非常階段


 『エレベーターメンテナンス中につき、しばらくご利用になれません。大変なご不便ではございますが、非 
常階段をご利用ください。申し訳ございません』
 営業先から帰ってきて、いざ事務所へ戻ろうとする俺と律子の目の前、765プロ事務所へ続くエレベーターの
ドアに一枚の張り紙がしてあった。
 「律子」
 「なんですか」
 「765プロって何階だったっけ」
 「……十一階ですよね、確か」
 俺の隣で律子は引きつった笑いを浮かべている。俺もきっと同じような顔になっているはずだ。エレベータ
ーの前のこの空間だけ空気が冷えているような気がして、背筋が薄ら寒かった。
 「まぁ、十七階に事務所がある会社もあるんだ。俺達はまだマシな方だと言えるのかもしれない」
 「高層ビルに引っ越して便利になったと思ったら……あーあ、営業から戻ったばっかりだって言うのに」
 新しく導入した非常に便利なツールが突然使えなくなると、導入前以上の不便を強いられる。発展した技術
の欠点だった。どこかで適当に時間を潰して復旧を待つのが賢いかもしれないが、それほど悠長にしていられ
る時間は無い。三十分後には記者が取材にやってくるのだ。雑誌の取材のついでで、アイドル稼業の傍らで事
務も手伝っている律子の姿を撮影したいということで、場所は765プロ事務所内でなくてはならない。
 意を決して左を振り向いてみると、律子が二連続で徹夜をしたかのようなどんよりとした表情になっていた。
 「階段、ですよね。代わりのエレベーターとかありませんよね……」
 「まぁ、行くしか無い。ゆっくりでいいから登っていこう」
 「はぁ……脚がパンパンになりそう……」
 ドアが開きっぱなしになっている非常階段へ俺が歩いていくと、律子も渋々後ろをついてきた。


