歪んだ鶴


 病院とは薬品臭いもの、というのは良く耳にすることだが、それはどうやら診察室の中だけの話のようだ。
病棟の、ベッドの八床ある大部屋の中は、何の匂いもしない。空気清浄機が常にかかっているし、時々香って
くるのは、すれ違う人の匂いや看護師さんから香るシャンプーの匂いぐらいのもの。このままここにいたら嗅
覚が退化してしまいそうな気がしていた。


 病院にかつぎこまれてから、三日目。極端に娯楽は少ないし、食事が唯一の楽しみか、と思っていた所なの
だが、まだ絶食状態は続いている。看護師さんから聞いた限りでは、症状が改善するまでは食事は摂れず、GO
サインが出ても重湯からのスタートだ、とのことだ。まぁ、無理も無い。
 診断名は『出血性胃潰瘍』だったか。ヘリコバクター・ピロリ──通称ピロリ菌──とか言う、なんだか擬
音のような名前の細菌を俺が保有していて、激務の疲労やストレスが引き金になって胃の調子が悪くなった所
にそいつが悪さをしていたらしい。一通りの治療が済んだ後に薬を飲むことで除菌を行うそうだ。
 「……ふぅ」
 溜め息をつきながら、主治医の先生から渡された内視鏡の写真をベッド脇の棚にしまった。自分の体の中な
んて医者でも無ければ見ることは無いからあまり実感は湧かなかったが、血みどろになった胃の内部の写真は
随分とショッキングな物だった。ベッド脇には点滴台が佇んで、俺を見守るかのように体内へ何種類かの薬剤
を送り続けている。

 三日前の夜、仕事を終えた担当アイドルと事務所で挨拶を済ませ、帰っていく彼女の背中を見送ってから、
さて残った仕事を片付けようとした所で、突如として強い吐き気を覚えた。比喩では無しに目の前が真っ赤に
なった。遠くに小鳥さんの悲鳴が聞こえたと思ったら、腹に刃物を突き立てられたかのような痛みの中で意識
が朦朧としていって……気が付いたら救急車の中だった。俺のワイシャツが血で染まって真っ赤になっていた
のだけは微かに覚えている。病院に担ぎ込まれてからは、目が覚めたり気が遠くなったりを繰り返しながら喉
がやたらと苦しかった。胃カメラを口から突っ込んでいたと知ったのは後になってからのことだ。
 ともかく、命は助かった。病院のスタッフの口ぶりからすると、経過が順調ならそう遠くない内に仕事にも
復帰できるだろうとのことだ。

 「失礼します」
 俺の苗字を一言呼んで、この大学病院の内科病棟ではベテランらしい、やや年配の看護師が病室のカーテン
を開いた。手には、紙コップを持っている。
 「主治医の先生から伝言です。今日からはお水飲んで大丈夫ですよ。本格的に食べ物が通るまではまだ時間
が必要ですが、明日もう一度検査して大丈夫そうなら重湯からお食事も再開しましょう、とのことです」
 「ほ、ホントですか」
 まだだるさの抜けない体を起こして、精一杯に感激の声をあげる。心からの声だ。
 「……というわけで、どうぞ。喉渇いてるでしょう?」
 差し出される紙コップ。中には、無色透明の液体。匂いなんてしない。どこからどう見たって完全な真水だ。
大丈夫とは言われたが本当に大丈夫だろうか、お腹が痛くなったりしないだろうか、と思いつつ、コップを傾
けて中身を少しだけ口に含み、飲み込んだ。
 「美味しい……ただの水なのに」
 体のあちこちに入ったヒビが見る見るうちに滑らかになっていくようだ。すぐに二口目を含み、今度は一気
に流し込んでしまった。全身が欲していたせいか、たったコップ一杯の水で凄まじい満足感がある。
 「ご馳走様です」
 コップを返すと、看護師は目尻に皺を作りながら、柔らかい笑みを浮かべてくれた。
 「そうそう、もう一ついいお知らせがありまして。菊地真というお方が面会を希望してこちらにいらしてま
す。可愛い顔してて、まるで女の子みたいね」
 「あ、女の子ですよ。ボーイッシュなんでよく男と間違われるみたいなんです」
 「えっ、そうなんですか。それは失礼しました。こちらへご案内しますね」
 苦笑いしながら答えると、看護師は引っ込んで行った。普段は芸名だから本名を知らないのはともかく、彼
女はどうやら真のことを知らないらしい。これを機会に真のことを知っておいて貰えれば嬉しかったのだが、
変にここで有名になってしまっても居心地が悪くなりそうなので、この方がいいだろう。
 「失礼します……」
 程なく、スリッパのゆっくりとした足音が近付いてきて、カーテンの向こうからおっかなびっくり覗き込む
ように、見慣れたショートカットの頭が顔を出した。顎の輪郭を隠すマフラーが、外の寒さを物語っている。
 「よう」
 俺の姿を見て、真は目を大きく見開いて、ギョッとした。点滴台に一旦視線を移して再び俺に視線を戻し、
目の前で交通事故でもあったかのように口をパクパクとさせていた。見るからにショックを受けている。
 「あ……プ……っ」
 「ひとまず面会室に行こうか。ここで話をしてたら他の患者さんに迷惑だからな」
 「は……は、はい」
 プロデューサー、と叫ばれてしまうのもなんなので、真の言葉を遮り、畳み掛けるように場所を移す提案を
した。重たい体を起こして、点滴台の立っている方へ下りて、スリッパに足を突っ込む。点滴の針が刺さって
いる左腕で台のキャスターを転がしながら病室を一旦後にすると、「ボクが持ちます」と、すぐさま真が点滴
台を握って支えてくれた。
 廊下の角を一回曲がって少し歩くだけの、ほんの短い距離。その間、寄り添うように歩く真は、不安に曇ら
せた瞳で何度も何度も俺を見上げていた。


