Give and Take
打ち込んだ書類に不備が無いことを2度確かめて、上書き保存してドキュメントを閉じる。
一仕事終えた、と腕をグルグル回していると、壁の時計は午後12時を半分近く過ぎていた。
熱中していた時は意識していなかったが、おなかの虫も活発になってきた所だった。
そろそろかな、と思いながら、足元のいつもより膨れ上がったカバンに視線を落とす。
「あー腹減った。エサの時間だぞーっと」
ガタッと勢い良く椅子から立ち上がる音と共に、右向かいのデスクに座っていた体が伸び上がった。
大きく背伸びして、あくびを一発、
「お昼ご飯を買いに」
と、こちらに背を向けようとしているのを見て、時が来た、と声帯に力を込めた。
「あ、待ってください」
ブレーキをかけたかのように彼はピタリと止まって、一呼吸置いてこちらを振り向いた。
「お腹、空いてますよね?」
「ああ、腹ペコだ。戦ができないほどにな」
気だるそうな彼の表情が面白くて、唇の端が釣りあがってしまう。
笑ってはいけないな、と思いつつ、足元のバッグから長方形の包みと楕円型の包みを取り出して、机の上に置く。
緊張に背筋がピシッと引き締まるのを感じながら、息を飲み込んだ。
「えーと、差し入れ持って行った時のこと、覚えてます?」
何週間か前、オフをもらって仕事の無くなった日があった。
忙しい事が当たり前だったために、いきなり休みになっても何をしたらいいものだか、予定を全く立てていなかった。
友達と遊ぶ絶好の機会ではあるのだが、突然だったので連絡をするのも悪いと思い、かといって家で寝ているのは時間の無駄
にしか思えなかった。
家でできるような仕事は持って帰って来ていなかったし、両親の店の手伝いも人手は足りていたようだった。
ノープランな時間をどうにか消費してしまいたくて、何となく家を出て向かった先は、近所のドラッグストア。
ああそうだ、陣中見舞いということで差し入れをしに行こう。疲れているだろうから、その助けになるようなものを。
と、栄養ドリンクをケース買いして事務所へ行くと、案の定プロデューサーが疲れた顔でキーボードを叩いていた。
自分のアイデアがハマったな、と勝ち誇り、彼が顔をほころばせるところを思い描いていたが、実際は違った。
なんでも、弁当でも持ってきてくれたのかと期待していたらしく、栄養ドリンクのケースを受け取りながらもどことなく残念
そうな顔だった。
変な幻想を勝手に抱かれて、善意でした行為に苦い顔をされたことでムッとしてしまい、わざとらしく拗ねてみた所、
「でも、わざわざ休日に顔を見せてくれた事は嬉しいよ。律子の顔を見るだけで元気が出てくるから」
などと、突然笑顔に変わる。
お世辞臭い口説き文句など吐くな、といつもならバッサリ斬り捨てる所を、あまりの不意打ちに避けられず、顔に火が点いて
しまった。
悪い気はしなかった…が、嬉しくなったのを認めるのがなんだか悔しくて、飛ぶように事務所のドアを開けて飛び出した。
しかし、エレベーターをに乗り込もうとした時、ふと思い出したことがあって、事務所へ引き返す。
弁当じゃないのか、とガッカリした瞬間の彼の顔――
あんな捨てられた子犬みたいな目で請うような視線をぶつけられたら、放っておくことなんてできやしない。
私より年上のくせに妙に子供っぽい所があって、その純粋さに世話焼きの血が騒いでしまうのだ。
フロアに帰り、さっきより若干表情に生気の戻ったプロデューサーのデスクへ。
「えーと、今度差し入れを持ってくる時は、プロデューサーの意向に沿うようにします」
「…え?」
「正直、自信無いですけど…作って持ってきます、お弁当。マズくても文句言わないで下さいよ?」
戻ってきた私の口から出た言葉が意外だったのか、きょとんと呆気に取られた表情のプロデューサー。
自分の言葉を反芻するとまた恥ずかしくなってしまい、言うだけ言って事務所を後にした。
頼まれてもいないのにあんなことを言ってしまったことに、少々後悔していた。
