ジレンマ



 息も白くなり始め、肌寒いという言葉がテレビニュースで流れるようになる季節。紺色の空の下、一日の仕事を終えて俺と亜美は
人通りも少ない寂れかけた夜道を、駅に向かって歩いていた。車が二台すれ違うのもやっとという道幅の脇には、一軒家や、壁の塗
装が所々剥げ落ちた二階建てのアパートが並んでいて、まだ寝るには早い時間なのに電気の消えてしまっている住宅もちらほら見か
けられる。道を照らす街灯の中には、配線が切れかかって点滅しているものもあった。まだ機能の生きている街灯は夜の闇から自分
を守るように光を放ち、黒い粒のような物がその周囲を動き回っているのが見えた。恐らく昆虫だろう。
 「ねえ兄ちゃん。今日の亜美のオシゴト、どうだった?」
 うっすらと夜空から注ぐ月光をベースに街灯を上から乗せた、つるつるの明かりを浴びた亜美が、首だけこっちに向けて言った。
 夜の闇にピンク色のコートはくっきりと目立ち、白い息が亜美の呼吸を目に見える形で表している。
 「いやー、言うこと無しだね。完璧だったよ」
 今日のロケは大成功だった。一点の迷いも無くそう言い切れる。二週間後に控えたコンサートに向けて別行動でレッスンに行って
もらった真美にも、現場を見せたいぐらいだった。
 「へへ、やっぱ? 亜美もそう思った」
 俺の答えを確信していたかのように、三歩先を歩く体をこちらにくるりと向けて、後ろ歩きになりながら亜美がニコニコ笑う。
道を歩いていた男が、俺とすれ違う瞬間に亜美の顔を覗き込もうとしているのが視界の端に見えた。
 どうだ、俺の担当アイドルは可愛いだろう。流し目を送りながら俺は誇らしい気分だった。幼さが頭につく小学六年生という年齢
にしては亜美と真美のビジュアルはかなり高いレベルだ。無邪気な振る舞いが幼さを印象付けるが、見せ方次第では高校生ぐらいに
見せることだって可能かもしれない。
 「人気も出てきたしさ、兄ちゃんも亜美達のおかげでウハウハだよねー」
 亜美がそう言いながら親指で輪っかを作り、口角を片方だけ釣り上げた意地の悪い笑顔になった。快晴の太陽みたいに純真なスマ
イルだけではなく、こんなイタズラっぽい表情も亜美の魅力を引き立てる大きな要素の一つだ。
 「いやぁ、亜美様たちには頭が上がりませんな」
 うやうやしく、大袈裟とも言えるほどに俺は深々と頭を下げた。本心からのことだ。
 亜美達の稼ぎのおかげで、俺の給料もデビュー当時と比べて随分上がり、給料日前にもやしやおからで食費をとことん切り詰める
ことも、小鳥さんに泣きつく必要も無くなった。亜美と真美のギャラの管理は両親がしているものの、家庭にはかなりの額のお金が
入っているはずだ。
 ひとえに、亜美達の頑張りのおかげだった。
 「……じゃあさ、亜美のおねだり……聞いてくれる?」
 亜美が俺の正面に回りこんできてぴたりと立ち止まった。赤い髪飾りで房になった髪の毛が、吹いてきた冷たいそよ風に踊る。
 おねだり。お菓子か、服か、バッグか、アクセサリーか、いつもは大抵そんな所だ。咄嗟に財布の中身や口座の残金を思った。
 「どうしたんだ、改まって。言ってみな。あんまり無茶なことじゃなかったら何でもいいよ」
 俺がそう言うと、亜美の表情がほんの僅かな瞬間だけ硬直した。「じゃあ」と言う前に、拳をグッと握りこんだのが見えた。
 「亜美と手……繋ご……?」
 ほんのりと頬を染めて、笑顔に戻った亜美が右手を広げて差し出した。桜色のコートの袖が、手首を完全に隠して掌まで少々かか
っている。
 意外な要求と言えた。お金や手間や時間がかかるようなことでなくて、手を繋ぐ、ただそれだけのこと。
 それだけでいいのか、と確認を取ってみると、亜美は頭を勢い良く縦に振ってから、甘えるような上目遣いで俺を見た。
 「いいよ、俺の隣においで」