 「さて……と。どこから話したもんかな」
 幸い、面会室には誰もいなかった。ここでは携帯電話の使用も許可されているので、電源をONにする。
 改めて真の姿を確かめてみると、ショートにした髪と、グレーのパーカーにカーキ色のカーゴパンツ、口元
を隠すような赤いマフラーと、腰元には変装を意識して被っていたと思われるメッシュのキャップ。本人が聞
いたらヘソを曲げてしまうだろうが、そりゃあ男の子に間違われもするだろう、と思う。
 まぁ、女性アイドルとして売っている真が男の子と間違われるのはかえって好都合というものかもしれない。
 「悪いな、突然こんなことになって」
 「と、突然も何も……」
 面会室が使える時間は限られているため、連絡をするのも難しい状況だ。こちらからの情報伝達は断片的な
ものにしかできなかった。そのせいだろう。真の顔には絶望がありありと浮かんでいた。
 「そんな世界が終わっちゃいそうな顔するなって。死にゃしないさ。今から詳しい状況を話すから」
 そして俺は、先程新たに貰ってきた水を片手に、状況説明を始めた。病院に運ばれたいきさつ、現在までに
どういう経過を辿ってきたか、下された診断は何だったか、現在はどういう状態か、今後の見通しはどうか。
 主治医から渡された写真は見せなかった。真が見る必要も特に無いし、血みどろになった内臓の写真なんて
女の子が見るにはショックが強すぎるだろう。
 話が進むに連れて、顔面蒼白になりかけていた真の表情にも温かみが戻ってきた。ストレスや疲労が関係し
ていたと聞いた瞬間に真は息を詰まらせたが、原因の大半は細菌感染だと分かり、「ボクが迷惑かけ過ぎたん
じゃないか」と気を揉んで自分を責める素振りは見せずにいてくれた。
 「……とまぁ、そういうわけだ」
 「そうですか……そんな大変なことになってたなんて。でも、状況が分かって少し安心しました」
 「真の方はどうだ? 緊急だったから俺の同僚が代理を引き受けてくれたんだが、上手くやれてるか?」
 「律子のプロデューサーさんですよね? ボクのプロデュースは、律子が代わってくれてるんです。この際
だからプロデューサー研修も兼ねてってことで、彼が横で監督しながら、面倒見てもらってます」
 ほとんど着の身着のままで入院してしまった俺に、彼は最低限必要になる衣服や生活用具などをすぐに用意
してくれた上に、仕事関係の資料も俺の机から幾つか持って来てくれた。頼りになる存在だ。昨日もどうにか
時間を作り、面会時間の終了ギリギリになって見舞いに来てくれた。
 「すみません、ボク、真っ先に来たかったんですけど、どうしても仕事が面会時間に間に合わなくて……」
 「それでいい。仕事をすっぽかしでもしたらそれこそマズいし、真は自分のやれることを頑張ってくれ」
 はい、と真が頭を縦に振り、やや長い前髪が目元を隠すように揺れた。
 「……たった三日間で、随分やつれちゃいましたね、プロデューサー」
 悲痛な瞳。昨日様子を見に来てくれた高木社長や小鳥さんも、同じことを言っていた。
 「そりゃあそうだろうな。入院してから何も食べてないし、水を飲めるようになったのもついさっきだ。メ
シが食えるようになればすぐ戻ると思うよ」
 「物が普通に食べられるようになるまでは、まだかかりそうですか?」
 「まぁ、しばらくは無理だろうなぁ。明日の検査結果次第では食事が再開されるみたいだが、元に戻るには
時間がかかりそうな気がするよ」
 「検査って、何するんですか?」
 「胃の中を調べるから、内視鏡……いわゆる胃カメラを突っ込むんだよ」
 ここから、と言って自分の鼻を指す。
 「うわ、凄く苦しそうですね……」
 そう言って真は眉をひそめた。
 「そういえば、亜美真美が言ってたんですけど、ここの病院で亜美達のお父さんが働いてるらしいですよ」
 「ん? ああ、そうか。俺の主治医が双海って苗字なんだけど、やっぱりあの二人のパパか」
 回診の時間、何人かでやってくる医師達の筆頭に立っていた医師の胸元に『双海』と言う珍しい苗字を見た
時最初に感じたことだった。
 「気さくで楽観的な感じの人だったな。言われて見れば確かに亜美真美のパパって気がするよ」
 周囲の医師達と話す口調や雰囲気からすると、勤務医の中での地位は高いようだ。救急車でかつぎこまれた
俺の処置をしてくれたのも、この人だったらしい。
 昨日来た高木社長は、双海先生に挨拶していったのだろうか、と、ふと考えた。
 

