muffle up

 「うー、寒い、寒いよー……」
 「寒いって美希、そんなフル装備なのに寒いのか?」
 仕事帰りの夜道を歩く美希は、暖かそうなダウンジャケットに身を包み、頭にはニット帽をすっぽりと被っ
ている。スーツにマフラーを巻いただけの俺とは寒さ対策のレベルがまるで違う。それなのに、美希は自分の
体を抱き締めるようにしてぶるぶると身を震わせている。手袋をはめた指先が、黒いダウンジャケットのつや
つやした生地に食い込んでいた。
 「寒いよー。ミキ、寒いのはダメなの……」
 「夏も同じようなこと言ってなかったか? 暑いのは苦手だとかなんとか」
 「あー、暑いのもムリ。一年中春と秋だったらいいのに」
 身を屈めた美希が苦笑いを浮かべると、白い息がふわり。
 思えば夏場の仕事は大変だった。野外での営業の日は日陰から中々出てこようとしない美希を引っ張り出す
のに一苦労だったし、移動中の車内、隣の席でキャミソールの襟元を開いてパタパタ団扇で風を送っている時
なんかは、必死にフロントガラスの向こうを睨みつけていたものだった。
 だが、みっともない姿をカメラに晒すのはさすがに嫌なのか、いざ仕事が始まってしまえば集中して取り組
んでくれるのが救いといえば救いだった。
 「まだ冬本番というには少しばかり早いからな。これから更に寒くなるぞ」
 もっと寒くなったら、今度はストーブの前から置物のように動かない美希をどうにかすることが間違いなく
俺の業務に追加されることになる。いや、それ以前に布団から出てこないかもしれない。
 さて、どうしたものか。
 「えぇっ、もういいよ。これ以上寒くなったらミキ、アイスクリームになっちゃうよ」
 「いいじゃないか。ミキだったらきっと絶品の美味しいアイスクリームになる」
 「むー、そんなのヤ。ねぇプロデューサーさん、どうにかならない?」
 「……うーん」
 ニット帽にダウンジャケットに手袋。先ほどフル装備とは言ったものの、よく見ればまだ空いている箇所が
もう一つある。首元から空気が中に入り込んで寒いのかもしれない。マフラーがあれば違うと思うが、生憎こ
の場にあるのは俺のマフラーだけだ。
 「美希、俺のでよければマフラー使うか?」
 まぁ断られるだろうと思いつつも、一応訊いてみる。
 「えっ、いいの? 貸して貸して!」
 「男物だけど……いいのか?」
 俺の首からマフラーを剥ぎ取らんばかりに詰め寄ってくる美希に念を押してみると、「男物だとかどうでも
いいの」と言い切られてしまった。それだけ寒さが堪えるのかと思うと軽い笑いが込み上げてくる。
 「じゃ、いいよ。貸してあげよう」
 「うん、巻いて巻いて」
 ダウンジャケットのファスナーを少しだけ下ろして襟を開き、真っ白な細い首を美希が差し出した。無防備
な体勢と思わぬ色気にドキリとしたが、落ち着いて呼吸を整え、マフラーを美希の首に回す。
 「ひゃん!」
 「あ、悪い」
 首の後ろに手を回した弾みでうなじに指が触れてしまったらしい。素っ頓狂な声をあげて美希が身を縮めた。
 「プロデューサーさんの手、冷たいよ」
 「ははっ、俺は手袋をはめてないからな……よし、できたよ」
 余ったマフラーの端を押し込むようにしてファスナーを閉じると、寒さに翳っていた表情が笑顔に変わった。
 「あはっ、あったかーい……ありがと」
 満足感が心の内にじわりと広がっていく。こんな表情を見られるのなら、首元が多少スースーしたっていい。
 見るからに元気の出た美希の足取りも軽くなり、冷えた風の吹き付ける夜道からは、心なしか冬が遠ざかっ
ていったようだった。
 事務所からの最寄り駅に辿り着いたのは、それからすぐのことだった。


 「美希、そのマフラー、今日は預けておくよ」
 「プロデューサーさんは、寒くならない?」
 「だって、外したらさっきみたいなことになるだろ、明らかに」
 マフラーをつけて首元が温まっても口周りが冷えるのが不満だったのか、鼻先までマフラーで隠すようにし
て、美希はニット帽とマフラーの隙間から翡翠色のくりくりした瞳を瞬かせている。ダウンジャケットと色を
揃えた暗い色のニット帽に、同じような色のマフラー。忍者の頭巾を被っているような様が、どこか可笑しい。
 「ならミキ、このまま借りていくね。ありがとうなの」
 「明日は自分のマフラー持ってこいよ」
 「うん、そうする。じゃあ、また明日ね。バイバイ」
 細めた瞳と弾むような声に美希が笑ったことを確かめて、手を振りながら安心する。
 軽く着膨れた姿を見送った所で、俺も事務所へと踵を返した。



 それから三日ほどが経った。まだ俺のマフラーは返ってきていない。
 というのも、
 「なんだ美希、またマフラー忘れたのか」
 事務所に美希が顔を出す度、その首に俺のマフラーが巻かれているからである。初日は「自分のを持ってく
るのを忘れた」、二日目は「自分のがどこに行ったか分からない」、そして今日だ。
 「プロデューサーさん、やっぱりミキのマフラー、お家に無かったよ。もしかしたら部屋を片付けた時に捨
てちゃったのかも」
 「うーん、そうか……だったら、いっそのこと買いに行くか? 仕事終わった後にでも」
 「そうした方がいいって思うな」
 「おいおい、他人事みたいに言うなって……全く」
 悪びれる様子も無く、口元まで覆ったマフラーを外して上機嫌で畳む美希に、呆れる思いで溜息をついた。


