キャッチボール


 新品の皮革製品独特のきつい匂いが漂う、スポーツ用品店の野球道具コーナーの一角。俺と真は、自分の手に合うグローブを探し
て片っぱしから手にはめては外しを繰り返していた。本当は真の分だけでも良かったのだが、随分昔に野球のグローブを捨ててしま
った俺もついでに買おうと思い、一緒に探していた。
 「プロデューサー、ボクこれにします」
 店員の意見を聞きながら求めていたものを見つけたのか、左手でグローブを大きく広げて、バンバンと嬉しそうに右の拳を打ち込
んでいる。こんなことを口に出せばたちまちヘソを曲げてしまうだろうが、この爽やかな表情にキャップなど被っていればまるで野
球少年だ。
 ユニフォームを身にまとい、グラウンドでボールに飛びつく姿が目に浮かぶようで、なんだかワクワクした。
 「そちらのお客様もよろしいですか」
 俺は問いかける店員に頷き、財布の中から福沢諭吉を三人ほど取り出しながら、二人分のグローブを持ってレジに向かった。


 発端は、一週間前に送られてきた一枚のファックスだった。
 「芸能人野球大会?」
 「ああ、そうだ。さっきオーディションのお知らせが来てな。来月収録だそうだ」
 ゴールデンタイムのバラエティ番組の特番企画だった。タレントを集めて、野球のチームを作ってのガチンコ勝負。メンバー編成
を男女半々ずつの混合で組まなければならないことと、アーティスト枠、アイドル枠、タレント枠に芸人枠とそれぞれの系列別に枠
が定められているということ、九回勝負ではなく七回で終わるという他にルールは普通の野球とほぼ同じ。
 「その番組って、結構視聴率高いですよね? ボクの学校でも見てる友達凄く多いですよ」
 「ああ、枠を勝ち取れれば人気向上が約束されるようなもんだな。スポーツの得意な真にはうってつけのチャンスだろう」
 真が期待に目をきらきらと輝かせたが、数秒してふっと表情に陰を落とした。
 「あ、でもボク、野球は自信無いなぁ……ソフトボールなら授業でやったことあるんですけど……」
 「似たようなもんだよ。若干のルールの違いはあるけど、基本は一緒さ。ディレクターはガチンコでやりたいからなるべく運動の
できる人材をタレントで集めたいようで、オーディションでは運動テストみたいなのをやるらしいぞ」
 紙に書かれた募集要項に目を通しながら、これはますます真にとってはチャンスだ、と思った。ソフトボールの経験があるのなら
野球に順応するのも早いだろう。都合良く俺にも野球の経験があることだし、レッスンの時間を割いて練習に当ててもいい。


