂いから、飲み屋帰りの人も中には混じっているようだった。
 プレゼントの箱がすっぽり入る大きさの紙袋を左手に提げて、私は外に出てくる彼を待っていた。
 「お待たせしました」
 ドアを開けて出てきた彼の顔色はだいぶ落ち着いていた。泥酔にならなかったことにホッと胸を撫で下ろす。
 仕事が上手くいかなくて彼がムシャクシャしていた頃は、それはもう酷い時もあったのだから。
 どちらからとも言わず、人混みに入り込まないようにして街灯の下を歩く。
 「明日が楽しみですね、小鳥さん。みんなきっと祝ってくれますよ」
 「そうですね、でも……」
 「でも、何です?」
 「……ううん、なんでもない」
 事務所のみんなに祝ってもらうよりも楽しいことが今日はあった、とは、敢えて言わなかった。
 さっきのあの言葉が本心だったのかどうかは分からないが、できるなら素面の時に彼の口から直接聞きたいと思った。
 「ねぇ、プロデューサーさん」
 「はい」
 「あたし……そんなに長くは待てないから。急かさないけど、早い方が嬉しいな……」
 「なっ……! ……は、はい」
 「ふふっ……うふふっ」
 それだけ言って彼に明らかな拒絶の意思が無さそうなことを確かめると、そっと腕を絡めて身を寄せた。



 終わり


―後書き―

誕生日一日前に投稿したブツ。
本当は何歳なんだろこの人…。