もっと


 弥生の初頭。昼間の温かさに春の気配を感じることも多くなったが、日が暮れれば相変わらずの寒風がビル
の谷間に吹き付ける。現事務所の社長を務める、元々私のプロデュースをしていた男性に連れられて都内のと
あるパブへやってきたこの日も、ひんやりした空気に肺まで冷えそうだった。
「こういう所、よく来るんですか?」
 高層ビルの上まで淡々と上っていくエレベーターの中で彼に尋ねてみると、長い前髪が横に揺れた。
「765プロにいた頃、高木社長に連れてきてもらって、それっきりさ。同僚と飲みに行く時は、いつも居酒屋で
ワイワイやってたしな」
 彼は少し遠い目をして、小さくなっていく地上の景色の方を向いていた。15、16、17……階数を示すランプ
が規則的に、無機質なオレンジを受け渡していく。
「古巣が恋しくなりました?」
「……いいや」
 一瞬の空白。本当は図星でしょ、と私が言いかけた所で、平坦な機械音声が到着を告げた。

 黒いボードに金色の筆記体が踊る看板が印象的なそのパブは、事前に彼の口から聞いていた通り、人がいる
にも関わらず静かだった。どこからか、邪魔にならない程度の音量でゆったりとしたモダンジャズが聞こえる。
 予約を取っていたものですが、と彼が告げると、ウェイターは恭しく頭を下げながら私達を窓際の席へ案内
してくれた。二人用の席ではあったが、テーブル越しに向かい合う形では無く、隣同士で腰掛けるスタイルの
いわゆるカップル席というものだった。窓に面したその席の向こうには、上から見て初めて現れる電飾の森。
「いい眺めですね」
 きっと思惑通りなんだろうと分かりつつも私が言うと、彼は「そうだろう」と笑みをこぼした。
 席に案内されるまでにそれとなく周りを見渡してみた時、視界にはカジュアルな服装の人も、豪華絢爛に着
飾った人もいなかった。折角彼に誘われたのだから、もう少ししっかり化粧をして服装も吟味して……と考え
ていたけれど、ビジネススーツがこの店には最も相応しい気がする。
「悪かったな、仕事のついでみたいになっちまって」
 席に腰を下ろすや否や、彼が横目で私を見ながら言った。
「時間ができただけいいじゃないですか。ただでさえ人手不足で忙しいんですから、ウチの事務所は」
「それもそうだな」
 『二十歳になったら、二人で飲みに行こう』
 実際の所は、けじめが付かないと思った私が成人式の後まで先送りにしていた約束だった。単純に、体に悪
いという話ばかり聞くお酒を自分が飲むことに抵抗があったのもあるかもしれない。でも、私が彼の誘いにオ
ーケーを出した時の無邪気に喜ぶ顔を思い出すと、行こうと決めて正解だったと思う。
「さ、律子は何飲むんだ?」
 開かれたメニューには、飲み物の名前だけがズラリ。左上から右下まで、耳にしたことはあっても口にした
ことは無い物が、時に写真つきで所狭しと並んでいる。
「こ、これ全部お酒なんですか?」
「ああ。キッツいのからジュース感覚のものまでいっぱいあるぞ」
 何を飲めばいいのだろう。メニューの上に指を彷徨わせる私を他所に、彼は早速頼むものを決めたらしい。
添えられていた食べ物のメニューをペラペラとめくっては目当てのページに指を挟んでいる。長い指の先にあ
る、女の人みたいな形の綺麗な爪に思わず目が行く。
「何かお勧めのってありますか?」
 中々決められずに彼に尋ねてみると、整った爪がメニューの上を滑った。
「梅酒なんかいいんじゃないか? 甘くて飲みやすいし、律子は甘党だったろ?」
 黄金色の液体が注がれたグラスの写真の前で、指が止まる。
「強い?」
「そうでも無いさ。ビールとかよりは強いけど、悪酔いする酒じゃない」
 酒のことを語る彼の表情には、どこか私に対する優越感が感じられた。私よりも何かに詳しいことが嬉しい
のか、満足げに笑う顔を見ていたら、突っ込みを入れようとする気持ちが喉の奥へ引っ込んでいった。
「じゃあ、これにしてみますね」
 彼の導き通りに梅酒をソーダ割り──サワーと言うらしい──を頼んでみることにした。すぐさま彼が手を
上げて、先程の上品なたたずまいのウェイターを呼んだ。いつの間に決めていたのやら、食べ物まで含めてす
らすらと口からオーダーを告げる姿は、ちょっぴり「デキる男」に見える。
 未だに収支計算でミスする人なのに、ね。