 スポーツショップでグローブを買ってから三日後の午後、キャッチボールをしにやって来た川沿いの土手は快晴の空模様だった。
川を一望できる堤防の上から遠くを眺めてみれば、向こう岸に立っているデパートが住宅街の中からにゅっと突き出ていて、水色の
鉄橋の上には、八両編成の電車が大声で唸りながら走っていた。目下に見える野球場はがらんとしていて、階段の下の道にはジョギ
ングをしている人がちらほら見かけられる。少し強めの風が心地良い。
 日差しもそうきつくなく、運動をするにはうってつけだ。事務所からの道中、真は興奮した様子で、左手に黒いグローブをはめた
まま手を開いたり閉じたりしていた。店員にお願いしてあらかじめ手入れをしておいてもらって正解だった。店で受け取った時に自
分で試しに手を突っ込んでみたら、買ったばかりとは思えないほどほぐれていたからだ。これなら、いきなり使っても手に変なマメ
ができたりすることも無いだろう。
 「じゃあ真、軽く準備運動したらキャッチボールしようか」
 ヘソ出しのタンクトップの代わりに、背中に『菊地』と大きく白地で書かれた濃紺のTシャツを着た真が大きく頷いて、ぶんぶん
肩を振り始めた。あのTシャツも友達が作ったもの、とのことだ。ぴったり体にフィットするデザインになっていて、線の細い真の
しなやかさが際立っている。あのタンクトップは健康的な色気を漂わせていて個人的には好きなのだが、これも中々。まぁ、口に出
さないでおいた方がいいか。
 真はともかく、俺まで一緒になってジャージを着ているのは、デビュー当時にこの土手へ走りこみに来た時以来だろうか。運動不
足でなまった体を動かすにはいい機会だが、真の運動量に合わせたら後日に襲い来るであろう筋肉痛を思い、冷や汗の流れる思いだ
った。
 準備運動が終わった所で、まずは近くからのトスで距離感を掴むことから始めることにした。
 「懐かしいな。こういうことするのって何年ぶりだろう」
 球を左手のグローブに捕まえる感覚が、中学生の頃を思い出す。高校では野球部には入らなかったが、特に後悔はしていない。甲
子園出場を本気で目指しているチームだったが暴力の噂が絶えなかったので、入らなくて正解だったかもしれない。
 「ソフトボールの球より小さいですね、これ」
 「握りやすいけど、その分スピードも速いぞ」
 後ずさりして徐々に距離を離しながら、トスを止めて上投げにしようと真に呼びかける。
 「相手の胸にパスするつもりで投げるんだ。手首とか肘だけで投げようとしないで、腰、肩、肘、手首の順番だ」
 「はい、やってみます」
 真の胸を目掛けて緩やかに球を投げると、きちんと両手を添えて真がそれを受け取る。手の中で握りを確認して真が投げ返してく
ると、すっぽ抜けたような球が飛んできて、上に跳び上がっても間に合わず、俺の頭上を通り過ぎていった。すいません、と謝る声
が球拾いに向かう俺の背中に響いてきた。
 「気にするな、今の内にたっぷりミスしておいてくれ。いずれ外さなくなる」
 球を拾って離れた距離から真に呼びかけるが、思ったよりも声の通りが悪かったので、もう一度、腹に力を込めて言うと、遠くで
ショートカットの頭が頷いた。
 さぁもう一度だ、と真に投げて球を手渡し、フォームや力加減を意識しながら真が投げ返してきて、上に行き過ぎたり、俺に届く
前に地面に着いてしまったり、左に右に振り回されたり、というのが何度か続いた。その度に、真は気まずそうに頭を下げる。
 しかし、やがて電車の轟音を数回聞き届ける頃には真もだいぶ慣れてきて、俺が胸に構えたグローブの中に球が飛んでくるように
なった。力の乗せ方も様になってきていて、飛んでくる直球を受け止める左手に気持ち良い痺れが走るほどだった。
 「だいぶ良くなってきたぞ、真」
 球を投げるのと一緒に言葉も投げ、パン、と乾いた音を立てて真がそれを受け取る。
 「へへっ、そうですか? ありがとうございます!」
 緩やかで弓なりな軌跡を描いて、俺の胸元に真の言葉を乗せた球がやってくる。
 「こういうのも、思いやりなんだよな」
 「どういうことですか?」
 「相手が取りやすい所に投げる、っていう心遣いだ。お互いに思いやりが無くちゃやっていけないんだ」
 「思いやり……別にそれって、スポーツに限らないんじゃないですか?」
 「例えば?」
 「ほら、ライブしたりテレビに出たりする時、どうしたらファンの人は喜ぶのかな、って」
 少しずつ距離を離していくにつれて、真の声量が増していき、俺も声を張り上げるようになっていた。いつの間にか、正面に見え
る真の姿はいつもの何分の一かに縮小されている。
 「まぁ、相手のことを考えるのなんて、いつだって必要だよな」
 真の言葉を俺が受け取り、俺が返す言葉をまた真が受け取る。球のやり取りと同時に展開される、言葉のやり取り。グローブと球
がぶつかりあって立てる皮の弾ける音が、メッセージを受け取った合図。よく『言葉のキャッチボール』なんて言うけれど、現実の
キャッチボールと一緒くたにそれもやっている。
 心地良い時間だ。
 「プロデューサー!」
 「何だよー!」
 「楽しいですね、キャッチボール!」
 腹に力を込めないと声が届かないような距離になってきて、さすがに離れすぎなような気がしたが、それでも真の球は俺の胸へ飛
んでくる。気が付けば、澄み渡っていた空に浮いていた太陽が西へ沈んでいき、河原の世界は茜色に染まり始めてきていた。緑色の
草むらを脇に従えて夕日を浴びる真の姿が、視界の中でただ一つの黒。ぼんやりとそれを眺めていると、早くしてくださいよ、と大
声で促された。
 「ねぇプロデューサー、ボク、思い出したことがあるんです」
 少し疲労が出てきたのか、力の乗った真っ直ぐな球は勢いを失い、弧を描いて俺の元へやってくる。
 「何を思い出したんだ?」
 と投げ返す俺も少し肩がだるくなってきた。そろそろ切り上げ時かもしれない。
 「今はもうやってないですけど、昔のテレビ番組でこんなのやってましたよね」
 「あー、あったなー」
 「毎週見てたなぁ。あの雰囲気、ちょっと憧れだったんです」
 「テレビカメラは無いけどな、ははっ」
 俺が高校生の頃にやっていた番組だっただろうか。夕焼けの土手の上でキャッチボールをする、二人の人間。同性の友人同士だっ
たり、親子だったり、仲直りできないカップルだったり、その週によって様々で、球と言葉のやり取りを通じて、胸の内に封じ込め
たまま打ち明けられない思いを口にして……そんな心温まる番組だった記憶がある。
 両想いなのに一歩を踏み出せない異性の友人同士がキャッチボールをした回はたまたま録画していて、後で何度も見返したっけ。
今思うと、ちょっと恥ずかしくて、甘酸っぱい。
 俺の投げたボールを受け取った真が、左手のグローブに収めた右手に視線を落とす。目を凝らしてみると、表情を崩して笑みを浮
かべているのが見えた。
 「プロデューサー!」
 真が大きく振りかぶる。勢いのついた一球が来そうだ。すっぽ抜けるかもしれない。俺は身構える。
 遠くから電車がやってくるのが見えた。
 「ボク────」
 真が何かを叫んだが、電車の轟音にかき消されて……俺まで届かなかった。
 俺がスピードのついた直球を受け止めた瞬間、真は棒立ちになって下を向いていた。
 「聞こえなかった。何て言ったんだ?」
 俺が呼びかけると、真は俺に背を向けて鉄橋に振り向いた。背中に負った『菊地』の漢字が、夕日を浴びて微かな橙色に染まって
いた。
 振り返った真は、何も言わずにグローブを顔の前で横に振るだけだった。