 「そういえば、先日エレベーターがトラブったらしいですよね、このビル」
 いかに使われていないかが分かる、しかし清掃はされているらしい埃の無い綺麗な階段を上りながら、俺の
後ろから律子が言った。
 「今日のメンテナンスも、それでかな。落下事故なんてあったりしたら大変だしな」
 「ふぅ……でも、今日じゃなくたっていいじゃない」
 不機嫌そうに言う律子の足音は、心なしかよく響く。頭上に4の数字が見えた。随分上がってきたつもりだっ
たが、まだ三階分しか階段を上がっていないという現実を突きつけられて、頭が痛くなる思いだった。足はも
う既に痛くなってきている。妙に蒸し暑い。この階段の中には空調もあまり行き届いていないようだ。
 「メンテナンスなんて深夜にやればいいのに……もう」
 「全くだな。こんな真昼間にエレベーターが止ま──」
 「痛っ!」
 バタン、と俺の一段下で何かが倒れた。倒れるのは律子しかいない。素早く後ろを振り向くと、律子が右足
を押さえてうずくまっている。歯を食いしばって、苦悶の表情を浮かべていた。
 「どうした? まさか、足首をひねったか?」
 ちょっと見せてみろ、と、俺も一段下りてしゃがみこむ。
 「いたた……結構思いっきりやっちゃったかも……」
 「捻挫してるかもしれないな……変に動かすなよ」
 「私としたことが、こんなドジな……あうっ!」
 律子は立ち上がろうとしたが、再びしゃがみこんでしまった。
 右の足首は、軽く腫れあがっていた。よりによって、上に行くにも下に行くにも時間がかかりそうな出発点
と目的地の中間点に近い辺りで。
 さてどうしたものか、と思案する。病院へ連れて行くことがベストだが、まずは事務所へ行かなくてはなら
ない。このまま無理無く歩かせるか……いや、それはダメだ。昨日書き込んだスケジュールが確かなら、来週
に歌番組のオーディションを控えているはずだ。もし無理をして足を悪くしようものなら、そちらに及ぼす影
響は悪いものにしかならない。
 「仕方ないな……」
 じっくり考える時間も無い。俺が律子を担ぎ上げて、事務所まで上る……これが、現時点で取ることのでき
る最善の手段だろうと俺は判断した。
 「律子、じっとしてろよ」
 「えっ、何を……きゃっ!」
 背中に右手、膝の裏に左手をさっと差込み、息を吐き、肩と背中の筋肉に力を込めて律子の体を持ち上げた。
横抱きにしたその体を、支えやすいように胸元へ引き寄せる。
 「ちょ、ちょっと! プロデューサー!」
 「このまま事務所まで行くぞ」
 「やだ、やだっ! 嫌ですっ! 下ろしてくださいよ! 歩けますから!」
 当然のことながら、律子は両目を釣り上げて猛烈な勢いで抗議してくる。良く通る声が上下に広がった空間
にびんびん響き渡り、両手足をバタつかせながら「下ろせ下ろせ」と全身でアピールしていた。
 「ダメだ。お前、来週にオーディション控えてるんだから、変に刺激を与えて悪化したらマズいだろ」
 「だ、だからって……セクハラですよこんなの!」
 俺の腕の中から逃れようとして律子が体を捻って床に落ちそうになり、右足を踏み出して踏ん張る。衝撃が
腰に響いて、思わず呻いた。右手で抱き寄せていた肩を強く掴んで、俺の体の方へ引っ張りなおした。
 「事務所に上がるまでの辛抱だから、大人しくしててくれ。でないと本当に落ちて怪我してしまう。事務所
についたらビンタでもパンチでも、好きなだけやりゃあいい。何発だって甘んじて受けてやる」
 「…………分かったわよ」
 膨れっ面になりながらも、律子は暴れるのを止めて身を任せてくれた。背中を支える腕から伝わってくる布
越しの体温と、左手に抱えた膝からダイレクトに伝わってくる温度の違いにも意識が向く程度の余裕ができた。
おかげでバランスを取るのが楽になって、ようやく階段を上ることができる。
 現在地は四階。近いとは言えないか……。
 「よし、行くぞ」
 「途中でヘバらないでくださいよ?」
 一歩を踏み出して、右足、左足……。
 律子は、所在無さげに両手を胸の前で組んだまま、そっぽを向いていた。
 一つのフロアにつき、階段が十四段。頭の中で歩数を数えながら階段を上る。俺達以外には誰もいない空間
には、コツコツという革靴の足音がこだましていた。
 「…………」
 大人しくしていてくれ、という言葉に渋々とはいえ従ってくれた律子は、借りてきた猫のように微動だにし
なかった。怒っているのか、一言も喋ってくれないのが少々気まずい。無機質な真っ白い壁に囲まれた中で、
時間が経過しているのかどうかすらよく分からず、腕時計を見る気にもならなかった。