 程無くして、飲み物が運ばれてきた。ゴブレットに注がれたビールと、黄金色の液体が注がれたタンブラー。
多分、こっちが私のだ。
「さて、来るべきものが来たな」
 グラスを手に取ってみると、ひんやりとした冷たさが掌を駆け抜けた。少し揺すれば、パチパチ音を立てる
サワーの中でカランと洒落た音を立てて、氷が泳ぐ。ウイスキーのCMに出ていた俳優さんにでもなった気分だ。
「おいおい律子。浸る前に乾杯しようぜ」
「あっ、そうですね」
 一緒に食事に行った時はいつもやっていたことだけど、お酒の入ったグラス同士でそれをするのは初めての
こと。乾杯、の声と共に彼がゴブレットを突き出して、チンと澄んだ音色が控えめに響いた。
 彼は何の躊躇も無く、グラスを傾けてビールを飲み始めた。それを見て、私は視線を自分のグラスに戻す。
 いきなり一気飲みしたりしなければ、大丈夫か。
 思い切って私もグラスの縁を唇に付けた。
 冷たい。炭酸が弾けて口の中がぴりっとした。甘酸っぱい梅の香りの中にジンとするものが混じっている。
 鼻の奥までその爽やかな香りを通してから嚥下する。
「どうだ?」
「……思ったよりも、普通……」
 素直な感想だった。喉を通り抜けていく時にちょっとだけ刺激があったけど、炭酸の入ったジュースとあま
り大きな差は無いように感じられた。
 お酒と言えば、夜の電車で感じるアルコール臭や泥酔したサラリーマンに、テレビや雑誌で見た急性アルコ
ール中毒による死亡事故などなど、毒のような悪いイメージしか持っていなかっただけに、この美味しさには
あっけなさすら感じた。
「結構楽に飲めるものなんですね、お酒って」
 当然モノによるけどな、という彼の声を聞き流しながら、またグラスの中の液体を飲み込む。甘酸っぱくて
美味しい。私の中で、お酒に対するバリアがどんどん薄くなっていく。美味しいからこそ危ないのかも、とい
う思いが込み上げたが、すぐにすっと掻き消えてしまった。

 しばらくすると、食べ物がやってきた。ボウルに盛られたシーザーサラダに、見ているだけでもサクサク感
の伝わってくるフィッシュ&チップス。私が手を伸ばす前に、彼がサラダを小皿に取り分けてくれた。ありが
とう、と視線でお礼を言う。
「イギリスだと、こういうポテトフライがチップスで、ポテトチップはクリスプって言うんですよね、確か」
「……今俺が言おうとしてたのに、それ」
「だって、言いそうだったんだもの」
 出鼻を潰されて彼が苦笑した。私の中に、意地悪な喜びがじわっと滲み出た。彼の横顔と外の夜景と、目の
前で美味しそうにランプの明かりを浴びる食べ物と、私の視線は大忙しだ。カリッと挙がったチップスを齧り
つつサワーのグラスを傾けていると、キンと鋭い冷たさの氷が唇にぶつかった。
「案外ペースが早いんだな」
「え? ……あ」
 気が付けば、タンブラーいっぱいに注がれていた梅酒は空っぽ。梅のエキスを少し吸った氷が原型もそのま
まに佇んでいる。彼のゴブレットには、まだビールが少し残っている。
「丁度俺も次を頼もうかと思ってた所だ。行くか、二杯目?」
 彼がメニューを広げた。一緒に覗き込んで、肩が触れ合う。
「次はどれにするんだ?」
「えーと、これ、ちょっと気になるんですけど」
 カルアミルク、という名前の白いお酒を指差して尋ねた。
「あー、カルーアか。コーヒー牛乳を甘くしたような感じのカクテルだ」
 さっきのよりも更に口当たりが滑らかだぞ、と付け足す彼の言葉に、更に興味が引き立てられる。
「じゃ、私、これにします」
 再びメニューが閉じられて、彼がさっきと同じようにウェイターを呼んだ。