 スタートが遅かったせいで夜までかかってしまったが、それほど忙しくは無かった一日を終え、向かってき
た先は事務所からそう遠くない場所にあるカジュアルウェアの店。黄白色の明かりが照らす店内にはR&Bのサウ
ンドが大音量で流れている。女性用衣服のコーナーなので美希一人で行かせようと思っていたが、一人にされ
たら不安だと美希が言うので、渋々俺もついていくことになってしまった。
 まぁ、有名人である美希をこういった場で一人にするのは確かに危険かもしれない……が、売り場にもカウ
ンターにも女性しかいないようなフロアにぽつんと佇むスーツの男は、確実に浮いている。いたたまれない気
持ちで胸がいっぱいだ。穴があるなら逃げ込みたい。
 「ねぇねぇ、この色とかどう?」
 「んー、いいんじゃないか?」
 マフラーの売り場に連れてこられて、売り場にあるマフラーをあれやこれやと手に取って物色する美希。衣
装のコーディネートに立ち会うことも仕事の都合上多かったので俺の色彩感覚は磨かれたと思うが、やはり美
希のセンスには及ばないと思う。俺が変に口出しするよりも、美希が選んだ方がいいだろう。恐らく美希も、
俺より美希自身の美的感覚の方が優れていることは自覚しているはずだ。
 「プロデューサーさんは、どっちがいいと思う?」
 それなのに、美希はそんな俺の思惑をよそに、選択権を俺に委ねようとする。なぜだろう。
 「うーん、こっちの赤い色の方がいいんじゃないか。いかにも暖かそうだ」
 「こっちがいいんだ。分かった、じゃあこっちにするね」
 俺の答えを聞くなり即座に、美希が緑色のマフラーを棚に戻した。
 「いいのか? まるで俺が決めたみたいじゃないか」
 「うん、どっちでも良かったんだけど、ちょっと迷ってたから」
 目を弓なりにしながらそう言って、棚の前でボケッと突っ立っていた俺を、レジに向かう美希が手招きした。
 首元からは、揺れる金髪を引き立てるかのように、男物のマフラーがはためいていた。


 「じゃあ、プロデューサーさんに返すね、マフラー」
 少しでも冷たい空気に触れるのが嫌なのか、衣服売り場のフロアを離れた階段の踊り場へやってきた所で、
ようやく美希の歩みが止まった。壁を背にして立ち、美希の首元からするりとマフラーが抜けた。
 「はい、首出して」
 「い、いいよ。自分でやるから」
 「いいからいいから」
 自分から何かをしようという意欲には少々欠けている美希が、いつになく積極的に動いている気がする。こ
んなことをしてもらうなんて照れ臭いが、促されるままに首を差し出した。
 「んしょ、んしょ……」
 爪先立ちになって美希が俺の首元に手を伸ばしてくる。室内だからだろうが、時々触れる指は温かい。
 「できたー!」
 三日ぶりの、チクチクするような毛糸の感触。鼻で呼吸すると、マフラーには俗に言う「女の子の匂い」が
染み付いている。すれ違い様にふわっと鼻腔をくすぐるシャンプーの匂いとは若干色合いの異なる香りに「美
希の匂い」というラベルが頭の中で自動的に作られて、首筋の火照る熱を感じた。
 「暖かかったよ、それ」
 タグを切り取って、買いたてホヤホヤで湯気の出るような赤いマフラーを身につけながら、美希が言った。
 細い首に綺麗に巻きついたそこからは、美希のつやっとした唇が見えていた。
 「あれ、口元は隠さないのか? この間は鼻の所まで覆ってたのに」
 「うん」
 答えがYESしか存在しない問題に回答するかのごとく、美希はこくりと頷いた。そこそこ付き合いは長いつも
りだが、まだまだ美希には謎が多いな、と思った。
 「結構いいカンジだったよ」
 「ん、あぁ、割と奮発して買った奴だったからな、これ。手触りとか気に入ってるんだ」
 「違うよ、そうじゃなくって」
 「じゃあ、何?」
 「んーとね……」
 頭の中で答えを探っているのか、寄り目になって美希が考え込む仕草を見せた。
 「に……」
 「ん?」
 「……ナイショなの」
 鼻の頭に指先を引っ掛けながらそう言って、美希はぷいと顔を背けて歩き出した。
 心なしか、その頬はほんのりと朱に染まっていたように見えた……が、マフラーも赤かったし、何しろ一瞬
しか見えなかったもので、俺はそれ以上確かめることはできなかった。
 
 その日、店の外に出てからの美希は、妙に早歩きだったように思えた。


 終わり



―後書き―

マフラー話はこれで二つ目。定番ネタなんで多分この冬にあと二つぐらいは出てくるんじゃないかと……。
夏も冬も苦手な美希は季節の変わり目に苦労が絶えないでしょうね。冬なんか着膨れして達磨みたいになってる
図が目に浮かぶようです。……ゲーム画面じゃキャミソールにマイクロミニだから分かりませんが、きっと。