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「あー、ストップストップ! 今の音、外れてましたよ!」
 ピアノがポツンと置かれただけの、自主レッスン用に設けられた事務所の一室に、律子の声が響く。
 「えー、ちゃんとさっきやった通りにやったつもりなんだが……」
 手元に持った楽譜に視線を落とし、音階を確かめる。
 「今プロデューサーが出したのはここです、ここ」
 どしんと構えたピアノの前で椅子に腰掛けている律子がソの音を数回ノックした。今俺が出した音は半音下
にズレていた、とのことだ。
 「最初の方は順調なんですけど、どうもここに来ると上手くいかないわね……もう一回行きましょう」
 「ええっ、まだ続けるのか? そろそろ休憩取りたいんだが……」
 「却下です。せめてここの音をしっかり取れるようにしなきゃ」
 声を出しっぱなしで頭がクラクラしかけてきているというのに、律子の言葉はにべも無い。
 「ぐあー、律子の指導は厳しいなぁ」
 「何言ってるんですか。私なんてまだ優しい方ですよ……千早に比べれば」
 「……確かにな。合同練習の時、あまりのおっかなさに男どもみんなビビってたからな」
 「まぁ、あそこまでシビアになることも無いと思うけど。真面目ですからね、あの子は」
 時間も無いし、続きを。椅子に腰掛ける律子に促され、ピアノの旋律に合わせて再び下腹部に力を込めた。


 クリスマス直前に765プロ総出で感謝祭ライブを。企画自体は夏頃から既に始まっていて、当初は事務所に
所属するアイドル全員を集めてそれぞれで歌を歌い、普段はソロで活動しているアイドル同士がユニットを組
んだり……という展開だったのだが、いつの間にかコーラス隊を組んでの合唱がプログラムの一部に組み込ま
れていて、男声パートを事務所の男性スタッフ一同が担当することになっていたのだ。
 そこそこ大きくなったとはいえ、人員のそれほど多くない我が事務所の男性スタッフといえば大体がプロデ
ューサー一同だ。アイデアを聞いた時は中々面白いと思っていたが、いざ練習の段になってみると、歌のレッ
スンを日頃からみっちり積んでいるアイドル達の女声パートと、プロデュースこそしていても歌の練習などし
ていないプロデューサー陣の男性パートの釣り合いが全く取れない。それでも、「やるからにはレベルの高い
ものを」という千早の熱心な声もあって、プロデューサー陣も仕事の合間を縫って練習に励むことを半ば強制
されていた。ボーカルレッスンを延長してアイドルと共にトレーナーから指導してもらう人もいれば、俺のよ
うに担当アイドル主導で練習する人もいた。


「うん、今のは良かったですよ。じゃあ、もう一回」
 ダメ出しされずに1フレーズを歌い切ったと思いきや、律子が人差し指をぴんと立てた。
 「えぇっ、終わりじゃないのか?」
 「今の感覚を定着させるためにも繰り返し練習が必要なんです。いつもプロデューサーが言ってることじゃ
ないですか」
 「う……た、確かにそうだな」
 律子の言葉に、いつものレッスン光景が思い出された。ダンスの講師も、難度の高いステップの中々安定し
ない律子に同じことを言っていたっけ。
 歌を歌うと同時にダンスもこなし、魅せる表情も作らなければならない。おまけに、よりよく魅せるために
普段から人一倍美容には気をつける必要がある。アイドルとしてステージに立つというのは大変なんだと常々
思ってはいたが、その苦労がどれほどのものかという理解についてはどこか漠然としたものだったように思う。
 こうしてビシバシ言われながら歌の練習をすることで、その苦労の何万分の一かは共有できるだろうか。
 「いいですよ、その調子、その調子っ」
 ずっと練習していたパートからそのまま先へ進んで行き、楽譜を目で追いながら歌う俺の声に、ピアノを弾
きながら歌う律子の伸びやかな歌声が重なって、調和の取れたメロディを紡ぎ出す。
 こうして楽譜を手に持って、課題になっている曲を歌うだなんて、学校で音楽の授業を受けていた時以来だ
ろうか。つまらないとばかり感じていた時間が、今は懐かしい。
 結局、練習していたパートから最後まで通しで歌い終え、四角い空間に静寂が戻った。
 ピアノから手を離すと、律子がこちらを向き、白い歯を見せてにっこりと笑った。
 

