社長の薦めで鑑賞しに来たジャズシンガーのライブもいよいよ大詰め。 ベースの重低音とハスキーな歌声の生み出す厚みのある音は、いつまでも揺られていたい心地よさがあった。 普段の俺たちの芸能活動で耳にするようなポップな音とはやや遠いものであったにせよ、今後の指針として大いに参考にできる ものであると思う。 「さ、律子、そろそろ帰ろうか」 と、隣の席に座る律子に声をかけるも、返事が無い。 「律子? ……って、寝てる…」 ライブ中に時々目をこすっていたから、まさかとは思っていたが、どうやら途中で眠りについてしまったらしい。 一応仕事で聴きに来ていたのだから寝られては困るのだが、過ぎてしまった事は責めようも無い。 「さっき一回起こしたのに。ほら律子、もうライブ終わっちゃったから、帰ろう」 「う〜……眠いのですぅ」 「いや、『眠いのですぅ』じゃなくてさ、もう会場も閉まるから…」 肩を揺すって起こしても、意識があるのやら無いのやらかなりきわどい境界線上を沈み続けているらしく、背もたれに身体を預 けたまま起き上がろうとしない。普段は居眠りをするような律子では無いのだけれど…疲れているのだろうか。 ジャズシンガーの落ち着いたサウンドも原因の一つなのかもしれない。 「………」 少し待ってみるか、と思い、五分、十分。 一向に目を覚ます気配も無いまま、律子はすぅすぅと寝息を立てている。 「おい律子、もうみんな帰っちゃったぞ?」 もう一度、肩を揺する。 「むにゃ…………」 「お、起きたか?車の中でなら寝てていいから、ほら起きてっ」 「……ん……………むぅ」 一瞬目を開いた所に追い討ちをかけてみたものの、ぷいっとそっぽを向かれてしまった。 本当は目が覚めているのかもしれないが、どうやらあくまでも起きないつもりらしい。 ああ、参った。もう会場には俺たちしか残っていないじゃないか。 こうなったら実力行使で連れ出すしかない。 「……しょうがないな。後でいちゃもんつけるなよ?」 ヒザの上にかかったままの手をつかんで身体を持ち上げ、俺の肩から引っ掛けて背中に乗せた。 ぷらんと力無く垂れた両手を掴んで首の前で交差させ、律子の両膝を手で支えて立ち上がった。 目を覚まさなかった律子を、俺は強引にかついで会場を後にした。 会場と出て、夕暮れ時の駐車場を歩いていても、律子は一向に目を覚ます気配が無い。 やれやれ、こうまで居眠りを貫き通すとは。 でも、アイドル活動に事務仕事に学業と、疲れる気配も見せずバリバリ働く律子もやっぱり疲れれば眠るのだと少々安心はして いる。確かに仕事で来ているのに寝てしまうのは気が抜けている部分もあるが、それだけ俺とは緊張せずにいられるという事なの かもしれない。 初めて会った時から随分打ち解けたものだ。そう考えれば嬉しい。 いくら体重が軽いとは言っても、背中にずっしりとかかるのは人間一人分の重みだ。 これが続くのが駐車場の車まで、というのは正直言って有り難い所だ。ただ── 「………やっぱり大きいんだな」 背中に感じる嬉しい柔らかさと、時々首筋にかかる寝息は、勿体無くあるが。 「さて、ついた」 駐車場はそう会場から遠いわけではない。 数分歩いた所で車のある場所に到着し、リモコンでロックを解除してまずは助手席のドアを開く。 眠ったままの律子を助手席に寄りかからせ、シートベルトをかけてやり、目に留まった後部座席の毛布をかけてやった。 (メガネ…曲がったらマズイよな) 俺はメガネをかけないから分からないが、普通メガネをかけている人も寝る時は外すものだ、と思う。 ちょっと失礼、と律子のトレードマークに指を引っ掛け、そっと上に持ち上げてメガネを外した。 「あ、ケースはカバンの中か……さすがに勝手に開けちゃうのはマズイよな…」 とりあえず、スーツの胸ポケットにメガネを引っ掛けておいた。後で目が覚めたら返せばいいだろう。 「………」 さて、助手席のドアを閉めてエンジンを、と思った所、つい気になって律子の表情を覗き見た。 緊張感のかけらも無い、緩みきったあどけない寝顔。トレードマークすら無い、律子の素顔。 メガネのフレームに隠れて今まで分からなかったが、目を閉じている所を見ると睫毛の長さが目立つ。 「なんだ、やっぱり可愛いじゃないか」 思わず感想が漏れた。 事務所の他のアイドルとは少々違う経緯で、本来希望していなかったはずのアイドルになった律子。 初めから自分を売り込むつもりで事務所に入った他の候補生と違い、律子のルックスに対する自己評価は特に低かった。 元々自分は可愛くないと思い込んでいる節があって、マニア層狙いと言いつつ、わざと自分の見た目を地味にしているような気 がするのだ。 あのメガネは、目が怖いのを隠したいから、というのも理由の一つだとの事だ。 