マニュアルでお願いします


 降っていた雪も止み、曇天の下で屋内まで寒さが染み渡るような午後。パソコンの木立の中で、律子がぐる
ぐると首を回していた。右手を左肩に回して、自ら指圧をしているようだ。
「肩凝りか?」
 俺が尋ねると、
「ええ、一字一句違わず、まさしくその通りな状況で……最近ずっとなんですよね。段々重くなってきてて」
 くるりと椅子を回転させて律子は気だるい表情を見せた。肩の向こうに見えたディスプレイには、図表の中
に数字が鮨詰めにされている。マウスの奥に置かれたカップも、飲みかけの紅茶を冷え冷えと残したままだ。
「目が疲れてるんじゃないか? 目の疲れって肩に来るしな……まぁ、俺もちょっと凝り気味だが」
「そうですね。お互いパソコンいじってることが多いし、目薬買ってこないと……あいたた」
 苦しそうに眉を顰めながら、律子が肩を回した。見ているこっちが肩凝りになってしまいそうだ。
「そういや、あずささんも肩凝りが辛そうだったな。パソコンを使うタイプには思えないけど」
 俺がそう言うと、律子がふうと息を吐いて、口元を綻ばせた。
「あれは違いますよ。ほら、あずささんって、大きいでしょ?」
「ああ、女の人にしちゃ背が高いよな」
「いや、身長もそうですけど……服の上からでも目立つでしょ?」
「あ、そっちか。言われてみれば確かに、肩が凝りそうだ」
 胸の大きい人は常に肩から重りを提げて生活しているようなものだから、何かと煩わしい思いをすることも
多いと耳にしたことがある。
 ということは、律子も……?
 青いストライプを歪ませる丘へ視線が行きそうになってしまい、慌てて俺はモニターに視線を戻した。
「あずささんほど立派じゃないですが、結構重たいんですよね、胸って。身軽だった昔が懐かしい限りです」
「いらない、とか思ったりする時もあるのか?」
「もうしょっちゅう思ってますよ。視線が煩わしいし、重たいし、動きの激しいダンスとか大変だし。取り外
しが効いたらいいのに、って何度考えたことか分からないぐらいですよ」
 細い指が、荒っぽくリターンキーを叩いた。
 ふと、再びぐるりと首を時計回しにしている律子を見て、俺の頭にあることが甦って来た。確か、自主トレ
部屋だか仮眠室だかに、マッサージ機か何かが置いてあったはずだ。持って来てやろう。
「ちょっと待ってろ、律子」
 何ですか、と訊き返してくる律子には答えず、俺は足を踏み出した。