 

 一ヵ月後、無事にオーディションを通過した真は、グラウンドの内野でショートを守っていた。ガチンコ勝負を銘打っていたとは
いえ、番組スタッフの予想した以上の白熱した試合となり、七回で決着とならずに延長九回までもつれ込んでいた。表で勝ち越した
この裏をしのげば、真達の所属するチームの勝利となる。
 バッターボックスでは、同じ事務所からアイドル枠を勝ち取った星井美希が、赤いヘルメットから伸びた金髪を揺らしている。ア
ウトカウントは1、ランナー二、三塁。大きなチャンスを迎えた美希に、所属チームのベンチから声援が飛ぶ。
 グラウンドを守る守備陣も互いに声をかけあって、緊迫感を高めていた。青いストライプのユニフォームが良く似合う真も、すっ
かりナインの中に溶けこんでいる。ユニフォームの下半身はあちこちが泥まみれになっていた。
 「これはサヨナラいくかな」
 観客席で試合を眺める俺の隣で、先輩にあたる美希のプロデューサーが腕を組みながら言った。
 今日の美希は大活躍だった。守備ではレフトに飛んでいったホームランボールをフェンスに上って捕まえ、攻撃ではビジュアル系
アイドルとは思えないような気合の入ったヘッドスライディングを見せてチームの戦意高揚に大きく貢献していた。右翼に抜ける長
打を放って三塁まで一気に駆け抜けたり、キャッチャーが間に合わないような盗塁を見せた真も、インパクトという面においては負
けているかもしれない。
 どちらにせよ、アイドルが見せる泥臭いプレーというのはテレビ的に見れば意外性という点からかなり美味しい映像であるはずで、
真の持っている爽やかさや、美希の持つゴージャスさといったイメージとはかけ離れているものの、映像になった時にマイナスにな
るとは考えづらい。765プロとして考えれば二人の働きは諸手を挙げて喜べるものであると言える。今からオンエアが待ち遠しいぐ
らいだった。
 「いやー、それにしてもあのグータラ娘があそこまでマジになってるの初めて見るよ、俺。意外と中身は熱血なのかもな」
 「ウチの真も随分熱くなってるようで……怪我してなきゃいいんですけどね」
 投手が球を投げようとセットポジションから投球姿勢に入る。来る、どうなる。
 金属バットから快音が響いた。打球は二遊間へ突き刺さるように飛んでいく。
 「おぉっ!」
 セカンドを守る若手の歌手と、ショートの真が同時に打球に反応した。真の方が若干近い。
 飛べば間に合う。叫ぼうとする前に、真がライナーに飛びつき、硬球がグローブに叩きつける乾いた音が響いた。
 「取った! 真、セカンドに渡せっ!」
 俺の声と同時に、二塁を踏んだ歌手が真に呼びかけて、倒れ伏したままの真からトスを受け取る。
 半分以上も飛び出していた二塁からのランナーは戻ることもできず、ゲームセットの声が響く中で呆然と立ち尽くしていた。


 「ゲッツーか……まぁ今のはマコッちゃんのファインプレーだな。天晴れだ」
 マウンドに駆け寄っていく芸能人達を眺めながら、先輩は俺と一緒に拍手を送っていた。他のタレント達のマネージャーやプロデ
ューサー達も、同じ観客席から選手達を労っていた。
 「じゃあ先輩、今日の打ち上げ、ゴチになりますんで!」
 「しょうがないな、負けは負けだし……美希と真ちゃんも一緒だから酒は無しだぞ」
 負けたら四人分の食費を持つ。賭けをしていたなんて聞いたら真に怒られてしまいそうだ。ほくほく顔で笑う俺の横で、先輩は苦
い顔をして財布の中身を数えていた。
 さて、アイドル達はどこがご所望かな、と思ってグラウンドに視線を戻すと、脱いだ帽子を片手に、真が俺に向かってぶんぶん手
を振っていた。
 「プロデューサー! ウイニングボール貰っちゃいました! 行きますよ、それっ!」
 グラウンドから観客席に向かって真がボールを放り投げてきた。
 ボールはゆっくりと綺麗な弧を描いて、素手で待ち構える俺の胸元にストンと落ちてきた。
 「へへっ、またキャッチボールしましょうね!」
 頬に泥のついた笑顔は、どこまでも爽やかだった。


 終わり



―後書き―

チャリで松戸駅まで出かけた時に思いついたネタ。
伊勢丹の見える江戸川河川敷とかそんなん。
土手(土手ですらないかも)でキャッチボールする番組は
実在したはずなんですが、番組名その他は思い出せず…。