バカは風邪を引かない、とよく言うが、別に風邪を引いたからといってバカでないことを喜べるわけではない。
風邪を引く……つまり、体調を崩すということは、とても辛い目に合うことだからだ。
体が丈夫なことが自慢の俺も風邪をこじらせ、バカでないのを喜ぶこともなく家で臥せっていた。
始めは喉の痛み。ついで体の関節に痛みを感じ、熱を測ってみたら38℃を超えていた。
それでも市販の風邪薬などを飲んで誤魔化しつつ仕事をしていたが、熱が39℃を上回ってからはとうとう動く気力も失せた。
時計の針は現在午前九時半を指している。しばらく前に事務所に電話をして、小鳥さんに休みを取る旨の連絡は済ませた。
レッスンだけで終わる予定の律子への言伝も頼んでおいた。
「くそ……どうしてこんな日に限って……」
最寄りの──と言っても徒歩で十分以上はかかる──内科の病院は都合の悪いことに休診日だった。
ベッドの上でゆっくりと寝返りを打つ。喉の痛みに声を出すのも一苦労だ。唾を飲み込むのが嫌になりそうだった。
全身の関節を万力でギリギリ締め付けられるようで、こめかみを押し潰されるような激しい痛みに目の前がぼんやりしている。
昨日の夕方から水分以外は何も口にしていないはずだが、空腹感は感じなかった。食欲が無いのだ。摂取した水分は汗に逃げてし
まっているのか、尿意を感じて用を足しに立つことも無かった。
寝ていれば楽になる。人体はそういう風にできている。そう自分に言い聞かせ、俺は目を閉じて睡魔の訪れをただ待つことにした。
具合を悪くした時、一人暮らしの孤独を強く実感する──学生時代に友人の漏らしていた言葉がグルグル頭の中を回っていた。
まだ秋も浅いというのに、震えるほど寒かった。
一向に眠くならないまま考え事をする頭も働かず、どれぐらいの間そうしていただろうか。
聴覚がインターホンの音を捉えた。応答するには玄関口まで行かなくてはならない。そこまで行く気力は無い。
今日は居留守を決め込ませて欲しい……そう思い、ベッドから体を起こさずにいると、二度目が鳴った。
(……いったい誰だよ)
観念して立ち上がろうとするまでの間に、三度目。どうやら訪問者は俺がいることを見通しているらしい。
脚を引きずるようにして玄関口へ向かう。鉛でできているのではないかと思うほどに、体が重たかった。
「はい……どちら様でしょうか」
小型のモニターに映し出された防犯カメラの映像が、スピーカーと思しき場所に視線を落とす人影を捉えている。
分かったのはそこまでで、その詳細な輪郭はぼやけて見えなかった。頭がフラフラして眼の筋肉に力が入らない。
「私です。小鳥さんから話は聞きました。近くの病院も休診日らしいって聞いて」
スピーカーごしに、毎日のように聞いている律子の声が聞こえてきた。
「律子? どうして……」
どうして来たんだ。どうして俺の住むマンションを知っているんだ。どっちを尋ねようとしたのか自分でも不明瞭だった。
モニターの向こうから、ノイズ混じりの溜息が聞こえる。
「どうしてって、様子を見に来たに決まってるじゃないですか」
「ま、待て……具合が良くなったとはいえ……お前だって病み上がり……ごほ」
喋っている途中に咳き込んでしまった。喉の奥がヒリつく。
「一人暮らしで体調崩して参ってるんでしょ? 開けてくださいよ」
不安そうな声に胸の内を言い当てられて、動悸がテンポを上げた。律子が来たと頭が認識すると、心細さのようなものが腹の底か
ら急に込み上げてきた。
「……そこにテンキーが見えるだろ?」
「はい、それと決定ボタンが右下の隅に」
「765って部屋の番号を入れて決定ボタン、0817……『おはいんなさい』と入れて決定ボタン」
「765、おはいんなさい……」
律子が復唱しながらカチカチとボタンを押す音が九回。帰宅の時にお馴染みの電子音が聞こえてきた。