 数分後、俺の手にはコケシに似たシルエットの電動マッサージ機が握られていた。コンセントに繋がなくて
も動作する、携帯にも便利な優れもの、らしい。誰かが購入した時についていたラベルがそのままになってい
る。まだツルツルとした質感を失っていないそれから察するに、あまり使われてはいないらしい。値段はどう
なのか、誰が買ってきたのか、経費で落としたのか、気になる所だ。
 パソコンの前に戻ってくると、律子は顎を仰け反らせたり顔を俯かせたりして、ウンザリした様子で左手を
右肩に回していた。
「律子、いい物を持ってきたぞ」
 声をかけながらマッサージ機のスイッチを入れて、横に結んだ髪の分け目から剥き出しになったうなじへそ
れを押し当てると、電流を流されたように細い背がぴんと張り、
「うひあぁぁぁぁっっ!」
 フロア全体に律子の声が響いた。
「り、律子、声がでかいっ」
「プロデューサーがいきなりそんなことするからですよ! ビックリしたなぁ、もう」
 律子が、流し目で鋭い視線を突き刺してきた。遠目からこちらに顔を向けたスタッフに「なんでもないです
よ」と手で合図を送り、軽く頭を下げる。
「ま、気休めにでもなればと思ってな」
「……それならありがたいですが、もうちょっと間を置いて下さいよ」
「分かった。んじゃ、当てるぞ」
 再び、マッサージ機をなだらかな肩に乗せた。低く唸るモーターの音に、ミュートがかかる。
「う……うぅ……っ」
 数秒ほど、テニスボールサイズの丸い部分を左肩から右肩へとゆっくりと往復させると、律子が両肩をぐぐ
っと持ち上げ、ふるふると力無くかぶりを振った。
「どうした?」
「……」
 こちらに顔を振り向かせて、律子が俯いたまま指でバツを作った。その耳は、少し赤い。
「これじゃダメか?」
「いや、それ、くすぐったくって。できれば勘弁して頂けると……」
 律子の声に、いつものハキハキした調子は無い。
「だったら、マニュアルか?」
 冗談交じりにそう言ってみると、「そっちでお願いします」と、意外にも律子は首を縦に振った。早くも御
役御免となってしまったマッサージ機をカップの脇に置き、一呼吸してから両手を肩へ伸ばす。
 人間の体温というものは、温度にしてみればほんの僅かな違いで、触ってみると熱く感じたり冷たく感じた
りと、感じる温度の幅は様々だ。ブラウスの布地越しに触れた律子の肩は、少しひんやりとしていた。
 指に力を込める。
「うわ、ホントに凝ってるな。なんか硬いぞ」
 予想していなかった硬さに、思わず驚きの声があがった。
「うー……おぉ〜……中々絶妙な……」
 熱い温泉に浸かった時の中年男性みたいな、濁った声を出した。頭の上に濡れタオルを乗せている構図が自
然と目に浮かぶほどだった。
「くあ〜、うぅ〜、そこ……あ゛〜、そこです」
「律子ってさ、風呂入る時とか声出しちゃうタイプ?」
「出ますねぇ〜、『う゛ー』とか『くぉー』とか」
「……くくくっ」
「なんですか」
「いやいや、律子がオッサンくさい声出すのが面白くてな」
「失礼なっ、別にいいじゃないですか……あっ、そこ、もうちょい……あ〜……」
 理知的な律子から間抜けな声が聞かれるのが可笑しくて、テンポの良い言葉のキャッチボールが心地良い。
血行が良くなって来たのか、手に感じていたひんやりとした体温も、じんわりと温かくなってきた。
 首筋もマッサージしてあげようと、親指を人差し指をうなじへ登らせていくと、細い肩が緊張した。
「………っ」
 首筋を揉むようにしていると、律子が小さく息を吐いた。背中が丸くなっていく。
「んん……」
 濁点のついていた声が急に細くなってしまい、リラックスしていた体が張り詰めて来るのが指先から伝わっ
てきた。
「あの、プロデューサー」
「ん、何だ」
 俺が返事をすると、
「首筋は、ダメ……」
 と、弱々しい声で律子が懇願した。ハの字に下がった眉とほんのり桜色に染まった頬に、予想だにしなかっ
たほどの色気を感じて、ドキリとした。禁忌の領域に踏み込んでしまった気がして、慌てて手を肩に戻す。
 それからの数分間、「もういいですよ」と言われるまで、モニターの前には沈黙が鎮座していた。



 数日後、俺は電動マッサージ機を肩に当てながら、キーボードと戦っていた。肩凝りなんてものが人から人
へ移るものなのかどうかは分からないが、日増しに重くなっていく首と肩筋に、やれやれといった心境だ。
 モニターを見ているだけで肩が痛くなるのだが、モニターを見ないことには打ち込み作業が終わらない。前
のめりにしていた体をぐぐっと反らす。
「お疲れ様です」
 と、そこへ聞き慣れた声がやってきた。コトリと控えめな音と共に、コーヒーの香るマグカップが着地した。
「捗ってますか?」
「全然だな。もう肩が重たくって」
 俺がそういうと、律子が俺の手からひょいと電動マッサージ機を取り上げた。
「お手伝いしますよ、マニュアルで」
 律子の手がポンと俺の肩に置かれる。それだけで、少し上半身が軽くなったように感じられた。
「……ありがとう」
 机の上のマグカップは、暖かい湯気を立ち上らせていた。


 終わり



―後書き―

某スレで投下されてたイラストを見てビビッと来て勢いのみで書いたSSでした。
不健全な方面に進めようと思ったけど書き上げるのに時間かかりそうなんで自粛。
電動マッサージ機は以前自宅にありましたが、どうにもくすぐったくてダメでしたね><
そもそも肩凝ってなかったし。