 壁を見ると、面会時間の終わりである午後七時を時計の針はあと五分ほどで指そうとしていた。さっきここ
に入ってきてから三十分ぐらいが経ったことになるが、数分間しか過ぎていなかったような気がしていた。
 「……もうすぐ時間か。やれやれ、時間が過ぎるのって、こういう時だけは早いんだな」
 「やっぱり、病院の中ってヒマですか?」
 「ああ、ヒマだな……日頃忙しかったもんだから、時間の流れが遅くってな」
 「父さんがレース中の事故で足を骨折して入院した時も、同じようなこと言ってました」
 「内科病棟って基本的にお年寄りの方が多いから、ちょっと疎外感あるんだよな。大学病院って場所柄、看
護師さんは若くて可愛い人が多いんだけどな。歳が近いから親近感もあるし」
 看護師さんの話をした瞬間、真が露骨にムスッとして瞳を細めた。
 「……良かったじゃないですか、可愛い看護師さんがいて」
 ぷいっと顔を背ける真。冷凍庫で思い切り凍らせたような刺々しい言葉が飛んでくる。こういう所は本当に
女の子らしいと思うが、可愛いながらも少々心が痛い。
 「親近感があるって言っても、所詮は患者と医療従事者だ。看護師さんも忙しいから世間話なんてできない
し、話し相手がいなくて退屈してるんだ。まるで、俺一人だけが765プロから隔離されたみたいだよ」
 「隔離……」
 隔離、という言葉の無機質で冷たい響きに、真の表情が翳った。しまった。折角お見舞いに来てくれたのに
真を不安がらせるようなことを言ってどうする。俺の心も冷えるようだった。
 「孤独で、本当に長いんだ……真のいない一日は。正直に言うと、寂しいよ」
 口にしても仕方の無いことだったが、つい漏れた本音だった。
 「……ボクも同じですよ。プロデューサーのいない一日は寂しいです」
 心の揺らぎを無理矢理正すような、抑えたアルトの声が小さな面会室に響く。
 「プロデューサーが救急車で病院に運ばれてそのまま入院だって聞いて、気が気じゃ無かったんです。ショ
ックで仕事なんてできる状態じゃなかったんですけど、『病院で苦しい思いをしてるプロデューサーを元気づ
けるためだと思って頑張れ』って律子が必死に励ましてくれて、やっと頑張れたんです」
 咳払いをして、真が震える声を振り払った。カーゴパンツの布地を掴んでいた手が握り拳になっていく。涙
を見せまいと堪える様がいじらしかった。
 「……ありがとな」
 点滴の刺さっていない右腕を伸ばして、真の頭に触れた。サラサラと滑らかな髪の感触が掌に心地良い。
 「プロデューサー、ボク、プロデューサーが安心できるように、仕事、頑張ります。だから、早く良くなっ
て、事務所に戻ってきてください」
 真は頑張れているだろうか、と密かに心配していた心中を見抜かれたかのような一言だった。胸が熱くなる。
 もう一度感謝の言葉を述べようとした時、壁の時計が鳴った。面会時間終了の合図だ。
 「時間だ……行かなくっちゃ」
 「今日はもう仕事も終わりか?」
 「はい、後は帰るだけで……ああそうだ、これ渡さなきゃ」
 そう言って、真は鞄の中からクリアファイルを一枚を取り出し、同時に小さなビニール袋を取り出した。
 「えと、これ、律子から。来週ショッピングモールでやる予定のライブ、当日の内容がFAXされてきたんで