 自主レッスン用の部屋を後にしてフロアに戻ると、律子が二人分のマグカップとクッキーを盛った皿を持っ
て来てくれた。コーヒーの酸味がかった香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。黄白色のバタークッキー、黒い斑点
のたっぷり散ったチョコチップクッキーに、クリームの挟まったクラッカーなど、皿の上は彩り豊かだ。
 「お疲れ様でした」
 「いやー、やけに疲れたな。歌ってただけなのに、なんだか体が重たいよ」
 「少しぐらいは、日頃の私達の苦労が分かっていただけましたか?」
 溜め息の一つでもつくかと思いきや、律子の口調は穏やかだ。
 「ああ。ほんの僅かに過ぎないだろうけどな。クッキー、貰うよ」
 チョコチップクッキーにすっと手を伸ばし、サクリと一口。何気無く齧っただけのそれは口の中で優しく溶
けていき、一瞬のほろ苦さの後に甘みが全身にじんわりと染み渡っていく。猛烈な喉の渇きをキンと冷えた水
で癒した時のような満足感に、目蓋の裏側が熱くなる心地だった。
 「……美味いな、これ」
 判で押したような形の整いぶりから察するに、どこのお菓子売り場にでもあるような、何の変哲も無いただ
のクッキーだ。そんな平凡な一枚が、やけに美味しく感じられる。窓から降り注ぐ冬の日差しもふんわりと柔
らかく、ガラスに叩きつける寒風が別世界のできごとになっていくようだ。
 「でしょう?」
 俺の漏らした感想に、眼鏡の奥の瞳がきゅっと細くなった。
 「レッスンとかお仕事の後って、こういうのが本当に美味しいんですよ。疲れた体が糖分を求めてるのもあ
るんでしょうけど、『ああ、終わったー』っていう達成感みたいなのがあって、ホッとしてるって言うか。上
手く言葉に表せませんけど、とにかく、至福の時間ですね」
 「あー、分かる気がするな」
 ひょいひょいと、皿に盛られていたクッキーが消えていく。気がつけば、こんもりと盛られたクッキーは残
すところ一枚となってしまった。律子に譲ってあげようと目配せをしてみると、律子の視線もちらちらとこち
らの様子を窺っていた。
 「食べていいよ」
 「いえいえ、頑張ってたプロデューサーこそ、どうぞ」
 思った通りの反応。そう感じたのは同じだったのか、律子がくすりと笑った。
 「半分こ、しましょうか」
 「そうだな」
 真っ白な律子の手の中でパキッと小気味良い音を立てて、黄白色のクッキーが真っ二つに割れた。片割れを
同時に口へ放り込みながら、またレンズ越しの澄んだ瞳と眼が合う。眼差しだけの、言葉の無いコミュニケー
ションが心地良い。
 砂糖もミルクも入れなかったはずのコーヒー。舌がほんのりと甘みを感じ取ったように思えた。


「さてさて、本番まであと一週間を切りましたね」
 マグカップを片付けて一息ついていると、律子がそう切り出した。
 「あー……憂鬱だな」
 「どうしてです?」
 「だってさ、ウチの売れっ子アイドル達が一堂に会するのと同じステージに立つんだぞ。社長の提案とはい
え、ファンが顔も知らないような男達がいきなり出てきて場が盛り下がるんじゃないかって、ステージプラン
を練りながら男性陣は不安がってるよ」
 「確かに、プロデューサー達はステージ慣れもしてませんしね。でも、同じ舞台に上がっても、ファンの視
線は前の列に並ぶ私達にほとんど集中するだろうし、大丈夫ですよ。それに、コーラスが入るのは曲目のテン
ションも落ち着き始める頃ですから、じっくり耳を傾けるのにむしろ丁度いいんじゃないですか?」
 本番当日にはできるだけゆっくりお越しいただきたい俺とは対照的にウキウキとした様子の律子は、ライブ
の日を心待ちにしているようだ。まぁ、律子にしてみれば、仲良しの友達でこそあれ日頃は仕事の場で会うこ
とのあまり無い他のアイドルと共演してのお祭りライブだ。胸を躍らせる気持ちはよく理解できる。
 だが、初めての武道館公演であそこまでガチガチになっていたのも、まだ記憶に新しい。それでも、同じ事
務所のアイドルと同じ舞台に、というのは、広いステージに最初から最後まで一人、という状況とは感じるも
のもやはり違うのだろうか。
 「律子は、どうなんだ?」
 「どうって、何がですか?」
 「でっかいステージだけど、相当なプレッシャー、感じてるんじゃないか?」
 舞台が大きくなるにつれてお馴染みとなった、今更な台詞が口をついて出てきた。
 「……不安と言えば不安ですけどね。他の子の足引っ張りゃしないかって心配もあります」
 ふっと律子の表情が曇る。しかしそれも一瞬のことで、「でも、それ以上に嬉しいんですよ」と、すぐに口
元を綻ばせて笑顔を見せてくれた。
 「プロデューサーが私と同じステージに立つなんてまず無いじゃないですか。一緒に局に入っても、プロデ
ューサーはテレビに出るわけじゃありませんから」
 「そりゃ、俺は芸能人じゃないからな」
 「だから、楽しみなんです。この不安や緊張、そしてステージで歌っている時の昂ぶり、ライブが終わる瞬
間の、涙が出そうになるほどの熱い感動。そういった色々なものを一緒に感じる機会があるってことが」
 「そうか……そうだな」
 オーディションの控え室。テレビ番組収録直前の楽屋。今か今かと律子の登場を心待ちにするファン達でい
っぱいになったステージの舞台脇。身を苛むプレッシャーを肩代わりできたら、と歯痒い思いを今まで何度し
てきたことか。その時のことを思えば、律子の言う通り、今回の感謝祭ライブは、ステージに立つ者の気持ち
をより深く理解するいい機会と言えるのかもしれない。
 「結構いい気分ですよ、大勢の視線を一身に浴びるっていうのも」
 「うーん、そういうもんか?」
 「案外、ステージに立ったらテンション上がっちゃうタイプだったりして、うふふ」
 「あー、それは無いんじゃないか、さすがに」
 「分かりませんよー? まぁとにかく……頑張りましょうね、プロデューサー」
 律子がグッと両の拳を握り締めた。俺が事務所に残って仕事の残りを片付けている時の「頑張ってください
ね」でもなく、俺の手助けが及ばないスタジオの中へ行く時の「頑張ってきます」でも無い、同じ高さの目線
で互いを励まし合う言葉に、胸の底がじんわりと温まるのを感じた。
 少しだけだが、出演者としての本番当日が楽しみになってきたかもしれない。


