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「雪歩、待ったか?」
 こんな時でなければ使われることも無さそうな男性用の更衣室で身支度を整えて事務所のフロアに戻ると、
銀白色のジャージを身に纏った雪歩が、しゃがみこんで靴紐を結び直している所だった。
「いえ、私も今ちょうど着替えてきたばっかりで」
 そう言って、雪歩がすくっと立ち上がった。猫背になっていることも少なくない背は、俺と向かい合って立
つときは大抵真っ直ぐになる。上を見るからだろう。
「そろそろ出るけど、準備とかはもう平気か?」
 腕時計を見て時刻を確かめると、現在午後四時。今から行って戻ってきて、次回の仕事の打ち合わせを軽く
行えば雪歩の終業時間になってしまうだろう。
「すみません、まだ髪が……すぐ終わりますから」
 腕時計を見ながら考え込む俺に気付いたのか、ポケットからヘアゴムを取り出して、ボブカットの髪を後頭
部へ寄せて束ね始めた。唇にゴムを加えて栗色の束を手繰る、女の子独特の仕草に思わず目が行く。
「あ、終わりました」
「おっと、帽子忘れてるぞ、帽子」
「あっ……ありがとうございます」
 机の上に置かれていたメッシュのキャップを、雪歩の頭に被せる。まだ知名度がそれほど高くないとはいっ
ても、事務所が居を構えるのが情報に鋭い若者の集まる地ということもあって、なるべくなら顔が見え辛いよ
うにしておいた方が、何かと都合がいい。
「よし、じゃあ行こうか」
「は、はいっ」
 キャップを目深に被った雪歩が後ろから着いてくるのを確かめながら、行ってきますと他のスタッフに声を
かけつつ、事務所を後にした。