自分の食べる料理なら作れるけれど、人に食べさせられるようなものを作れる自信は、無い。
肩に重いものを感じたが、
「美味しいよ、律子。ありがとう」
と、顔をほころばせる彼の姿を思い浮かべたらどこからともなくやる気が湧いてきて、胸の奥がじんわりと痺れた。
「覚えてますよね?」
そう念を押してみると、プロデューサーは視線を左右に揺らしてからポンと掌を叩いた。
「まさか、もしかして本当に持ってきてくれたのか!?」
「しー、声が大きいですよ」
戦もできないと言っていたくせに、やけに声は大きかった。
小鳥さん辺りが聞き耳を立てていないか注意深く周囲を窺ってみたが、どうやらこちらを向いて怪訝そうな目をしている者は
いないようだ。
「とりあえずここじゃなんですから、場所移しましょう」
事務所の中で弁当を食べている所を見られたら、面白いもの見たさに誰か寄ってくるだろうし、あまり見られたくも無かった。
二人分の包みを手に持って、席を立って事務所の外へ向かうことにする。
オフィス街の景色、黒いゴマがアスファルトの上を歩き回るのが見えるエレベーターに乗ってビルの一階に降りた。
空調の効いて涼しい、広いロビーの一角にベンチを見つけた。
席取りなどをされていないことを確認すると、プロデューサーを促して座らせ、その隣に腰を下ろす。
丁度壁を背にする形になって、向こう側には私と同じような包みやコンビニの袋を提げた人達が行き交っていた。
「はい、どうぞ」
長方形の包みをプロデューサーに手渡す。
「食べる前からそんなに嬉しそうな顔しないでください。味の保証はしませんからね」
宝箱を目の前にした少年のような顔で、彼は包みを受け取る。犬だったら、バタバタ尻尾を振っていることだろう。
ああ彼はイヌかネコかで言ったら間違い無くイヌだな、と思い、唇から小さな息が漏れた。
早速ハンカチの結び目をほどいて、中身を一秒でも早く見たいとばかりに逸るプロデューサーを横目に、私も自分の包みを開く。
蓋を開けると、胡麻油のいい匂いがただよってきた。
「おっ、三色そぼろじゃないか。紅生姜までちゃんと入ってる」
そぼろの茶色、炒り玉子の黄色に挟まれた、青海苔の緑。そのど真ん中に、紅生姜の赤がちんまりと佇んでいる。その下には
御飯だ。
彼の弁当に他に入っているのは、しめじと舞茸のソテー、ほうれん草のおひたしに、牛蒡、人参、厚揚げの煮物。
一回り小さい私の弁当箱に入っているのも、同じものだが、彼の煮物は厚揚げが気持ち多めだ。
煮物が思ったよりもスペースを取ってしまい、詰めるのに苦労した。牛蒡はささがきにしておくべきだったかもしれない。
「野菜が結構入ってるんだな。体に良さそうだ」
「体が資本ですからね。健康の維持には普段の食生活が物を言うんです。野菜の繊維質は重要なんですよ?」
などと偉そうなことを言いながらも、食事にそこまで気を使っていないのはお互い様だと思う。
ただ、自分の体調管理は当然のことながら、彼にも健康でいて欲しい、と意識して弁当を作ったのは事実だ。
「いただきまーす」
「いただきます」
お互いに手を合わせて、ぺこりと一礼。
あ、給食の時みたいで、なんか楽しい。
「ん、煮物美味しいな、味がしっかり染みてて…」
彼が最初に箸をつけたのは、下準備なり調理なりで一番時間のかかった煮物。
私もその煮物をつまんで口に入れると、噛み締める度に出汁の味と野菜のほのかな甘みが口の中に広がる。
「具を大きめに切ったから中々味が行き渡らなくて…牛蒡のアク抜きなんかも大変だったんです」
と言って、ちょっぴり頬が熱くなる。これじゃ、手間をかけてあなたのお弁当を作りました、と言っているようなものだ。
合間合間にそぼろご飯をつまみながら、好き嫌いの分かれそうなきのこソテーに彼の箸が伸びた。
「俺、舞茸ちょっと苦手なんだけど、これはいいな。胡麻油の風味がうまく包んでくれてる」