それのコピーと、歌番組のオーディションの告知が入ってます」
 ヒマならヒマなりに仕事のことを考えておけ、というメッセージだろうか。ともかく、ありがたい。
 「それと、これ。空き時間に何人かで作ったんですけど」
 小さな袋の口が開かれ、その中から現れたのは、色とりどりの折鶴だった。その数、十五羽ほどだろうか。
女性の多い職場なこともあり、どれも折り目正しく整っている……と、一羽だけ、折り目が歪んで裏地の白が
見えている黒い鶴が混ざっていた。折り直した形跡なのか、所々の凸凹が目立つ。
 「真、この黒いの……」
 「う……ボ、ボクが折った奴です、それ。どうも、こういう細かいのは苦手で……」
 「ふむ……」
 受け取った袋から黒の折鶴を取り出してまじまじと見つめてみる。いかにも丁寧に折られた他の折鶴とは違
い、厳しい現場をくぐり抜けてきた叩き上げといった貫禄がどことなく感じられる。
 「そんなじっくり見ないで下さいよ、恥ずかしい」
 「いいな、コレ。苦労を知ってる感じで。この鶴なら元気を分けてくれそうだ」
 「……それ、褒めてるんですか?」
 「勿論褒めてるのさ。他の鶴が温室育ちのお坊ちゃまに見えてくるぐらいだ」
 言いながら、黒い鶴を袋の中に戻す。赤や黄色と言った明るい色の折鶴がひしめく中、真の折った鶴はしっ
かりと自分の居場所を主張していた。
 「色々とありがとうな。真に会えて嬉しかった」
 「あ……え、えと、はい。ボクの方こそ、プロデューサーの顔を見れて元気が出ました」
 「病人の顔だけどな、ははっ」
 照れ笑いを浮かべる真につられて、俺も笑った。心が軽い。笑う余裕が出てきたことが素直に喜ばしかった。
 「じゃあボク、帰りますね。……えっと」
 体を半分ドアの外に向けながら、真が右手をこちらへ突き出した。掌をこちらに向けて、指先は僅かに開け
てあり、指のしなやかさが映える。
 パンチか、ハイタッチか、よく分からないままに手を伸ばして、俺はそのどちらとも違う行動を取った。開
かれた指先へ割り込むように、指の股同士を噛みあわせて、正面から真の手を握った。室温に慣れてきたから
か、真の小さな手は温かく、握り返されれば、生き生きとしたエネルギーが伝わってくるようだった。
 「…………」
 空いた手で、真が腰に下げていたキャップを目深に被った。表情を悟られないように顔は俯かせたまま、真
が手の力を抜き、絡めた両手が離れていく。
 「……ボク、明日も来ます」
 右手で念入りにキャップのつばを下げて一礼し、真は面会室を去っていった。俺の病室へ続く方とは逆方向
へ早足に去っていくその背中で揺れるパーカーのフードが遠ざかっていく。
 静かになった面会室で折鶴の袋を覗いてみると、黒い鶴の首が、何か言いたそうにこちらを向いていた。


 夜九時という早すぎる消灯時間になるやいなや、その夜は驚くほどあっさりと眠ることができた。



 終わり



―後書き―

久しぶりの真SSでした。前振りがちょっと長かったかも?
今回は、というか自分のSSは全般的に文字がみっちり詰まってて読み辛いんじゃないかって気がします。
入れたかった一文があったんですが、入れられる場所が見つからなかったので今回は保留で。