sweet fingerprint
「お待たせ致しました。こちら、デザートになります」
紅白の二色で彩られたユニフォームに身を包んだウエイトレスがぺこりとお辞儀をして、テーブルの上に静
かに音を立てながら陶器が軟着陸した。俺の頼んだチーズケーキと、もう片方は、高さ30cmはあろうかという
背の高いチョコレートパフェ。アイスやらコーンフレークやらバナナやら……底が狭い造りになっているとは
いえ、パフェグラスの空間にギッチリと甘い物が詰め込まれているその様は、どこから切り崩したらいいか分
からない難攻不落の要塞のようにも見える。
「ふふ、美味しそう」
口元に笑みを浮かべながら、グラスに咲いた花の、生クリームのめしべにスプーンを差し入れるのは、歌に
命を懸けていると言っても過言でもない、千早だ。
「随分大きいけど、食べ切れるのか、それ?」
俺の質問に、千早はあっさり、「ええ、これぐらいなら」と頷く。俺の手元にあるチーズケーキも、それを
食べる俺も、なんだかちっぽけに感じられるぐらいだ。
「さっきパスタを食べたばっかりだろうに」
「甘い物は別腹なんですよ」
ぱくり。銀のスプーンが、薄ピンクの唇の奥へ吸い込まれた。
「……もしかして、私、食べ過ぎですか?」
「うーん……食べ過ぎて太ったらマズいんだが……」
千早の表情がぎくりと硬直した。食べ過ぎかといえば、当然食べ過ぎだと答えざるを得ない。割と多目に盛
られていたパスタをぺろりと平らげてしまい、男の俺よりもだいぶ大きなデザートを攻略し始めているのだ。
「でも、いいのかもな。千早はもう少しぐらい太っても」
「そうですね……やはりオペラ歌手のように──」
「そ、そいつは少々行き過ぎじゃないか?」
「しかし、より声量を大きくするためには、体のサイズを横にも広げたほうが」
真面目な顔でそう言う千早に、思わず肩の力がへなへなと抜けていく。甘い物を食べたい口実なのか、それ
とも本気でそう思っているのか分からない。
「度が過ぎるとやっぱり事務所的には困るな。千早の細さに憧れる女の子も多いし、引き締まった体型に魅力
を感じてる男だっている。ファンレターは千早も読んでるだろ?」
俺の返答に何か言いたそうにしていたが、数秒してから千早は頷いた。歌以外の要素からファンになった人
を快く思っていなかった千早の昔が懐かしい。世間にも広く知られ、伊達眼鏡をかけたり髪をアップにしたり
と変装を凝らさなければおちおち喫茶店にも入れないほどの有名人になった千早を見ていると、デビュー当時
のあのとっつき辛かった彼女を思い出す。
事務所にいる時の姿そのままで、人を寄せ付けないオーラを放ちながら、俺と入った喫茶店で黙々と無味乾
燥に食事を口に運んでいた、あの頃の千早。食生活には気を遣っていたらしいが、それこそカロリーメイトを
かじってサプリメントを野菜ジュースか何かで流し込んで終わりにしていてもちっとも不自然で無いぐらい、
千早は事務的に食事を取っていた。
二言目には、歌、歌、歌。千早の知らない話題を振ってみても「そうですか」の一言で終わり。会話を交わ
そうと思ってもキャッチボールが上手くいかずに、結局沈黙がテーブルを包むばかり。味も分からないまま食
事を終えてコーヒーを飲み始める頃にはもう千早のテーブルはすっかり片付いていて、
「早く歌のレッスンに行きたいです」
と言わんばかりに、刺々しい視線が容赦なく俺を刺す。ちょっとした一言で途端に態度を硬化させてしまう
ことも多く、当時の俺は胃薬を常に内ポケットへ忍ばせながら、地雷原をおっかなびっくり歩いていた。
「プロデューサー?」
頭の中に描いていた無表情な千早がうっすらと消えて、伊達眼鏡の奥で瞬きする千早が浮かび上がってきた。
「ん、何だい」
「どうしたんですか、ぼんやりとして」
スプーンは、生クリームの斜面に突き刺さったまま動かない。二口目はまだ口に運んでいないようだ。
「いや、ちょっと昔のことを思い出してね」
「と、突然ですね。……そういえば、ここって、以前にも来たお店でしたよね」
「だからだよ。あの頃と比べて千早は随分変わったな、って思ってさ」
あの頃、という言葉が俺の口から出た瞬間、よく見ていなければ分からないぐらい、ほんの僅かに千早の瞳
に翳りが生じた。が、その次の瞬間には元の澄んだ輝きを取り戻していた。
「どう、変わりましたか?」
眉にかかる前髪を首を振って払いながら、興味津々といった様子で千早が尋ねてきた。
「そうだな。まずは……表情が明るくなったっていうか、豊かになったと思う」
「そうですか?」
「ああ。仕事の場じゃなくても笑顔が見られることが多くなった」
キョトンとした顔になって、千早が左手を頬に沿わせた。
「なんだろうな。雰囲気が柔らかくなったよ。こうして一緒にいても、とても気が楽なんだ」
「……それは、ただプロデューサーが私の性格に慣れただけだと思います」
冷静な声で千早はそう返すが、視線が窓の外へ向き、ほんのりと頬が染まった。細い指先はスプーンをくる
くると弄んでいる。
「私が変わったのでは無くて、周囲の環境が変わったんだと思います。人気が上がってきて、番組収録の場で
も、記者の接し方も変わりましたし、コンサート会場の規模だって。それに、家庭環境にも大きな変化があり
ましたから」