 「律子は、結構飲めるタイプなんだな」
 甘くてまろやかなカルアミルクのグラスも空になり、三杯目だったか四杯目だったか、とにかくカシスオレ
ンジというカクテルのお酒が半分以上減った辺りで、彼が言った。手に握られているのは、真っ黒なビールの
注がれたグラス。一口飲ませて貰ったけれど、苦くて苦くてとても私に飲めるとは思えないようなものだった。
「まぁ、案外スルスル行けちゃうっていうか……お酒は大丈夫みたいですね、私」
「嬉しいことだな。こうして律子と二人で酒を飲み交わせる時間が来て欲しいって、前から思ってたから」
 噛み締めるような彼の声。
「そうですね。ゴハン食べに行く時とはまた違う、なんていうんでしょうね……ふふ」
 この嬉しさを上手く表現できずにお茶を濁していると、後ろでまとめた髪が窮屈に感じられた。ぱさっと解
いて肩口に髪を下ろす。体が温まってきたのか、少し暑さも感じられて、ブラウスのボタンを一つ緩める。彼
の視線がその指先を追いかけて胸元に忍び寄ってきたのを、私は見逃さなかった。
「見たでしょ」
「す、すまん」
「別にダメとも何とも言ってないでしょ」
「じゃあ、覗いてもいいってこと?」
 鉤の形になった人差し指が胸元目掛けて伸びてきた。
「ダメに決まってるじゃない。場所を考えてくださいよ」
 同じ形を作った指を引っ掛けて阻止する。これが小指同士だったら、指きりげんまんだ。
「…………」
 彼の角ばった手の甲、長い指、浮き出た拳の骨が色っぽくて、左手がそこへ伸びる。何があったわけでも無
いのに妙にウキウキした気分で、肌に触れることにも抵抗は感じなかった。
「男の人なのに、手、綺麗ですよね」
「そうか?」
「そうですよ」
 手を繋ぎたい。そう思った時には、もう私の指は彼のそれに絡みついていた。左に座る彼との間にある数cm
の空白ももどかしく感じられた。ぴったりと距離を詰めて、私よりも大きな体に寄りかかる。
「り、律子?」
 彼が身じろぎした。目線が泳ぐ。
「なんですか」
 くっつきたいからくっつく。一体何か都合の悪いことでもあるのか、と言葉に出さずに訴えかける。目で物
を言っても通じるのは、アイドル時代のレッスンで得た財産かもしれない。
「酔ってる?」
「なんで?」
「律子にしちゃ大胆じゃないか。いきなり手を握ってきたりして」
 ごほん、と咳払い。よく見ると、目の下がほんのりと赤い。
「照れてるんですか? そうでしょ、私からアプローチかけたら恥ずかしがっちゃって、可愛い」
 得体の知れない楽しさが足先からじわじわと登ってきて、全身を包む。ふわふわと軽い浮遊感のようなもの
を感じながら、右手を伸ばして彼の顎のラインをこちょこちょとくすぐった。
 耳元まで指を這わせると、
「よせよ」
 と言って、彼はまた視線を窓の外に投げ出した。その様子が、私の心を絶妙にくすぐる。
「ねぇ」
 握った左手を離して、彼の顎を掴む。じっと彼の瞳を見つめると、奥に私の姿が映っていた。
「な、なんだよ。キスでもするつもりか?」
「うん」
 したいからする。ただそれだけ。なぜか、根拠の無い勇気とか度胸みたいなものが湧いてきて、私の背中を
後押してくれる。まるで、魔法がかかったみたいだ。今だったら、どこまでも思い切れそう。
「いや、うんじゃなくて」
「ダメ?」
 わざとらしく甘えた声で尋ねてみると、彼が溜め息をついた。
 ああ、じれったい。
「場所を考えろって今さっき言ったのは、どこの──」
 時間切れ。まだ喋っている途中の彼に半ば強引に唇を重ねた。私と彼の間だけ、時間が静止した。