 辺りの様子を探り、こちらに注目する人の気配が無いことを確認してから、右手を差し出す亜美を俺の左側に手招きした。折角の
ご希望なので、亜美から繋いでくるのを待たずに、こちらから小さな手を取って握った。
 外気に晒されていた亜美の手は、ひんやりしていた。握手をする時のようにして俺が亜美の手を包むと、そうじゃない、と目で訴
えかけながら、目一杯に指を広げて指の股同士を噛み合わせ、しがみつくようにして亜美は指を絡めてきた。
 「兄ちゃんの手、大きくてあったかいね」
 亜美が白い歯を見せてはにかんだ。
 何のことは無い。俺にはいないが、妹とか姪とかとにかく歳の離れた親類を相手にするとしたら、こんな感じなんだろう。
 スキャンダルを気にしなければならない亜美にとって、俺も異性の一人──というには年齢差が大きいが、精一杯に俺の手を握り
締めようとする少女に応えることに俺が嫌悪感など持つはずも無く、迷いは無かった。形だけは恋人同士のようにして、俺たちは狭
い通りを歩いた。歩幅が違うせいか、亜美の歩みは心なしかアップテンポだった。
 「あ、ちょっと待って」
 ゴミ捨て場の前を通りかかり、亜美が、打ち捨てられて灰色の壁に寄りかかった鏡を指して立ち止まった。
 ひび割れたテレビや、蹴り割られた形跡のある箪笥などのがらくたを足元に従え、その鏡は悠然と月光に身を晒していた。不思議
なことに、鏡自身は傷も無く綺麗なままで、道具としての生を終えてしまったがらくたの中では浮いているとさえ思えた。
 「兄ちゃん、もうちょいこっち」
 俺と亜美、二人の姿が映る位置までグイグイ引っ張られて、手を引かれるままについていく。
 鏡の正面に回って姿を見てみると、縦に細長い鏡には俺が見切れてしまっていた。その瞬間亜美が身を寄せてきて、どうにか二人
分の姿が映し出された。
 二人が並んだ様子をこうして鏡で客観的に見てみると、俺と亜美はまるで兄と妹のように見えた。
 やんちゃではあるが、こんな可愛らしい妹なら是非とも欲しいものだ。
 「……うーん」
 鏡の中を見つめる亜美が難しい顔をして低い唸り声をあげた。
 頭の房をさらさら揺らしながら、俺の顔と鏡との間で視線を何往復もさせて、亜美はやがてがっかりしたように溜息を吐いた。
 「カップルには見えないね……」
 「えっ?」
 弱弱しい響きだった。
 俺が鏡に視線を移した時、夜空の雲が月を隠して辺りの薄暗さが寂しげに増し、街灯を背にした俺の影に亜美の表情が隠れた。
 あの元気な亜美がどんな顔をして今の言葉を呟いたのか、俺は目で確認することができなかった。
 「なんでもないよ。行こ」
 笑顔を作って、亜美がまた俺の手を引いて先導していく。歩き始めるとすぐに雲が晴れて、満月が再び空に躍り出た。
 ゴミ捨て場を通り過ぎ、車が通りそうも無いのに30kmの速度制限の標識が頭上に見えた。詰め込んだように立ち並ぶ電柱のせ
いで、酷く空が狭い。
 信号や横断歩道の無い交差点に差し掛かり、一時停止の標識の前で亜美が歩みを止めた。俺の足も自然と止まる。
 「兄ちゃん」
 「なんだ?」
 「亜美がもっと早くオトナになるには、どうすればいいのかな」
 俯いて、亜美の声には抑揚が無かった。
 「亜美がもっとオトナだったら、兄ちゃんは……」
 目の前を大きなトラックが横切り、風が亜美の前髪を揺らしていた。



 終わり



―後書き―


あちこちのスレでマルチに活動する4.5コマ漫画を描いてる人が投下したイラストが発端。
こんな展開にはどう考えてもならないようなイラストだったんですが、勝手に話を捏造(ry
子どもの感じそうな「どうにもならないことへの悩み」は前々から書きたいと思ってたので、
これがいい機会だと思って1レス分の短い物を投下しました。HPに上げるに至って作り直し。