向かいます、と一言、あとは上ってくるだけと理解した所で、インターホンから離れた。
リビングに入って目についたソファーにとりあえず座る。ずっと横になっていたからか、腰がズキズキする。
改めて時計を見直してみると、いつの間にか午後一時を過ぎていた。一睡もできなかったにも関わらず時間がそんなに経っていた
ことに少し驚く。
テーブルの上に放り出したままの電子体温計を手に取って脇の下に差し入れようと思った所に、別のインターホンとノックの音が
聞こえてきた。
「あ……玄関の鍵……」
力の入らない体をどうにか持ち上げて、よろよろと玄関に戻って鍵を開け、ドアを押す。黒い壁の向こうから差し込んでくる陽光
を背に受けながら、白いビニール袋をぶら下げて立っている律子の姿があった。
来てしまった。しかし、来て嬉しかった。
「……どうですか? 調子は」
玄関で立ち話をする気には到底なれないので、律子を部屋に上げることにした。
入ってくるなり律子はきょろきょろと辺りを見回し、台所を見つけてそっちへ歩いていった。ガサガサと、ビニール袋特有の音。
「良くはないな」
笑ってみようと思っても口元が釣りあがらなかった。
どれどれ、と言いながら律子がつかつかと歩み寄ってきて、俺の額に手を当て、その掌を下ろして首筋に這わせた。
律子の手は、冷たい水から上がったばかりのようにひんやりしていた。
「かなり熱いですね……私の手、冷たいでしょう? 体温は測りました?」
「いま測ってる所だ。朝は39.5℃だったな……ごほ、ごほっ」
喋り終えると、また咳が出た。小さい手が背中をさすってくれる。
体温計が計測終了の合図を出し、脇から抜いてみると、俺が見る前に律子がそれを手に取った。
「39.3℃……か。下がっているとは言えないわね」
溜息を吐いたのは同時だった。こめかみと目の奥がガンガンした。
「食事は? 一昨日辺りから食欲無かったですよね」
「……昨日の夕方から全然食べてないな。喉は渇くけど、お腹は空かないんだ」
「吐き気が無いんなら少々無理にでも食べておかなくっちゃ。雑炊か何か作りますよ。ひとまずこれを」
律子が何か冷たいものを俺に手渡した。アルミパックに緑色の文字。10秒チャージのキャッチコピーで有名なゼリーだったか。
このタイプはビタミン重視のものだったような気がする。時間が無い時には世話になったものだ。
「自分の体調管理もしっかりやってくださらないと困ります」などと厳しいお小言が飛んでくるものと思って頭の中で身構えてい
たが、律子の口からきつい言葉が出てくることは無かった。
律子がガシャガシャ袋を鳴らしながらキッチンへ歩いていき、水の流れる音と、冷蔵庫を開け閉めする音がした。カラカラと小石
のぶつかり合うような音も聞こえた。
思い出したように白いプラスチックのキャップを開けて、中身のゼリーをズルズル啜る。確かこのタイプはグレープフルーツ味だ
ったはずだが、舌からは苦味のようなものしか伝わってこなくて、味がよく分からなかった。
「これ頭に敷いてベッドで横になっててください」
キッチンから出てきた律子にレンガ色のずっしりした氷枕を手渡された。ぶよぶよしたゴムの感触の下に、角ばった固い氷がある
のが分かる。そういえば、あったはずなのに全く使っていなかった。
「あとこれ」と付け足すように、額に冷却シートを貼り付けられた。氷を地肌に当てたかのように冷たくて、目蓋の裏側がきいん
とした。数秒すると視界が少しクリアになったような気がした。
「ほら、ボーッとしてないで。横になった方が楽ですから」
「あ……あぁ」
受け取った枕を抱きかかえてソファーでぼんやりしていると、律子が俺の正面にしゃがみ込んだ。
いつもの落ち着きをその目に静かに佇ませているが、非難めいたシビアな尖りは一切見当たらなかった。