 事務所から少し歩いた所にある代々木公園へやってきた俺達は、まだ肌寒さの残る夕空の下で、準備体操を
していた。公園の桜もそろそろ開花の兆しを見せているらしく、蕾の膨らんだ木々が立ち並んでいる。道の脇
で足首のストレッチをする俺達を横目に、速いペースでランナー達が走り抜けていく。
「まだ寒いですね、プロデューサー」
 膝を屈伸させながらも、時折雪歩はぷるぷると体を震わせている。肌と同様に色の薄い唇は、きりりと結ば
れている。
「なに、走り始めればすぐに体があったまる。終わる頃には暑い暑いって言ってるさ」
「そうでしょうか……うぅ、私、このままここで凍えちゃうかも……」
「よし、こんなもんでいいだろ、行こう、雪歩」
「そうだ、穴掘って埋まれば……」
 雪歩がいつものように後ろ向きの螺旋にハマりかけているが、特に気にすることは無い。ああだこうだと理
屈を捏ねて凹む前に、有無を言わさず動かしてしまえばいいのだ。
「雪歩っ」
 縮こまり始めた背中をぱしんと叩く。
「は、はいっ!」
「体が冷えない内に行こう」
 華奢な肩を軽く前方に押し出すと、雪歩の体がぐらりと前に傾いた。倒れないように踏み出したのを確認し
て一足先に俺が走り出すと、
「あ、まっ、待ってくださいぃ」
 後ろからしっかり足音がついてきた。走り出してしまえば、もう大丈夫だ。振り向かずに走っても、雪歩も
ちゃんと後を追いかけてくれる。
 膝を痛めないように、舗装されたコンクリートの上は避けて、芝生の上を走る。右足、左足、右足、と踏み
出す度に、体に振動が響く。テレビへの出演も定期的なものになっては来たが、こうして公園ランナーに紛れ
てしまえば、俺の隣を走る女の子が萩原雪歩であることに気付かれることはまず無い。
 もっとも、ゴールデンの番組へ頻繁に出るようになれば、また事情も変わってくるだろうが。
「プロデューサー、さっき言い忘れたんですけど……」
 横並びになって雪歩が言った。
「靴、新しく買ったんです。ジョギング用のシューズ」
 視線を落としてみると、確かにその足元には泥の汚れが一切ついていない白のシューズが光っている。おニ
ューの靴は履き心地もいいのか、その口元は緩い。
「夜でも危なくないように、踵にランプがついてるんです」
「もしかして、ここ以外でも走ってるのか?」
「はい。夜は怖いから、朝早くに少しだけ、ですけど……」
 それじゃあ踵にランプがついてる意味が無いじゃないか。そう突っ込みたい気持ちを俺は喉の奥に押し込ん
だ。少しとはいえ、自分から体力づくりをするようになってくれたということだからだ。同行すると言ってい
るのに走りに行くのが怖いと言って聞かず、手を引いて走るのがやっとだった昔が懐かしい。
 初めてのライブを終えた直後に酸欠で倒れてしまって以来、体力不足は雪歩にとっての大きな課題の一つだ
った。それを解消するために時間を取って行っているジョギングが、雪歩自身の習慣になってくれれば、それ
に越したことは無い。
「そうか、なら一人でも大丈夫かな」
「ええっ、むっ、無理です、ムリムリムリっ、一人でなんて……!」
 一定のテンポで縦に揺れる雪歩の、後頭部で結った髪が、勢い良く横に振れる。
 一人じゃまだ駄目か。まぁ、焦る必要は無い。
「冗談だよ。俺もデスクワークばっかりで運動不足が著しいから、丁度いいさ」
「そういえば、最近少し顎のラインが細くなりましたよね、プロデューサー。元々細めの体格ですけど」
「ああ、体重がちょっと落ちたんだ。しかし、自分でも気付かなかったぞ、そんなの」
「プロデューサーのことは、いつも見て──いえっ、なんでも無いです!」
 何かを言いかけて、雪歩が急に口をつぐんだ。パッと正面に顔が向き、隠れて怯えながら猛獣をやりすごす
小動物の目が、ちらりちらりと俺の様子を窺った。
「……まぁ、雪歩はライブを乗り切るスタミナをつける。俺は運動不足を解消して健康維持のために。一石二
鳥じゃないか。雪歩が走りこみをサボらないかどうかも間近で見ていられるしな」
「サ、サボったりなんてしません! もう、今日のプロデューサー、なんだか意地悪です……」
「ふふふ……っと、そろそろ息苦しくなってきた。走るのに集中しようか」
「そう、ですね」
 ジョギング、マラソンをする時の呼吸の大切さを思い知らされる瞬間だ。俺も雪歩も、舌を動かすのを止め
て、ステップと呼吸のテンポを整えていく。
 二回吸って、二回吐く。
 互いの呼吸と、芝生の大地を踏みしめる音が、徐々にシンクロしていく。
 俺と雪歩の間に流れる時間が、ぴたりと一致する。
 時々目が合うのも気分がいい。
 プロデューサーとアイドルという立場の違いを考えれば当然のことだが、俺と雪歩が同じことを一緒にする
機会は稀だ。業務の内容が違うのだから、まず無いと言ってもいい。だが、目的に若干の違いがあるとはいえ、
こうして雪歩と全く同一のことに打ち込めるのは嬉しい。
 淡々と足音を刻み続けるのが、楽しくなってきた。
 喋っていた時に感じていた疲労が退いていく。


 同じコースを、三周程した所だろうか。腕時計を見て時間を確認して、経過した時間を周回数で割ってみる
と、まだ暫くの余裕がある。
「もう一周行くか?」
「は、はいっ!」
 リズムよく刻む呼吸の合間に、雪歩が答えた。ペースを遅めに取ることを意識しているものの、成人男性よ
りどうしても体力では劣る上にストライドも狭いのに、雪歩はよくついてきてくれている。
 冷えた空気を浴びていた体が、今は汗ばむぐらいに熱い。
 それから四周目を終えたのはすぐのことだったが、どうやら思ったよりも時間を食ってしまったようだ。午
後五時になると代々木公園は閉まってしまうのだが、その閉園時間まであと五分も無い。いつもだったら公園
の中心部にあたる草原の区画で一息ついてからのんびりしてるのだが、今日はそんな余裕も無さそうだ。
「時間が無い。このまま事務所まで直行しよう」
「ええっ、まだ走るんですか!?」
「急がないと、管理事務所の人に怒られちまう。トラブルって程じゃないが、そういうのは避けたいな」
「でも……あ、た、確かに、時間……」
 遠目に見えた時計が、もう五時を指そうとしていた。
「アンコールだと思え。ヘトヘトになってる所に、もう一曲を求められるかもしれないから」
「そ……そうですね、私、頑張りますっ」
 翳り始めていた瞳に爛々とした輝きが戻った。雪歩が額の汗を手の甲で拭うと、背筋がピンと伸びた。
 よし、それでいい。
 普段は弱音を吐いてばかりだが、逆境に追い込まれた時の雪歩には頼もしさすら感じる。