彼のその表情には無理をしている様子も見受けられない。変に疑わずに信じていいだろう。
「あ、そうなんですか?まあ私も椎茸が苦手だけど…。でもキノコはカロリー全然無い割に栄養価が高いんですよね」
荒っぽくかきこまれて、美味しかったの一言で片付けられてしまうかもしれない、と思っていたが、いい意味で裏切られた。
丁寧に味わって食べてくれているのが、素直に嬉しい。献立から考えた甲斐があるというものだ。
実際の所、時間こそかかったものの、弁当作りは楽しかった。
弁当箱という限られたスペースの中に、どれをどのように詰めるのか間取りを考えて計画するのは、私の肌に合っていたし、
調理も、正しい材料を使って正しい手順で作ったらどんなものが出来上がるか、化学の実験に似たワクワク感があった。
できあがったものを口にして美味しかった時は、思わずガッツポーズが出てしまったほどだ。
そんな事を思い出しながら、彼が夢中で食べている姿を横目に、私も自分の作った弁当を食べる。
彼と同じものを食べている。たったそれだけの、実に取るに足らないようなことで、ウキウキした気分になった。
収録の帰りやライブの打ち上げで一緒に食べに行った時とは違った、ほのぼのした時間。
こんな時間なら、今日だけじゃなくて、また過ごしたい…と思っていると、
「ごちそうさまでした」
彼が弁当箱の蓋を閉じて、皺の寄ったハンカチで元に包み始めていた。
同時に、私の弁当箱も空になっていたのに気づいた。
「あっ…えと、どうでした?総合的な感想を、包み隠さず正直に言ってくれます?」
多分、さっき彼の言っていた言葉とその表情が物語っていた通りだと思うが、私は彼の口からもう一度感想が聞きたかった。
「美味しかったよ。思えば味の濃いものばっかり食べてたから、この薄めの味付けが懐かしかった」
「ほ、ホントですか?…ん、でも懐かしい、って…?」
「俺の家、母親が昔から高血圧気味でさ、塩分ダメな人だから元々味付けが薄めなんだ。なんか、ウチの味だな、て思ったよ」
遠い目で、どこを見るでも無い彼の視線。両親と食卓を囲んでごはんを食べている、今よりも幼いであろう彼の姿が目に浮かんだ。
プライベートで人が違うということは恐らく無いだろうが、彼の「素」が見えたような気がして、その顔をボーッと眺めていた。
プロデューサーの両親って、どんな人なんだろう。少しだけ気になった。
「お世辞とかそういうの抜きで、作ってくれたのが嬉しかったし、その上美味しかったからな。大満足だよ」
彼はそう言って、照れ臭そうに頭を掻いていた。
「ま、プロデューサー殿は嘘をついたらすぐ顔に出ますからね。美味しくなかったって言われたらどうしようと思いましたけど、
素直にその評価を光栄に思っておきますよ、ふふっ」
「弁当箱、洗って返すけど……ま、また食べたい、って言ったら…ダメかな?」
また食べたい。その部分だけ頭の中に何度もエコーがかかって、胸がドキンと跳ね上がった。
またそういう事を言う、調子に乗らないの、とすぐさま言おうとしたのに、舌がもつれてうまく喋れなかった。
「…だ、ダメとは言いませんけど…」
絡まった蔦を掻き分けるようにして、どうにか言葉を吐き出した。
正直に言ってしまえば、意外と作っていて楽しかったし、彼の嬉しそうな顔が見れるのなら、また弁当を持ってきてもいいと
思っていた。
しかし、それを素直に認めてしまうのも、なんだか悔しい。
「今度はその弁当箱に、プロデューサーが作ってきてください、お弁当」
悔し紛れに出てきた要求に、思わず自分で噴き出しそうになってしまった。
「へ?お、俺が作るのか?」
彼は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をして、素っ頓狂な声をあげた。
「ええ、そうです。ギブアンドテイクです。もし私が『美味しい』って言ったら、またお弁当作ってあげてもいいですよ。