「……なるほどな」
今千早が列挙したのは、単に業界の中で地位が上がったことによる変化に過ぎない。しかし、最後に添えら
れた一言が、俺に返答を留まらせた。俺が千早の変化に気付いたのは、千早の両親が離婚してからのことだっ
たからだ。その後の動向も気になる所だが、それは俺から訊くべきことではない。
「……最近、世界が違って見えるんです」
下がってきた眼鏡を直しながら、千早が言った。
「太陽の光、夜の街灯、ステージの上で浴びるライト……こんなに明るかったんだ、って驚いたり、選んでも
らった衣装のデザインをじっくり眺めるようになったり……」
「甘いものを食べるようになったのも?」
「こ、これは、春香や律子にケーキバイキングへ連れて行かれてたら、いつの間にか……」
ともかく自分のせいでは無い、と千早は弁明した。
「やっぱりさ、千早が変わったんだよ」
「そう、でしょうか」
見るからに甘味がパンパンに詰まったチョコレートパフェを注文したり、大人しめの色ながらもマニキュア
を塗っていたり、うっすらとではあるがメイクをしたり──今時の女の子ならもっと激しいだろうが──この
年頃の女の子ならほとんど当たり前にやっていることだ。15歳という年齢にしては大人び過ぎているとはずっ
と思っていたが、千早だって本当だったらそういう年齢なのだ。両親の離婚という悲劇の果てに、千早はよう
やく、本来持っていて然るべき『年頃の女の子らしさ』を取り戻しつつあるのだろう。
「ところで、千早」
「なんでしょう」
「食べていいんだぞ、それ」
俺との会話に意識を集中させながらも、『待て』と言われて食べたいのを必死に我慢する犬のようにどこか
そわそわして落ち着きの無い様子の千早に、一声かけた。図星を突かれたのか、千早はハッとした。
「で、でも、太ったら事務所的にまずいって、プロデューサーが……」
「心配しなくても千早の運動量ならその程度じゃまず太らないから。もし気になるなら、ダンスレッスンの予
定を少し増やせば済むだけのことだ。むしろ、残しちゃったら勿体無いぞ、それ」
「……分かりました、そういうことなら」
埋もれたままだったスプーンが引きずり出され、そのままチョコブラウニーを乗せて口元へと運ばれていく。
俺の視線を感じたのか、目いっぱいにパフェを乗せたスプーンを口の中へ入れる直前、千早が恥ずかしそうに
視線を逸らした。
「美味いか?」
すぐさまスプーンをパフェグラスに戻して次をよそいながら、千早が頷く。なんだかんだで千早と同じよう
に手を止めてしまっていた俺も、チーズケーキを切り崩しにかかった。濃厚なチーズの香りが口の中いっぱい
に広がるが、その重さを掻き消すかのように爽やかな酸味がふわっと漂ってくる。
その風味を味わっていると、手元に千早の視線が注がれているのを感じた。
「プロデューサー……その」
「もしかして、これも食べたい、とか?」
「…………」
しばしの沈黙の後、申し訳無さそうな上目遣いになりながら「一口だけでいいですから」と千早が言った。
「私のも、ちょっとあげます」
差し出されるパフェグラス。俺が一口食べる間に、白と黒の要塞は三分の一ほどが陥落してしまっていた。
フォークを伸ばしてホイップクリームの池からチョコブラウニーを引き上げて、こちらの陣地へ引き寄せる。
千早の伸ばしたスプーンも、カチンと陶器の音を立てながら、チーズケーキの体を削り取っていった。
「ん、美味しい」
千早が目を細めて笑った。デビュー当時からクールでストイックな路線を貫いてきた歌姫、殺伐とした家庭
環境の中で感情を押し殺しながら苦しみに耐えてきた千早が見せるからこそ、こんな何の変哲も無いような笑
顔でも、俺の目にはきらきらと眩しく映る。冷めかけたコーヒーの苦味も心地良い。
「……楽しいですね」
「何がだ?」
「こうしていることが、です」
「そうか、それは何よりだ──おっと」
微笑む千早の口元にクリームがへばりついているのを見つけた俺は、さっと人差し指でそれを掬い取った。
「あっ……すいません」
ナプキンを手に取って、千早が口元を拭った。俺の指に残るのは、やり場に困ったクリーム。
「もらっていいか?」
「えっ?」
冗談半分にクリームがついたままの指先を振ると、千早は俺の言葉の意図を理解したのか、
「ど……どうぞ」
肩を縮こまらせながら、そう答えた。
口の中に広がる甘みを嬉しく思いながらちらりと外を見てみると、通りの向こう側に見える電線に白い鳩が
舞い降りてきた。グレーの仲間と横並びになった彼は目立つ外見だったが、隣の鳩は仲良さげに首を傾げて彼
と見詰め合った。数秒して、鳩はどこへとも無く飛び去っていった。白い鳩も一緒だった。
千早に視線を戻すと、今度はチョコレートが唇の下にくっついていた。俺に気付かれる前に千早はそれを指
で掬い取った。白い指先に、焦げ茶色のワンポイント。
「……いりますか?」
「ああ、いただくよ」
ほろ苦いと思ったが、やっぱりチョコレートは甘かった。
終わり
―後書き―
「普通の女の子らしさを取り戻した千早」と「他人に対して壁を作り、歌だけにしがみついていた千早」の変化
をテーマに書いてたはずなんですが、いつの間にかイチャつき話に……!
今まで「敷居が高いんじゃないか」と感じ続けていた千早スレへの初投下作品でもあります。