SIDE-M "lip"



 窓から差し込んでくるオレンジ色の柔らかい光も途絶え、作られた光がアトリウムの屋内を埋め始める頃合
だった。二、三週間ほど前に律子から紹介してもらったトークライブの仕事も無事に終了し、俺と真美はアト
リウムの中に設けられたレストランのテラス席で、幻想的なイルミネーションを眺めながら夕食を取っていた。
 カウンター状の席は前面が開けていて、二人で隣同士座って使う形の座席になっている。いわゆるカップル
席という奴だ。

 『都内のアトリウムが客寄せのためにタレントを招く計画をしている』と律子から知らされたのは、先日の
亜美との仕事が終わって数日後のことだった。歌を歌ったりというライブ的なことをする予定は無いためにオ
ーディションというオーディションは無く、書類審査と面接を通してキャラクター重視の選考、テレビ中継こ
そ無いが若者の行き交う施設でのイベントということで、ファン増加も狙えるだろうと踏んで気軽な気分で俺
は応募してみることにした。亜美と真美、二人分いっぺんに応募しようと思ったが、開催予定日に亜美単体の
仕事が入ってしまっていたので真美一人を選考に向かわせた所、アトリウムを運営する方々の求めていたタレ
ント像に真美は上手く当てはまっていたようで、無事に面接審査も通過してトークライブを行える次第となっ
たのだ。

 「前回は真美を任せてもらったんで、今回は亜美を引き受けますよ」と言って、今回のプロデューサー代行
は律子が自ら名乗り出てくれた。恐らく、俺達に仕事を紹介した時点である程度こちらのスケジュールを調べ
て、薄々こうなることを予測していたのだろう。亜美も久しぶりに律子と会えて嬉しそうにしていたし、亜美
に予定されていた仕事は基本的に流れの決まっているラジオ番組への出演だったので、大きな問題が起こるこ
とも無いだろう。終わったら直帰でいいと連絡しておいたので、今頃は家路についているかもしれない。
 ただ一つ、仕事に出発する前に律子と真美がしきりに視線を交し合っていたのが今も気になっていた。何か
のイタズラでも仕込んでいたのかと思ったが、そうでも無さそうだ。

 「ねぇ、プロデューサー」
 「ん、何だ?」
 「最近さ、こういう静かな所の良さってのも分かるようになってきたよ、私」
 「おお、そうか。真美も大人になってきたんだな」
 「へへ、そういうことになるのかな?」
 美味しそうにオムライスを口に運びながら真美が言った。口元についたデミグラスソースを舌でぺろりとや
っていたのも昔のことで、今では上品にナプキンで拭うようになっていた。下ろした長い髪が邪魔にならない
ように首の後ろへ掻き上げる仕草や、ブレスレットの引っかかる細い手首、カーディガンの襟元から覗く鎖骨
のラインを見て、真美は随分女性らしく成長したものだ、と俺は感慨深い気持ちになっていた。昔からの破天
荒さをそのままに、ボーイッシュで爽やかな美少女になった亜美とは、いい意味で対照的だ。二人で仕事をす
る時はプロデュースの方針で同じ格好をしているが、一度彼女達に思い思いの格好をさせてファンの前に出る
のも面白いかもしれない。
 「今日のトークライブ、良かったよ。突き抜けすぎない程々に落ち着いたテンションで、まったりしたいカ
ップルもいっぱい足を止めて参加してくれたから、思い描いた以上のイベントになったって先方も喜んでた」
 「ホント? 良かったー。パーッと騒ぐ感じじゃないと思ったから、少し抑え気味にしてみたんだ」
 「真美にやってもらって正解だったな。もっと賑やかな場所だったら亜美が本領を発揮してくれるだろうけ
ど、こういうちょっと落ち着いた雰囲気の場所は真美の方が似合ってる」
 「あはは、そう言って貰えると、頑張った甲斐があるってもんだね」
 真美の表情はとても満足気だ。デビューしてからしばらくの間、双海真美という存在は世間には全く知られ
ていなかった。自らの存在を隠して亜美になりきる真美を、亜美と共にいたたまれない思いで見ていた時もあ
った。亜美と共にデュオで再デビューしてからも、『自分は亜美のオマケなんじゃないか』と不安に思う気持
ちを真美がこっそりと俺に打ち明けたこともあった。
 だからこそ、隣に座る真美の笑顔は俺にとって格別に嬉しいものなのだ。
 「亜美、お仕事どうだったのかなぁ」
 「事務所の誰かがラジオ放送を録音してると思うから、今度時間がある時に聴いてみるか?」
 「あっ、いいねーそれ!」
 会話が弾むのと同時に、食も進む。注文したお揃いのオムライスもすっかり平らげてしまい、喉を潤そうと
グラスを手に取って、ストローから俺の注文した飲み物を吸い上げる。懐かしさを感じるソーダの甘みが口い
っぱいに広がってきた。
 ──ん、甘み? おかしいな、アイスコーヒーのはずなんだけど……。
 「プ、プロデューサー、それ……」
 グラスの中身を確かめてみると、俺の持っていたそれには緑色の液体がシュワシュワと炭酸を飛ばしていた。
表面に浮かんだアイスクリームの色に、さくらんぼの赤がやけに目立つ。
 「あっ! す、すまん。うっかり間違えて真美のを……!」
 慌てて真美の方へグラスを追いやりながら、自分の体の右側にあったアイスコーヒーを手にして、ストロー
も使わず、グラスを傾けて一気に中身を飲み干した。僅かにしか中身が残っていなかったせいで、苦い液体が
到達する前に氷が唇にぶつかってきて、冷気がキンと頭を駆け抜けていった。
 「う、ううん、大丈夫だよ。私、そういうの気にしないから。プロデューサーとは付き合いも長いし」
 事も無げにそう言って、真美がクリームソーダのグラスにちらりと視線を落とした。
 細い指先が伸びて水滴のついた表面をつつっとなぞり、掌が覆い被さって、グラスを握る。真美がクリーム
ソーダを飲もうとする挙動が、スローモーションのように見えた。ナチュラルな薄めのメイクを施した唇が、
潤いを帯びてつやつやと輝き、ぱくりとストローを咥えこんだ。
 そこから先は、気恥ずかしくなって視線を逸らしてしまった。真美が『気にしない』と言っているのに、俺
が気にしてどうする。熱くなった顔を冷ますようにして、大袈裟にぶんぶん首を振った。
 一瞬だけ真美の方に目を向けてみると、滑らかな質感の頬が桃色に染まっていたように見えた。流し目の視
線と目が合ってしまい、また照れ臭い気持ちが込み上げてくる。
 大きく咳払いをして首をぐるりと回してみると、ザワついていた感情がようやく落ち着いた。