ただし、美味しくなかったら遠慮なく『マズい、不合格です』ってバッサリやっちゃいますから、ご了承くださいね。
アイドルの健康管理、という面からも、しっかり中身まで考えてきてくださいよ?」
「本当に…俺が律子の弁当を作ってくるのか?」
うーん、と唸りながら、彼が顎の先端を右手の人差し指と親指でつまんだ。
細長い彼の指と、うっすらと骨格の見える手の甲が妙に色っぽかった。
「そうです。お惣菜詰め込んだだけとかは却下ですよ。ちゃんとプロデューサーの手料理でお願いします」
「手料理が食べたい」だなんて、よく考えれば恥ずかしい要求。
でも、弁当が食べたいと最初に言ったのは彼の方なんだから、私だって同じことをしてもらう権利がある。
深く考えたらどんどん恥ずかしくなってしまいそうなので、私はわざと意地悪くからかうように、大袈裟に言った。
昼休みも終わり頃になり、事務所の中に戻ると、彼は自分のデスクに座って頭を抱えていた。
「どうしよう、美味しいお弁当なんて作れそうにないぞ…困ったなぁ」
別に義務でもなんでもなく、無理なら無理と言ったってよかったのに、真面目になって考え込んでいる彼の姿。
その縮こまった背中を見ていたら、私はいてもたってもいられない感情の昂りを感じて、コンピューターの寄り集まったフロ
アを離れた。
誰もいない更衣室のドアを背にして、私は昼休みの一連のやりとりをもう一度頭の中で再生して、反芻して、噛み締める。
次に彼のお弁当を作る時はどうしようか、などと、もう考え始めていた。
「………はぁー……」
口から、というより、肺の中から搾り出すように吐息が漏れた。
もしも人間の息に味があるのならば、今の息はとびっきり甘いことだろう。
あの、ごほうびをもらえると知った瞬間の子供のような、キラキラした純粋な瞳。
彼に尻尾が生えていたら、きっと派手にバタバタと揺らしているのだろう。
それに、私が提案した意地悪な要求に戸惑った時の、あのうろたえぶりと、隙だらけの困った姿。
私よりも年上の、職場関係で言えば上司にあたる男性が、あんなに子供みたいな表情をするなんて、たまらない。
ひねくれているかもしれないが、困った時顎をつまむあの仕草が、渋可愛くて私のお気に入りなのだ。
仕草だけじゃなくて、うろうろと視線を泳がせるあの狼狽した姿が私を昂らせるから、悪いとは思っていても時々からかって
しまう。
もう一度、両腕を広げて大きく深呼吸すると、爪先の小指までかっと熱くなって、微かにじいんと痺れた。
「プロデューサーってば、可愛いなぁ……」
自分の喉から出てきたはずの声は、誰かが聞いたら自分の声だと判別できないであろう程に、とろけきっていた。
きっと、にやけた笑みの治まらない口元もだらしなく緩んでいるに違いない。
胸がキュッと締め付けられるようで、かきむしりたくなるような疼きが全身を猛スピードでグルグルと駆け回る。
火照った顔に掌を押し付けると、そのどちらもが、湯気を吹いてもおかしくない程に熱を持っていた。
嬉しい、恥ずかしい、そのいずれもを含んだ、あるいはどちらでもない、この…魂まで燃え上がるような感情。
決して不快ではなく、むしろとても心地良いものだったが、自分以外の人間には悟らせることすらしたくなかった。
ロッカールームの壁際にぽつんと佇むパイプ椅子に腰を下ろし、まだぼうぼうと燃え上がる情熱の余韻に身を浸す。
この気持ちを言葉にするのは多分簡単だけど、頭の中であってもそれはしたくない。
言葉にしてしまったら、もう止まらなくなりそうだから。
今はまだ、私はトップを目指してひた走るアイドルで、彼はそのプロデューサー。
ゴールに辿り着くまでは、気づかない振りをしてこっそりと想うだけ。お互いに緊張感の伴うこの関係を、まだ保っていたい。
でも、たまにはこの焼け付くような熱い感情の昂りに身を任せてゆらゆらと揺れているのも、悪くは無い気がする。
あと5分だけ、こうしていよう。
終わり
―後書き―
『作ってもらったものは美味い』の法則
戻る