促されてベッドに戻って横になると、律子は部屋の中を興味ありげに見回して、上から俺の顔を覗き込んできた。ふわっと香って
きた石鹸の清潔な匂いにふと鼻腔をくすぐられたが、直後に自分の体の臭いを自覚させられた。
髪は寝癖がそのままでボサボサ、体は汗の臭いにまみれて服は生乾き、足取りも頼りなくフラフラ。かすれた声しか出すことが出
てこなくて、弛緩した体をだらしなくベッドに横たえている。
自分がとてもみじめで、汚らしい存在に思えた。
こんなボロボロの姿を見られるのがたまらなく恥ずかしくて、俺は律子の顔を見ることができなかった。
「……ごめん」
「……どうして謝るんですか?」
「汗臭いだろ、俺。昨日からシャワーも浴びてない……律子だって女の子だし、こういうの嫌じゃないのか」
「気にしませんよ、そんなの」
卑屈になる俺に、サラリと律子はそう言ってのけた。
「でも……こんな情けない姿──」
「プロデューサー、今、辛いでしょ? どうにかして楽になりたいでしょ?」
「それは……そうだけど」
「私も風邪を引いた時は同じだったから、よく分かるの。私も母さんに面倒見てもらったから。今は他のこと考えないで」
温かく落ち着いた口調だった。慈愛に満ちた抱擁のような優しい声に耳を撫でられ、律子に甘えたい欲求が滲み出てくる。
しかし、それと同時に頭に浮かんだことがあった。
こんな姿を見られたら失望されるんじゃないか、信頼を失ってしまうんじゃないか──俺は、威厳を失うことを恐れていた。
律子の前で威厳なんて、元々そんなもの無いも同然なのに。自嘲しそうになったが、やっぱり笑うことができなかった。諦めたよ
うな気分で、外していた視線を律子に戻す。
「……こういう風に弱ってる姿を人に見られたく無い。分かりますよ、その気持ち。カッコ悪いって思いますよね。けど」
「…………」
「プロデューサーがカッコ悪いのなんて今に始まったことじゃないって思いますよ、私は」
俺の考えていることを読み取ろうとしているのか、固さは無くも真面目な顔で律子はじっと俺を見つめている。
「それでも私、あなたのこと信頼してるんだから。私の前では……ね?」
──遠慮しないで欲しい。見栄を張らないで欲しい。ウソをつかないで欲しい。いつだって本音でいて欲しい。
音では聞こえなかったが、律子の眼差しや柔らかい微笑みから、そう言っているのが感じ取れた。
氷を触った時の冷気がまだ残る手が俺の頬を撫でてきて、顔の中心部から涙が込み上げてきた。じわじわと外へ競りだしていこう
とするそれを、俺は抑えられなかった。
律子が傍にいてくれるのは嬉しいといえば嬉しい。しかし……
──少しだけ一人きりにさせて欲しい
口に出さなければ伝わるわけが無いだろうと思いつつも俺が涙目で訴えかけてみると、律子の瞳がレンズの奥で微かに揺れた。
律子は黙ったまま頷くと、俺の眼元をハンカチで拭ってから立ち上がった。
以心伝心。言葉を口に出さなくても通じ合えたことに、感動のようなものを覚えた。
「ちょっと材料が足りないみたいなんで、買い物に行って来ますね」
俺が涙を流したことに、律子は何も言わなかった。何も言わないことが、ありがたかった。
「じゃ、後で……」と背を向けようとする律子に「待った」と声をかけて呼び止める。
「なんです?」
「玄関の棚の、上から二番目の引き出しにスペアキーが入ってるから……使ってくれ」
「スペアキー……分かりました。戸締りはしっかりやっておきますから」
本当は、さっきのように玄関口まで出て行ってインターホンの呼び出しに応じたりドアの鍵を開けたりするのが面倒なのだが。
「なるべく早く戻ってきます」
「あぁ、行ってらっしゃい。……気をつけてな、ごほっ」
「…………」
腕が上がらなかったので肘だけ立てて手を振ろうとすると、半身になっていた律子が振り向いて俺に迫り、ぶらりと垂れ下がった