 やがて、ストローを吸っても空気の通る音しかしなくなってしまった頃、テーブルの向こうに見える橙色の
光と、ライトアップされた人工樹の下を行き交う人々をぼんやり眺めていると、ふと俺の手の甲に温かい何か
が覆い被さってくるのを感じた。体温の温かさと、しっとりした肌の感触。
 「真美?」
 俺の左手に、真美の右手が重なっていた。俯くようにして下に向けた視線が、俺の様子を窺うようにチラチ
ラこちらを見上げてくる。
 「……ダメ?」
 「ダメ、って」
 何が、と言おうとした所で、俺の言葉を遮るかのごとく、女性特有の細い指が手の甲の筋をなぞった。
 「ホラ、あそこを歩いてるのも、周りでゴハン食べてるのも、みんなカップルだらけじゃん? ここ、女の
子に人気のデートスポットだし、気分だけでもいいから、ちょっとだけそういうフリ、してみたいかなーって」
 途切れ途切れの小さな声で、真美が言った。表情にいつもと比較して大きな変化は見えないが、手の甲をな
ぞる手つきから遠慮がちな懇願が伝わってくるような気がする。
 周りに人がいるとはいえ、カウンター式のテーブルの下は周囲からはかなり見え辛い位置にあり、二人の世
界に浸って甘い空気を吸うことに夢中なカップルで溢れたこの場においては、俺達に注目するような人もいる
とは思えない。
 それに……後ろめたさはあるが、真美の申し出は魅力的に響いた。
 「いいよ、手、繋ごうか」
 本当にそんなことをしていいのだろうかと自問自答しつつも、手の甲をひっくり返して、指を絡めた。
 真美の手は、細く、小さく、繊細で、柔らかく、少しひんやりとしていた。
 「手、おっきいね」
 俺の掌の広さと骨格の構造を確かめるかのように、真美が絡めた指をモゾモゾさせた。強まったり弱まった
りする圧力に応えて握る力をさりげなく強めてみると、握り返してくる確かな手ごたえがあった。
 「ねぇ……兄ちゃん」
 「な、なんだ?」
 亜美では無く、俺のことをプロデューサーと呼ぶようになった真美の口から『兄ちゃん』と呼ばれたことに
驚いて、一瞬どもりながらその声の方へ振り向く。
 「もうちょっと詰めてもいい?」
 俺と真美の間にある、数cm単位の隙間に視線を落とし、顔を火照らせながら真美が言った。
 アトリウムの空間に漂う甘い空気に、俺も酔ってしまったのだろうか。重力に引かれるように思わず頭を縦
に振ると、横にいた体がぴったりと寄り添ってきて、肘の内側同士が触れ合う。真美の頭が俺の肩に乗った。
髪をアップにしたがる亜美とは対照的にいつも下ろしているサラサラした栗色の髪の毛が首筋にかかる。清潔
感のある石鹸の匂いに混じった女性の香りが鼻腔をくすぐる。
 「初めてここに来た時のこと、覚えてる?」
 「ああ、『デートとかしないの?』って、物凄く直球に訊かれたのを覚えてる」
 「たまには、なんて言ってたけど、忙しいからデートするヒマなんて無いんだろうな、って思ってたよ」
 「……相手がいなかっただけだよ」
 あの時は亜美が色々とフォローを入れてくれたのだが……「相手がいないなら亜美達とデートしようか」な
んて、小学生に気を遣われる自分が情けなく思えたものだ。
 「今は、どう?」
 「え?」
 「私は、兄ちゃんと、その……デートしてる気分なんだけどな……」
 と、うっとりした声。先日、プリクラ筐体の中で亜美に抱きつかれた時に感じたものと同種の、甘酸っぱい
ような気持ちが胸の奥から込み上げてくる。たとえ隣にいるのが付き合いの長い担当アイドルとは言え、花も
恥じらう年頃の可愛い女の子とこうも密着していれば、少なからず揺さぶられるものがある。俺だって男だ。
 「……あのさ、兄ちゃん。私と亜美だったら、どっちの方が──」
 意を決したように真美が何か言いかけた時、思いもよらない大音量で俺の携帯電話が鳴き声をあげた。静か
な雰囲気をぶち壊しにするような音を一刻も早く止めようと大急ぎでポケットから電話を取り出すと、亜美か
らの着信が入っていた。
 「も、もしもし亜美。どうした?」
 『あ、兄ちゃんおっつー。あのさ、さっきまで律ちゃんとゴハン食べてたんだけど、外せない用が入って律
ちゃん先に帰っちゃってさ。電車で帰れるから一人で帰ろうと思ってたんだけど……えーと』
 電話口の向こうで、気まずそうに亜美が口篭もった。
 『そのー、財布ん中見たら電車賃が足りなくってさ……迎えに来て欲しいんだけど……あっはっは』
 「な、なにっ!」
 通話の内容が聞こえていたのか、俺の肩から真美がずり落ちた。
 「……分かった、迎えに行くよ。今どこにいる?」
 『えーと、看板看板……あった。言うね……』
 亜美から教えてもらった場所は、どうやらここからそう遠くないようだ。車で十五分もあれば着くだろう。
 「なら、目印になりそうな所にいてくれ。車で行くから」
 『うん、ありがとー! やっぱ困った時は頼りになるねー』
 迎えに行くと聞いて安心したのか、亜美の声色が明るくなったのが受話器越しに伝わってくる。
 『そいじゃ、待ってるね……あ、そうだ』
 「ん?」
 『デートスポットで真美と二人っきりだからって、ヘンなことしてないよね? プロデューサーは担当アイ
ドルに手を出しちゃダメなんだよ』
 俺が後ろめたさを感じていた点をピンポイントで亜美に突き刺され、心臓がギュウと握り締められたような
錯覚が起こった。冷や汗が背中からドッと吹き出てくる。隣の真美も居心地悪そうにそっぽを向いている。
 「な、何言ってるんだよ。する訳無いだろ、そんなこと」
 『ホーントかなぁ? 怪しいからマイナス10点。今度クレープ奢りね、兄ちゃん』
 強制なのか、と抗議しようとした所、バイバイと一方的に通話を切られてしまった。
 携帯電話をポケットにしまうと、いつの間にか握った手は離れていて、真美は隣で苦笑いを浮かべていた。
 「あはは……亜美にふっ飛ばされちゃったね」
 「……全くだな。しょうがない奴だ。まぁ、あんまりいても遅くなるし、出ようか」
 「うん」
 亜美の声に促されたのか、元気いっぱいの表情で真美が笑った。