「……ところでプロデューサー」
 「ん、なんだい?」
 「クリスマスは、やっぱり予定無しですか?」
 目を弓なりにして、意地悪く律子が笑う。
 「やっぱりとは、失礼なっ! ……まぁ、24日も25日も事務所にいるだろうけどな。仕事だ、仕事っ」
 「……ふーん、そうかぁ、仕事かぁ……って、私もですけど。でも、夜なんかは時間空くんじゃないんです
か? その日の収録も夜遅くまではかからないと思うんですけど」
 「感謝祭の準備に追われてて結構やる事が溜まってるんだよ。同僚の中には予定を空けてる奴もいるみたい
だけどな。後回しにして年明けにアタフタするのは御免だし」
 クリスマスに仕事が入っているのは自分から望んだわけでは無いが、どの道プライベートなクリスマスの予
定なんてものも無い。聖夜だなんだと世間は賑やかだが、要はキリストの誕生日ってだけじゃないか。クリス
チャンでは無いのだし、浮かれる理由も無い……などと思ってはみるものの、本音はちょっぴり情けない。
 「だったら、手伝いますよ?」
 「うーん、いいよ。律子は予定あるだろ?」
 律子の表情に緊張が走り、片眉がぴくりと釣り上がった。「すみませんね、プライベートの予定なんてあり
ませんよ」とぶっきらぼうに口を尖らせる様が、針のようにちくりと俺に刺さる。
 「ほ、ほら、学校の友達と集まったりとかさ」
 「んー、誘われてたんですけど、断っちゃったんですよね。仕事がいつ終わるか分からなかったから」
 「うーん、そうか……」
 「ですから、収録が終わったらプロデューサー殿を手伝っていこうかな、と。ヘタしたら大晦日まで仕事を
残してそうですし、クリスマスの夜を書類と過ごす男の人……っていうのも可哀想だと思いまして」
 可哀想、とは何とも引っかかる物言いだが、小さなミスから書類を作り直すハメになることの多い俺として
は、正直な所を言ってしまうと律子のヘルプはありがたい。
 「いいのか?」
 「ええ。時間の空き方も中途半端だし、今から新たに予定を立てる気にもなりませんから」
 「なら、お願いしようかな。わざわざ手伝って貰うから、終わったらメシでも奢るとするよ」
 「おぉっ、いいんですか?」
 レンズの向こう側が、縦に大きく見開かれた。お下げに束ねた髪が揺れる。
 「ああ。折角だし、奮発してちょっといい所にするか」
 「太っ腹ですねぇ。それなら頑張って早く終わらせなくちゃですね、ふふっ」
 声を弾ませ、手帳をいそいそと取り出して、律子がペンをさらさら走らせる。無邪気に喜んでいる律子の様
子に、俺の心にも嬉しさが満ちていく。現金な律子のことだし、おおかたタダ飯が食えると聞いて喜んでいる
のだろう。しかし、街を一色に染め上げるこんなクリスマスムードの中、もしも一緒に食事に行くこと自体を
喜んでくれていたら、と淡い期待が込み上げるのも、否定できなかった。
 遠目に見えるカレンダーの日付を眺めていたら、鼓動のテンポが上がるような気がした。



 終わり



―後書き―

お祭りゲーたるL4Uを久しぶりにやってみたら思いついたネタ。中々筆が進まなくて難儀しました。
さすがにP連中がステージに上がるってのは無理があるような気もするけど、そこは二次創作ってことで一つ。
同じ苦労を分かち合えて喜ぶ律子ってのを表現してみたかったとかそんな感じです。
余裕があればクリスマスネタはもう一個ぐらい書くかも?