 一秒、二秒、三秒……。
 遠慮がちな鼻息が当たる。
 息苦しくなってきた。
 もうちょっと。
 あと少しだけ……。

「……苦い」
 唇を離して始めに感じたのは、ビールの苦さだった。
「俺は甘かったぞ」
「なんか、不公平」
 膨れっ面になっていると、腰に彼の右腕が回ってきた。寄りかかっていた体をぐいっと抱き寄せられた。
「抑圧されてるんだな」
「……えっ?」
 なんだか、頭がぼんやりとしてきた。体も気だるくて、今彼が言った言葉がよく聞こえなかった。
「普段、もう少しベタベタしたい、とか考えるのか?」
 耳元で囁く、彼の声。お腹まで響くようで、聞いていて心地良くなる低さ。
「……うん。もっと積極的になっても、私、怒らないのに。ボディタッチとかも、ちょっとぐらい強引にした
っていいんですよ? 仕事も大事だけど、もっと、デートとか誘って欲しいですよ。どこ行くとか何も考えて
なくても機嫌損ねたりしないから、ね? だから、もっと……」
 もっと、もっと、もっと。何を言おうか考える間もなく、勝手に口が言葉を紡ぎ出す。
 口にしてから数秒経って、頭が意味を理解する。
 ああ、私、こんなにも不満を感じてたんだ。仕事の忙しさと楽しさに、全然気が付かなかった。
「とにかく……そういうことなんで」
 ひとしきり言うだけのことを言って、力の抜けた体を彼に預けると、なんだかスッキリした。全身の垢が綺
麗さっぱり削げ落ちていったかのようだ。
「すまなかった。いや、ありがとう、かな。本音を話してくれて」
 眉尻を下げて申し訳無い顔になった彼の掌が、私の頭を撫でた。
「本音……そうですね」
 多分、気が付かなかっただけじゃなくて、言うのが怖かったんだ、私。「面倒な女」だと思われるんじゃな
いかって不安になってて、言う勇気が無かったんだ。
 お酒を飲むのって、きっと悪いことばかりじゃない。本音を曝け出す勇気を与えてくれる、魔法の薬なのか
もしれない。自分の中の偏見が溶けて、小さくなっていく。
「まぁ、今日はそろそろお開きにしようか。ちょっとしんどそうだしな」
「なんか、だるい」
「吐き気とかは、平気か?」
「ええ、それは大丈夫……ですけど。酔っ払うって、こんな感じなんですか?」
「だいたいそんな感じだと思うぞ。その様子だと、あまり悪酔いはしてないみたいだけどな」
 私と同じぐらいの量を飲んでいたはずの彼は思った以上に冷静で、それが頼もしかった。
「カルーアとかって意外と度数強いんだよな。平気そうに見えたんだけど」
「うん……」
 体を動かすのが億劫で、このまま彼に抱き止めていてもらいたい。でも、立ち上がらないと外に出られない。
 スーツの裾をくいくいと引いた。
「ん、何だ?」
「帰り、おんぶしてよ。動きたくない……」
 思いついたとほぼ同時に、そんな子供みたいなことを言っていた。
 自分で歩けって言われるかも。直後に思った。
「……分かった。会計済ませてくるから、いい子にして待っててくれよ」
 私の顎をこちょこちょやってから、彼は私の体を隣との仕切りに寄りかからせてくれた。「いい子にしてる
んだぞ」なんて、まるでペットか小さな子供をあやすみたいにされてしまったことが、ぼんやりした頭にもち
ょっと恥ずかしい。でも、悪い気はしなかった。

 
 数分後、私は夜風の冷たい街中を、彼の広い背中に揺られていた。顔をびしびし叩く空気に思考の落ち着き
を取り戻し始めていたけれど、それと同時に、さっきまでの、どんなことでも躊躇無く言えてしまいそうな解
放感に似たものが私の中からうっすらといなくなっていく。
 彼に言いたいことがある。今なら、まだ言えそうな気がする。お願い、まだ解けないで。
「ねぇ」
 彼の名前を呼んだ。
「なんだい、律子」
 言えるだろうか。うん、言える。魔法は、まだ効いてる。
「愛してますよ」
 彼以外には絶対聞こえないように、耳元でそっとそう囁き、しがみついた腕に力を込めた。


 この日のそれからのやりとりを、私は「酔っ払って何も覚えていない」ことにしてしまった。後から思い出
したらあまりにも自分の言動と行動が恥ずかしくて、翌日彼の目を見て話せないぐらいだったから。
 この日以来、彼とのスキンシップが少し増えたのだけれど、それはまた別の話。


 終わり



―後書き―

酔っ払ってタガの外れた律子を! 受身が一転積極的な律子を!
と思ったらアニバーサリーの焼き直しみたいな話に。
もっとお洒落にまとめたかったんですが、いかんせん技量不足orz
でも、初めてアルコールに触れて偏見が解けていく過程は書けたかな? と思ってたり