 店を出て出口に続く道を探していると、真美がイルミネーションに彩られた木の方を何度か振り返っていた。
 その表情は、どことなく物寂しげに見えた。
 真美は、もう少しここにいたいのかもしれない。
 「真美」
 「ん……何?」
 「出口まで、ちょっと遠回りしていくか?」
 「え?」
 真美の瞳が驚きに見開かれた。
 「いいの? 亜美のこと待たしちゃうよ?」
 「いいよ。五分ぐらいなら。必要な分のお金を持っていなかったペナルティだ」
 どうかな、という俺の申し出に、真美は視線を下げて俯き、拳をギュッと握り締めた。
 「……ありがとう」
 二股に分かれた、出口へ直結していない方の道へ足を踏み出すと、おずおずと真美が腕を絡めてきた。
 亜美に心の中で謝る一方で、今だけは真美の歩幅に合わせてあげようと、俺はそんなことを思っていた。


 終わり



―後書き―

16歳@真美編でした。こんな感じだ、と割合想像し易かった亜美と比べると何故か難しかったです。
あのコンビのカオスっぷりもまだSSで上手く書けていないし、勉強不足ですかのう。
今回は、自分のSSにありがちな切ない系の展開から少し路線を変更してみました。
ヴィーナスフォート行ったこと無いんでアトリウムがどんな場所なのか分からなくて内部の描写が適当w
機会があったら加筆するかもしれませんね、こういうのは。