手首を起こして、指を絡めてきた。
何のつもりだろうと俺が認識する前に、冷気をまとった手はパッと離れていって、黙って律子は背を向けた。
寝床を立ち去っていく律子の背中を見送りながら、俺はなぜか昔のことを思い出していた。中学生ぐらいの頃だっただろうか、ひ
どい高熱を出して一週間近く寝込んだ時も同じことをされた記憶がある。
そうだ、あれは母さんだった。
似ても似つかないはずの、そもそも俺よりも年下の律子の中に母親を微かに感じて、顔の赤らむ思いがした。
だが、恥ずかしい気持ちも束の間。あれほど遠ざかっていた睡魔があっという間に覆いかぶさってきた。一人でこっそりと涙を流
すつもりだった俺の思惑など関係無しに、あっさりと彼は意識を奪い去っていった。
圧迫されるような頭痛が少しだけ緩んでいて、俺は寝起き特有の心地よいまどろみの中でとろとろしていた。
明るかった窓の外は薄暗くなっていて、夕方になっているらしいことを感じさせた。
寒気は消えていた。
耳を澄ませてみると、遠くから包丁の音が聞こえてくる。醤油の匂いがふわっと漂ってきて急に空腹感を感じ、胃が叫び声をあげ
た。包み込むような香りに吸い寄せられるように体を起こし、頭を引っ張られるような重さを感じながらドアを開く。
少し休んだからなのか、倦怠感は依然としてあるものの、体はさっきよりも軽くなっているように感じられた。
リビングに入ると一層匂いが強くなった。遠目にキッチンを見ると、律子がそこに立っている。自分以外は誰も使ったことが無い
キッチンに女の子が立っている光景は、俺を不思議な気分にさせた。
「あ、起きました?」
俺の姿を目に留めると、エプロンをかけた律子がこちらに歩み寄ってくる。さっきのやりとりを思い出して、まだ重たい頭が熱く
なった。
下から手が伸びてきて、俺の首にぴたりと触れた。しっとり濡れていた手はひんやりしていて、実に気持ちよかった。
「熱はさっきより下がったみたいね、うんうん」
軽く感じる体の感覚を俺にもっと自覚させるかのように律子は言った。まだ頭が痛いが、さっきのようなこめかみを圧迫されるよ
うな痛みではなく、ジンジンとした疼きのようなものだった。
そろそろ体を綺麗にしたい。でもシャワーを浴びるのはまだ良くないかもしれない。そう思っていると、さっとキッチンに引っ込
んだ律子が濡れタオルを用意して俺に手渡した。お湯で濡らしたのか、タオルは温かかった。
「着替えたそうな顔してたから。ふふっ」
「あ……ありがとう」
律子の洞察力に舌を巻く思いだった。
寝床へ引き返し、汗で湿っていた服を脱いで、濡れたタオルで体をサッと拭いた。ベトついたものが削げ落ちていくようで、晴れ
晴れとした爽快感すら感じる。
下を着替え終わった所でTシャツを肩に引っ掛け、洗濯機へ向かおうと思い、立ち上がってリビングへのドアを開く。
「きゃっ」
俺の姿を見た律子が小さな悲鳴をあげて顔を背けた。
「ん、どうした?」
「う、上が裸じゃない! 早く着て下さいよ!」
「あぁ……すまん」
白のTシャツを手早く着ると、「もういいよ」と律子に合図を送る。男の裸なんて別にどうでもいいもののように思うが女性から
見るとそういうわけでもないのか、律子は顔を赤らめていた。
恥ずかしがる律子を横目に洗濯機に服を入れ、ついでに洗面所で額のシートをはがして顔を洗うと、頭の中がクリアになった。
これなら明日は仕事ができそうだ、などと考えていると、こもった鳴き声が再び腹から聞こえた。
「律子……何か食べたい」
「食欲出てきたんですね。いいですよ」
キッチンで何やら料理をしている律子に尋ねると、笑いながら二つ返事で鍋から雑炊をよそってくれた。
自分で用意していないのに料理ができている……実家にいた頃は当たり前だったそんなことが嬉しくて、胸がジンとした。