俺から見れば、顔の造形は本人が言うほど悪く無いし、本人が気にしている目もキリッとしていて勝気な律子の魅力を引き立て ていると思う。しっかり磨けばルックス押しで売り出しても充分勝負していける容姿だと思うが、俺が正直に見た目を褒めればお 世辞だと思って苦い顔をされるのが関の山だ。 「それにしても…」 いつもビシッと張り詰めた律子の隙だらけな姿の、その大きなギャップに、俺は中々目を離せずにいた。 呑気とも言えるテンポですぅすぅ寝息を立てている律子の閉じられた瞼の下、筋の通った鼻の根元にはしっとりした質感の唇。 普段意識して見ないような所だけに、やけにその桜色が目立って感じられる。 呼吸に合わせて時々微動する様が艶かしい。予想外の色気がほんのりと匂ってきそうだ。 「……ハッ!」 身体を乗り出して顔と顔の距離を詰めようとしている自分に気付いて、慌てて後ろに飛び退いた。 (いかんいかん、いくら寝ているからといってこんなっ!) 近くで見ていると余計に変な気を起こしてしまいそうで、バタンと助手席のドアを閉めて運転席に転がり込んだ。 窓の外に首を向けたままの律子に俺は少し安心して、車のエンジンに火を入れた。 「確か今日の仕事はこれで終わりだし……直接家まで送って行ってやるか」 口の中で独り言を呟き、カーナビから律子の住所を呼び出して目的地をセットする。 目的地まで約40分、という無機質なアナウンスを聞きつつ、俺はいつも通りオーディオのスイッチを入れようと思って、止めた。 折角静かに眠っているのだから、寝かしてあげたい。 「すー……すー……」 「………可愛いな」 人気も上がり始めて怒涛の忙しさなどどこ吹く風と言わんばかりの、のんびりとした規則的な呼吸。 子どもっぽさすら感じさせた。 それ程混んでいない通りを走っているだけに、信号待ちになるとやけにそれが目立った。 寝返りなのか、時々もぞもぞと毛布の擦れる音がした。 何度目かの赤信号に引っかかった時にふと左を見ると、律子がいつの間にかこっちを向いて眠っていた。 もしこれで髪まで解いていたら、まるで別人だろうな、とふと思った。 「なんか勿体無い気がするなぁ。髪も下ろしてみたらいいのに」 いつものあのキツい律子しか知らないがために、停車する度についついその無防備な姿を見てしまう。 (っと、あくまで仕事上の関係なんだ。勘違いするなよ、俺) 顔が熱くなって鼓動が高鳴るのを振り払おうと、俺は頭を振った。 とはいえ、ファンを魅了するアイドルが俺にとって魅力的で無い訳が無いのだ。 なんといっても俺自身が、律子の最初のファンなのだから。 「やっぱり彼女作っておいた方がいいのかなー………独り身は切ないぜ」 どうせ寝ているなら気付きやしないだろうと、俺はそう声に出した。 言ってしまってから「聞いてないよな」とまた付け足した。 信号待ちの度に左を向きつつも、道もそう混んでいなかったので予定よりも早い時間に目的地に到着した。 「さぁ律子、着いたぞ、後は家に帰って寝―――」 車を止めていざ律子を起こそうと左を振り向くと、もう当の本人は目を覚ましていた。 若干ひそめた眉の下から、律子の瞳がダイレクトにこっちを見ている。 透明感のある焦げ茶色と、その奥の黒い瞳孔の色合いの美しさに目を奪われていると、律子がしかめっ面になった。 「……メガネ」 「あ、あぁすまん」 返して、と苛立ち気味に右手を差し出す律子に、ポケットに引っ掛けていたメガネを渡す。 受け取るなりすぐさま眼鏡を装着する律子に、ちょっとだけ残念な気分だ。 「それにしても珍しいな、律子。ライブ会場からここまでずっと寝てたんだぞ」 「いえ、起きてましたよ、ずっと」 「……へ?」 しれっと応える律子は眼鏡を上げて、呆れた顔でため息をついた。 「ライブの終わり頃はもうほとんど夢の中でしたけど、プロデューサーがいきなりぐいぐい引っ張るから、ね」 引っ張る──あぁ、律子を担ごうとした時のことを言っているのか。 「おんぶするのヘタだなーとか思いながら、ちょっと楽させてもらってたんです」 重たい、とか口に出さなくて良かった。こちとら結構ヨロヨロして大変だったんだ。 「……起きてたんならなんで寝たフリを?」 「んー……それはねぇ……ちょっとしたテスト、というか」 「テスト?」 「私がこのまんま眠りこけて全部プロデューサー殿に任せっきりにしたらどうするのかなーって」 あぁ、何とも迷惑なテストだ。ヘタな行動を取ったら一気に信頼を失ってしまうじゃないか。 「抜き打ちでやるなよな、そういう事……」 「車を出す前、なーんか怪しかったんですよね〜……顔、近かったですよ? やましいこと考えてませんでした?」 今現在に至るまでの経緯を思い出して背筋が薄ら寒くなっている所に、いきなり律子は直球を投げ込んできた。 