 体が温まったまま、俺と雪歩はペースを落とさずに事務所への道も走って帰った。公園の自然の景観では無
く、目の前にはそびえ立つビルと信号機。平日の夕方でまだサラリーマンの終業時間ギリギリという所だが、
歩道には慌しく人の波が押し寄せていたが、上手いこと間をすり抜けて進んで行けた。
「ふぅぅ……着いたぁ……」
 事務所まで辿り着いた所で、雪歩が膝に手をついてがっくりと体を折り曲げた。気がつけば、いつもよりも
長距離長時間を走っていたのだ。バテて当然かもしれない。俺も全身に倦怠感を感じていた。
「お疲れ様」
「は、はい、お疲れ様です……」
「とりあえず、一息つくのは事務所に着いてからにしよう」
 そう言って、俺はエレベーターの前で雪歩を手招きした。


 流した汗をさっぱりさせ、更衣室で元の格好に戻ってから、俺と雪歩はフロアの一角で佇む椅子に腰掛けた。
 窓際のラウンドテーブルにスケジュール帳を広げて、今月のページを開く。
「で、明日の予定だが、午前中は空き、午後からレッスン、夕方にスタイリストと打ち合わせだ。メモっとい
てくれ」
「はい。午後にレッスン……夕方、スタイリスト……」
 最初の数文字をサラサラと書いていた手が、徐々に緩慢になっていく。長い睫毛をしばたかせ、左手がごし
ごしと目蓋をこすった。そのまま、欠伸する口元を覆い隠す。
「……眠いのか?」
 俺が尋ねると、右手に持っていたボールペンが学生服のプリーツスカートへ落ちた。
「ご、ごめんなさい、ミーティング中なのに……」
 床に落ちたボールペンを取ろうと、雪歩が屈んだ。隙を見せたブラウスの襟元へ目が吸い込まれそうになっ
てさっと視線をテーブルの上に戻したが、なだらかな鎖骨の奥に肩紐がちらりと見えてしまった。
 ──そうか、水色なのか
 目に見えた光景をつい反芻してしまい、ぶんぶんと被りを振った。
「今日、学校で体育の授業もあったから……やっぱり、まだまだ、体力が足りないですね、私」
 メモを取り終えて一息つく雪歩の目元では、上の目蓋と下の目蓋が今にも抱擁を交わしそうだ。
「事務所でちょっと寝ていくか? と思ったが、帰りが遅くなっても親御さんに悪いな……」
「い、いえ、大丈夫ですぅ、電車で、帰りますからぁ……」
「いや、そんなフラついた声で言われても……」
 これほどに説得力の無い「大丈夫」という言葉があるだろうか。そんなことを思うぐらいに、雪歩は今にも
眠りに落ちてしまいそうだった。電車の中でなら確かに休めるだろうが、寝過ごしかねないし、公共の乗り物
の中で居眠りするというのはどうにも危なっかしい。
「だったら、俺が雪歩の家まで送っていこう。それほど長い時間もかからないだろうしな」
「へっ、そんな、悪いですよぅ……」
 うつらうつら。雪歩の首が波を打つ。
「いや、気にするな。ミーティングの続きもそっちでやろう。終わったらゆっくり寝てていいから」
「うぅ、すみません……」
 頭を下げるというよりは頭をカクンと落として、雪歩が一礼した。どうやら乗っていくことに決めたらしい
と理解した俺は、そのまま立ち上がって一歩を踏みだした。が、ガクンと後ろから引っ張られる感覚がして、
すぐに足を止めた。
 背後を見てみると、雪歩が俺のスーツの裾を摘んでいる。
「だ、大丈夫です。私、しっかりついていきますから」
「……まぁいいか」
 なんだかこの構図、犬の散歩みたいだな。
 そう言いたかったが、犬嫌いの雪歩に向かって口に出してもいいことは無さそうなので、やめておいた。
「よし、じゃあ行くぞ」
「は、はい」
 それから後、駐車場に辿り着くまで、雪歩はずっと俺のスーツの裾を摘んだままだった。
 もう少し体力をつけてもらわないと、と思う一方で、ちょこちょこと後ろをついてくる雪歩の存在が、なん
だかこそばゆく感じられた。


 終わり



―後書き―

Fランクの運動コミュだったで、「走りに行くのに手を引いて連れて行く」というのがあったので、そこから
思いついて書き始めたSSでした。
弱気で臆病な雪歩ですが、芯は強いと思います。逆境で強さを発揮する、という、少年漫画における弱気な
ヒーロー的なものを感じます。