「それ、何作ってるんだ?」
「あぁ、ちょっと煮物とか作ってタッパーに入れておこうと思って。明日にでも食べられたら食べてくださいよ」
足元に、もう一つビニール袋が置いてあり、人参の橙色が透けて見えている。
冷蔵庫を開けてみると、ラップに覆われた器が既に幾つも入っていた。俺が眠っている間に作ってくれていたのだろう。茹でたブ
ロッコリーや、ほうれん草のおひたしに、蒸した鳥のササミなんかもあった。こってりしたものは入っておらず、病み上がりには丁
度良さそうだ。スカスカだった冷蔵庫が随分賑やかだった。今作っている煮物もこの仲間入りをするのだろう。
律子は案外いいお嫁さんになるのかもしれない。
よそってもらった器を持ってリビングのテーブルで食べ始めようとした所に、律子も同じ器を持ってやってきた。
雑炊は出汁がほどよく効いていて、つるつる滑るような卵の食感が嬉しかった。
昨日の夕方からだから、何も食べていなかったのは実質丸一日だけ。さっきゼリーを飲んだが、随分長い間食事を摂っていなかっ
たかのような気がして、一口食べる度に体の隅々まで熱く染み渡るようだった。
「美味しい」と言おうと思ったが、律子が俺の方を見て満足そうに微笑んでいるのを見ると、口に出す必要を感じなかった。
夕食が済んで風邪薬を飲んでから、座布団にあぐらをかき、胃に心地良い重さを感じながら俺は夕刊に目を通していた。律子は、
ソファーに腰を下ろして俺の本棚から取り出した漫画を黙々と読んでいる。その脇に読み終えた漫画が十冊近く、小山を形成してい
る。律子の好きそうなビジネス本なんかも置いてあるのだが、どうもそっちより漫画に目を引かれたらしい。
お互いの間に会話は無く、新聞のガサガサした音と漫画のページをめくる皮膚と紙の擦れる音が時々部屋の中に立つだけ。
部屋の中が静かなのは自分一人でくつろいでいる時と全く同じ。しかし、そこに律子の気配があることで、部屋の雰囲気は随分と
違った。
言葉のやりとりは無く、時々ちらりと目を合わせるだけ。気まずいとも取れる状況なのに、居心地はとても良かった。
やがて薬の効果も現れてくれたようで、俺の体温は38℃を下回ってくれた。
「……微熱まで下がってくれたか」
まだ肩や腰に痛みはあるものの、あの激しい頭痛が消え去ってくれたのは助かる。
「ピークは過ぎたんじゃないですか? 喉が痛いって言ってたから、まだもう少しかかりそうですけど」
独り言をきっかけに律子が反応を返してくれて、閑としていた部屋の中に人の声が再び響く。
「明日、病院に行って薬を貰ってこようかな……えっと、明日の予定は……」
俺がスケジュール帳を探そうとする前に、律子の手にあった漫画本がいつの間にか手帳に変わっていた。
「私の仕事は午後からですね。アルバム用のレコーディングが入ってます。それとテレビ雑誌からのインタビュー」
「……ってことは、俺の午前中の予定は事務仕事だけかな」
「ええ。社長にも一応訊いておいたんですが、プロデューサーの方に特別な仕事は入ってないみたいですよ。新規のオファーも今
日の所は来てませんでした」
「そうか、ありがとう」
「午前中に病院行ってきちゃった方がいいんじゃない? 事務だったら代わりにやっておきますよ、私」
「病院には行くつもりだけど、さすがに仕事は自分でやるよ」
律子の片眉がぴくりと動き、視線が一瞬だけ疑いの色にうっすらと染まったが、すぐにすっと透き通った。
「……まぁ、何かあったら連絡よろしく、ってことで。熱も下がりそうだし、私、そろそろ帰りますね」
そう言って、律子はソファーの上に積み上げた漫画の山を切り崩して本棚へしまい始めた。
片付けぐらいやっとくから、と言う俺の言葉を他所に、律子は手早く漫画を整理し終えて、エディターズバッグを肩にかける。