「い、いや、俺は何もしてないぞ!起きてたんなら分かるだろ?」 「そうですけどぉ〜…」 思い当たる節が少しあるだけに後ろめたくて焦る俺を、律子はジト目で一瞥してから、いつもの表情に戻った。 「なーんて。イタズラしようものならグーで殴ってやろうと思いましたけどね。ちゃんと踏みとどまってくれてたんでよしとし ます。まぁ、毛布かけてくれたりとか、そういう気遣いは良かったと思います。ちょっと信用UPですよ?」 「あ、あぁ。そうなのか」 生返事しか出てこなかった。 「メガネを外したのは予想外でしたけどね……で、どうでしたか? 何か感想は?」 「感想って?」 律子の表情が曇る。 「…顔の、ですよ。メガネがあった方がマシって思いました?」 「……いや、そうは思わなかったが」 不安そうな律子の表情。あまり正直に言えばお世辞だと思われるだろうし、かといって誤魔化すのもどうかと思う。 ここは、仕事に絡めて感想を述べるのが正しいように思った。 「プロモーションの視点から言うと、コンタクトにしてイメージチェンジを図っても起爆剤になっていいんじゃないか」 「……そう思います?メイクの人からも言われたんですよね、イメチェンしてみたらって。私としては気が進まないですけど」 「気が進まないって、どうしてだ?」 「素顔を見られたく無いってのもあるんですけど…えーと、私のファンの人達って、眼鏡っ娘好きが多いのは間違いないと思う んです。確かにイメチェンしたらファンは増えるかもしれませんけど、逆にそういうファンが離れていっちゃう可能性だってあ るじゃないですか。特にマニア層の人たちにとっては『属性』って重要なんですよ。髪型をあんまり変えないのもそういう理由 で。ルックスで売っているわけじゃないから変える事も考えないでは無いですが、現状まだファンは増加傾向にありますし、今 はこのままで頑張りたいんです」 「なるほどな。そういう事なら、今は考えないでおこう」 単なる感情だけではなく、きちんと理由あっての事ならば、それはそれで納得だ。 「まぁ、個人的にはいいと思うけどな。メガネ無しも可愛かったし個人的には好み……あ」 しまった、うっかり口が滑って地雷を踏んでしまった。すかさず両手を顔の前で合わせて頭を下げる。 「すまん、忘れてくれ。気に障ったならきちんと謝るから」 「い……今更言っても遅いですよ、さっきも言ってたでしょ、同じようなこと」 てっきり睨まれるかと思いきや、律子は軽く眉をひそめただけで、それ程嫌な顔はしていない。 ちょっと顔が赤いような気がするのは、気のせいだろうか。 「いつも素直に受け取らない私も悪いとは思いますが……プロデューサー殿も物好きというか趣味がよろしくないというか」 「いや、本音を言わせて貰うとな、俺は可愛いと思うぞ。メガネをつけてても、メガネを外しても」 「はいはい、ストップストップ。一気に胡散臭くなりましたよ? …まぁ、折角お褒めに預かったんだし、少しは喜んでおこ うかな、ふふっ」 そう言って、律子は口元を緩めてはにかんだ。女の子らしいキュートな表情に、またドキッと胸が高鳴る。 「……ところで、ちょっとした連絡事項なんですけど」 シートベルトを外しながら、律子が言う。 「な、なんだ?」 「今度のオフで私、見に行きたい所があるんです。一人だとちょっと入りづらい所なんですよね。プロデューサーはどうせ 予定も無くてヒマしていると思うんですけど、どうですか? 一緒に行きません?」 「……ちょっと引っかかる言い方だが、確かに予定は無い。いいだろう、付き合うよ」 ニヤケ顔のからかい調子で言ってくるのが少々気に入らないが、断る理由も特に無かった。 律子は予想通りと言った表情で頷くと、車のドアを開いた。 「じゃあ決定ですね。そういう事で、また明日」 「ああ、会場では眠そうだったし、早めに寝ろよ」 「はい。お疲れ様でした………っと、そうそう」 お辞儀をして車を降り、ドアを閉めてから律子は思い出したようにこちらへ向き直ってまたドアを開いた。 「えー、どうしても、とプロデューサーたってのお願いであれば、一日だけコンタクトを試してみてもいいかなーと思ってるん ですけど…。もしご希望であれば、当日の3日前までに私に知らせる事。期日厳守、遅れたら受け付けませんからね?それじゃ」 そこまでぶっきらぼうに言うと、俺の返事も聞かずに律子は小走りで駆けて行ってしまった。 「イメチェン嫌だ、って言ってたのに、どういう事だ?」 と、外に出てくる前に出番の無くなった言葉を、俺は仕事の終わったカーナビに向けて放り投げた。 しかしまぁ、折角なのでリクエストを出してみるのも悪く無いかもしれない。 …『メガネ無しが見たい』と直接言わなければならないのは躊躇する所だが。 終わり