 七階を示すプレートが見える頃になって、俺は息が上がっているのをはっきりと自覚していた。見通しが甘
かったかもしれない。人間一人を抱えて階段を上るなんて人生で初めてなんだから仕方ないとも言えるが、荒
くなる呼吸を抑えないと律子に何か小言を言われると思って、呼吸を無理矢理抑えながら階段を上がる。
 しかし、さすがに苦しかった。
 「七階か……あと四階だな」
 痛む足に心の中でムチを入れ、前方に踏み込む。太腿がじんじん張って疼くようで、歯を食いしばらないと
力が入らなかった。
 「……ん?」
 こめかみを何かに拭われた。上だけを見ていた視線を落とすと、律子が手にハンカチを持っていた。
 「……汗かいてますよ。ほら、おでこと顎も」
 「あ、ああ、悪い」
 押し付けられるようにして、布の感触が顔中を這い回る。少しくすぐったかった。
 「しかし、十一階ってまた……はぁ……ウチの事務所って……遠いな……ふぅ」
 「プロデューサー、顔が『しんどい』って言ってますよ。ホントに大丈夫なんですか?」
 「だ……大丈夫さ」
 「ウソつけないんですから、強がらないでください。……重いでしょ?」
 正直なことを言えば、重かった。背も低く、決して太ってはいないむしろ細身の女の子一人とはいえ、ほぼ
大人の身体を担ぐということを俺は少しナメていたと言わざるを得ない。よく考えれば当然かもしれないが。
 だが、ここで重いと言ってしまうのはあまりにデリカシーが無さ過ぎる。
 「律子は……抱き心地がいいな」
 一枚の薄いブラウス越しに伝わってくる、女性の身体特有のふにふにした柔らかな感触に気付いた瞬間、そ
う口にしていた。
 「そ、そうかしら……って、そうじゃないでしょっ! そこはこう『そんなこと無いよ、律子は軽いね』と
か言う所じゃないんですか!」
 口を尖らせて、律子が噛み付くような怒った声で言った。今にも手を伸ばして頬をつねってきそうだ。
 「……っていうことは、秋月律子は重いと、そういうことですよね。ふんだ、どうせ太ってますよ、私は」
 「拗ねるなって。俺がこんな汗垂らしてしんどい顔しながら『軽い』って言ったって律子が喜ぶわけないだ
ろうし、逆に『胡散臭い』ってヘソを曲げるだけだろ」
 「……ま、そうですけどね。むしろそっちの方が腹立つわ。涼しい顔の一つでもしてて下さいよ」
 「犬や猫とは体のサイズが全然違うんだし、律子は子どもでも無い。同じ種の生物を持って歩いて、重く感
じない方がおかしいような気がするぞ、俺は。重いからこそ、大事に運ばなきゃ、だ」
 「はぁ。プロデューサー殿は乙女心って奴が分かってません。ホントにダメね」
 「……抱き心地がいいっていうのは本当だよ。急ぎじゃなければ、もっと抱っこしていたいぐらいだ」
 溜め息をついていた律子が、腕の中でびくっと身じろぎした。
 「え……あ」
 「な、なんだよ」
 「そ……そんな、は、恥ずかしいこと……堂々と言わないでよ、バカ」
 もごもごと口篭もりながら律子が言ったが、『堂々と』より後ろは、ほとんど微かにしか聞こえなかった。
 「……悪かったな」
 「…………」
 俺が歩みを再開しようとすると、左肩に右側から律子の両腕が回ってきてそのまましがみつかれ、顔が近づ
いてきた。身を寄せてきて、胸元に律子の胴体が密着する。まるで抱きつかれたようで、後ろから脅かされた
時のように心臓がバクンと大きく跳ねた。
 「り、律子!?」
 「勘違いしないで下さい」
 俺が目を白黒させていると、ぴしゃりと律子が言い放った。
 「こういう体勢の方が、運ぶ側の負担が軽くなるんです」
 言われてみれば、律子の体が軽くなったように感じる。バランスが取り易く、これならふらつくことも無さ
そうな気がする。
 「……本当だ」
 「横抱きの体勢って運ぶ側に大きな負担がかかるし、長距離を運ぶのには向いてないんですよ。ましてやこ
れで階段を上るなんて無茶にも程があります。プロデューサー殿は本当に何も知らないんだから、全く」
 途中で口を挟むことを許さないかのごとく、早口に律子が言う。
 「な……なんで黙ってたんだよ」
 「途中でヘバって、体勢を変えるって提案が出てくるって思ってたからです。でも、変な根性論持ってる人
ですから、意地を張ってそのまま上まで行こうとするんじゃないかって、ね」
 「……よく分かってるじゃないか」
 「……まぁ、最初から言わなかったことは謝ります。私の体を気遣ってくれるのはありがたいですけど、そ
れでプロデューサーが自分の体を痛めたら意味無いんですよ? 一人で仕事してるんじゃないんですから」
 口調はキツイが、ただ非難されているのではないというのは、そこそこ長く付き合った今では理解できる。
これでも心配されているのだ。あんまり無茶ばっかりしないで下さい、と添えられた一言は温かかった。
 「ほら、時間無いんだから、お願いしますよ。私も協力しますから」
 「あ、あぁ」
 律子に促されて、止まっていた歩みを再開する。若干の重たさはあったものの、先ほどまでと比べれば嘘の
ように足が軽くなったように感じられた。上を目指して歩いていくことに専念していたが、呼吸する度に匂う
花のような甘い香りに胸がドキドキして、密着した体からそれを悟られないかが気がかりだった。
 