忘れ物を確かめさせてから玄関まで一緒に歩いていくと、ただでさえ静かなリビングがより一層静まり返るのを背後に感じた。
赤いパンプスに足を通す律子の隣で、俺もなんとなくサンダルに爪先を突っ込むと、ここでいいですよ、と手で制止された。
「じゃ、冷蔵庫の中のもの、ちゃんと食べておいて下さいね。味は保証しませんけど……」
「なんていうか……こんなに色々と」
尽くしてくれた律子の親切心がただ嬉しくて、ムズ痒い気分だった。
「私一人じゃせいぜい自主練ぐらいしかできませんし、早い所復帰してもらわないと仕事に大きな支障が出ちゃいますからね。そ
れだけのことですよ。仕事のためなんですからね」
「や……」
やけに仕事を強調して、ふんと鼻から息を吐く律子に「やっぱり仕事のためだよな」と溜息混じりに言い掛けて、止めた。
口と言っていることと瞳から読み取れるメッセージがまるでちぐはぐで、「心配でいてもたってもいられなかった」と顔にくっき
りと書いてあるのが見えたから。
また少し、秋月律子という人間が理解できたような気がした。
「……優しいんだな、律子は。ありがとう」
「別に、そういうんじゃないです」
律子が横目で俺の方を見ていた視線を別の方向に外してしまった。つれない返事だが、お世辞だご機嫌取りだと言われない辺り、
素直に受け止めてくれた方だと思う。
「それじゃ、お疲れ様です」
「ああ。気をつけて帰れよ」
細い手がドアノブを回し、家の中で一番重い扉を押し開ける。マンションの通路に灯った電灯が薄暗い玄関に差し込んできた。
俺の部屋が、一人暮らしの部屋に戻る。束の間の、一人では手に入らない種の安らぎが終わる。
「……」
体の半分以上を外側に出しながら、律子がこちら側を振り向いた。
「ん、どうした? 何か忘れ物でも……」
「そんなに寂しそうな顔しないでくださいよ。後ろ髪引かれちゃうじゃないですか」
苦笑いを浮かべる律子の言葉にハッとして、思わず俺は表情を手で触って確かめるように顔をベタベタ撫で回した。
自分の表情なんて触って確かめるものじゃないのにそうした……動揺した証拠だった。
「あれ、冗談のつもりだったんですけど……もしかして本当に寂しいんですか?」
「そ、そんなことは…………少しな」
からかわれてなのか、それとも図星だったのか。本当に寂しい気がしてきてしまって、俺は否定しきれなかった。
とはいえ、今日はもう夜も遅いし、これ以上引き止めようという気なんてない。明日になれば律子には仕事で会うのだ。
「……本棚の漫画、結構面白かったです。普段は小説が多いんですけどこういうのもたまには。……途中までですけど」
律子が一瞬だけ、空中にぶらぶらさせていた視線をこちらに向けた。
漫才師が相方の突っ込みを待つ。今だ、このタイミングだ、早くしろ。打ち合わせ通りのリアクションをしろ、と匂わせる。
そんな鋭い視線がもう一度俺を突き刺し、急かした。
「ん……ああ、続きが気になるなら、いつか読みに来いよ」
自分でも分かるほどの棒読みだった。俺には演技力が無いと思った。
プロデューサーにも表現力レッスンが必要ですね、とでも言いたげな視線で、律子が溜息を誤魔化すように咳払いをした。
「じゃ、そういうわけで。今度こそ帰ります」
「ん、お疲れ様」
軽く手を振って、今度こそ律子はドアの向こうに姿を消していった。お大事に、と去り際に言い残して。
冷蔵庫のドアを開いて幾つも並んだタッパーを眺めてからベッドに戻ると、あっという間に眠気が大波のように押し寄せてきた。
明日は元気になれますように。そう心の中で呟いて、視界を真っ暗に塗りつぶした。
意識が眠りに落ちていく寸前、俺が律子と家庭を持っていて、同じ屋根の下で暮らす、そんな情景が頭に思い浮かんだ。
終わり
―後書き―
bond=絆。
口に出さなくても分かり合える関係を表現してみたかった作品。
以心伝心っていいなーと思います。