 それきり律子は押し黙ったままだったが、気まずい沈黙では無かった。
 やがて、目的地の十一階を示すプレートが見えた。
 「よし……着いた」
 最後の一段を上り終えて、達成感のような喜びが胸の内に溢れてきた。爽快の一言に尽きる。
 だが、安心するのはまだ早い。ひとまず応急処置は済ませておきたいし、取材と撮影がこれから控えている
のだから、腫れた右足が写らないようなアングルも考えなければならないし、病院に行く時間が取れるどうか
のチェックも必要だ。
 「あ……プロデューサー」
 俺が歩き出そうとすると、黙りっきりだった律子が、腕時計を見ながら口を開いた。
 「ん、どうした?」
 「意外と早く着きましたね。まだ取材までは十五分ぐらい余裕あるみたいですよ」
 「そうだな。しかしその前に色々やらなきゃならないことができた。応急処置も早いほうが……」
 「それはあんまり時間いらないんじゃないですか?」
 律子が俺を見上げた。
 じっと俺を見つめるその目は、なぜか名残惜しそうにしていたように思えた。
 「……どうしたんだ?」
 「分からないならいいです」
 溜め息を一つついてから、俺が開けようとしていたドアノブに律子が手をかけた。
 「自分で言ったくせに」と、小さくぼやく声が聞こえたような気がした。

 
 「あれっ、律子さんのプロデューサーと律子さん……どうしたんですか?」
 非常階段のドアを開いて、空調の行き届いた涼しい空間に出ると、右手から歩いてきたやよいが俺達を目に
留めて声をかけてきた。
 「うっ、やよい、これはだな、その──」
 「あ、やよい。さっき足くじいちゃって……応急処置したいから救急箱と椅子を持ってきてくれるかしら」
 律子を抱えたままの姿を見られてしどろもどろになる俺とは対照的に落ち着き払った様子で律子が言った。
 「だ、大丈夫ですか!? すぐに持ってきます!」
 俺と律子の姿に疑問を投げかける前に、やよいが大急ぎで左奥に見える事務所へと走っていった。やよいの
姿が見えなくなる前に、「下ろしてください」と律子に促され、抱えていた体を下ろして、行き止まりになっ
た壁際に座らせる。そのまま、律子は背中を丸めて、体育座りのような体勢で小さな体を更に小さく折り畳ん
でいた。
 「あ……」
 やよいの歩いてきた右手側の奥を見てみると、エレベーターの中から人が四人ほど出てくるのが見えた。
 「……なんか疲れちゃいましたね」
 「……いい運動になったな」
 「それはプロデューサー殿だけでしょう? 私はもう御免ですよ、あんなの」
 体育座りになった律子の隣に、俺も腰を下ろす。
 ああ、柔らかかったなぁ。ふんわり漂ってくるいい匂いに、首筋に息がかかってくすぐったかった。時間に
余裕があったんならもう少しゆっくり上っていればよかった……。
 「……こらっ、何してるんですか」
 ふと気が付いたら俺は隣に座った律子の胴に腕を回してしまっていて、右隣から刺すような律子の視線が飛
んできていた。そうだった。上についたらビンタでもパンチでも、と言った手前、実際に手が飛んでくるかも
しれない。そう思って思わず身構えたが、咎めるような声に怒気ははらまれていないようで、手を振り払われ
ることも無かった。
 「悪い……つい」
 慌てて腕を離すと、律子がふぅと溜息をついた。
 「抱き心地……ねぇ」
 「いや、その……」
 「……20秒までなら大目に見てあげます」
 そう言いながら、律子の体が右側から寄りかかってきた。恐る恐る律子の腰に右手を回してみると、律子の
方からも体がぐっと密着してきた。
 肩に乗せられた頭。さらさらした髪の毛が頬に当たって、くすぐったかった。
 

 終わり



―後書き―

『お姫様抱っこ』をテーマにした作品でした。
横抱きの項目をちょっと調べて色々と修正。
事務所レベルが上がって引っ越した時ってどのぐらいの規模なんでしょうね。
ちなみに、三段階目ぐらいの規模のビルを想定してます。