夜風を切って

 その日の夜も、風はひんやりとしていた。一日の仕事を終えて、事務所のドアを背に、息を吐く。
「もう三月も半ばなのに、まだ冬は終わらないんだな……」
 そんな独り言が、ほわんとした白い蒸気と一緒に出てきた。今から帰ったら何時かな、帰ったら何をしよう
かな、学校の宿題は終わってたっけ。ボクの学校でも三年生がいなくなったけど、一年生と二年生はまだ少し
授業が残っている。あまり思わしくなかった学期末試験の結果を思い出して、少し気分が翳った。赤点に引っ
かかったりしなかっただけ、まだマシか。
「おう真、どうした、こんな所で立ち尽くして」
 ぼんやりと考え事をしていると、背後から聞き慣れた声がした。
「あ、プロデューサー」
 スーツの上に黒いジャケットを羽織って、手にはグローブ、小脇にはヘルメット。バイクに乗る人なんだ。
初めて知った。そう言えば、そこそこ長いこと一緒に仕事してきたのに、プロデューサーが事務所から帰る所
を見ること自体、初めてな気がする。
「プロデューサーも、今から帰りですか?」
「今日は珍しく仕事がササッと片付いたんでな」
「バイクで来たんですか?」
 街頭の灯りを吸い込む漆黒のジャケットと、被っても顔の前面が露出しそうなヘルメットをちらりと見る。
「ああ……」
 プロデューサーの視線がボクの頭から爪先まで降りて、目元に戻ってきた。
「ダウンジャケットに、ジーンズ……靴はスニーカーか」
「な、なんですか?」
 品定めをするような目つきで見られて、ちょっとムッとした。どうせ、ボクの服装は女の子らしくない。
「後ろ、乗ってくか?」
「えっ? 後ろ?」
「バイクの後ろだよ。今日は時間もあるから、真を家まで送っていこうかな、と思ったんだが、どうだ?」
 バイクの、二人乗り。この間買った漫画雑誌の一コマが頭の中にふと浮かんだ。思いを寄せる先輩がバイク
の後ろに乗せてくれて、必死にしがみつく、高校生の女の子。
 ちょっと憧れていたシチュエーションだった。
「いいんですか?」
 ボクが尋ねると、プロデューサーは二つ返事で力強く頷いてくれた。
「ちょっと待ってな。メットとか取ってくるから、待っててくれ」
 そう言って、プロデューサーは元来たエレベーターの向こうへ小走りで駆けていった。


 数分後、彼はもう一つのヘルメットと、インカムのようなものを携えて戻ってきた。ヘルメットはさっき彼
が持っていたのと同じようなタイプで、色違いの紺。新しく持ってきた方は、傷の一つも無くピカピカと光っ
ていた。
「はい、真はこっちな」
 歩みを止めずに、プロデューサーがボクにヘルメットを手渡した。彼に遅れないようついていきながら頭に
被ってみると、思いの外ぴったりとフィットする感じだった。バイクのヘルメットと言えば頭全体をすっぽり
隠すフルフェイスの物ばかりだと思っていたので、視界が全く変わらないのに少しビックリだ。
 今まで立ち入ったことの無い駐車場には、銀色のパイプが巻きついた、闇夜に溶け込みそうな黒い車体のバ
イクが、主人の帰りを待つ忠犬のようにじっと佇んでいた。鈍く光るボディ。
 カッコいいな。一目見て始めに出てきた印象だった。
「こいつが俺の愛車だ。後ろに人を乗せやすい造りになってるから、多分快適だと思う」
 プロデューサーがバイクにまたがった。
「ああ、乗る前にこいつもつけてくれ」
「なんですか、このインカム」
 一旦被ってしまったヘルメットを外して、インカムを頭にセットして、マイクを下ろす。
「バイクに乗ってる時って風の音なんかが凄いんだ。だから、会話しようって時にはこうするんだ」
「……用意、いいんですね」
 もしかして、誰かを後ろに乗せたりとかって、結構頻繁にやってるのかな。
 誰が誘われたんだろう。それを考えると、胸がちくりと痛んだ。
「ああ、真が被ってるそれを買った時に付属品でついてきたんだ。外回りのついでに店に立ち寄って、メット
の色が好みでついつい買ったんだが、結局ロッカーに置きっぱなしにしたままでな。使う機会ができて良かっ
たよ」
 はっはっは、という軽い笑い声。落ち込む心にブレーキがかかった。
「さ、乗りな」
「はい」
 ポンポンとプロデューサーの手が叩く所へ、よっこらせと腰掛けた。
「腰を安定させたら、手を回してベルトの辺りを掴んでくれ」
「わ、分かりました」
 ジャケットの前面に手を伸ばして、胸の下辺りからゆっくりと手を下げる。プロデューサーにここまで近づ
いたこと、今まで無い。緊張した。
「よし、じゃあ行くぞ」
 その合図と共に、エンジンがかかった。
「うわっ!?」
 ドルン、という重くて低い音と、響き渡る振動。それに驚いて、思わず声をあげてしまった。その次を言う
間も無く、車体が前に進む。事務所の近くに並ぶ看板が、次々と頭上を通り過ぎていく。
「は、速く無いですか?」
 物凄くスピードを出しているように思えたが、プロデューサーはといえば
「まだまだ動き始めたばっかりだぞ。大丈夫だ、事故ったりなんてしないから」
 と、暢気な調子だった。
 自転車に乗っている時、自分が動くと感じられる風。その風が、自転車に乗っている時より何倍も強い勢い
で、顔に真正面から当たる。轟音が耳元で唸りをあげる。車に乗っている時とも違う、車道からダイレクトに
見える景色も、目に入らない。
「どうだ真、風が気持ちいいだろう」
 耳元へ直接聞こえる声にも、答えられなかった。しがみついた両手に力が篭る。90℃を保っていた背筋がど
んどん前のめりになって、ボクはプロデューサーの背中にべったりと頬をつけてしまっていた。


 ところが、恐怖が全身をじわじわと追い詰めてきて肘まで上って来た頃、ボクは指先に温かいものを感じた。
 体温? これは、きっと、プロデューサーの。
 押し付けた耳からは、ヘルメット越しに鼓動が聞こえる。もしかして、これも?
 触覚と聴覚から伝わってくる情報に、神経を集中させる。
 不思議と、冷たい恐怖がすぅっと退いていく。耳に聞こえる雑音が徐々にクリアになっていき、目が開いた。
体に伝わってくるエンジンの重たい振動が、心地良くなってきた。
「大人しくなってきたな、真」
「えっ?」
 その一言で、ボクは初めて、自分が取り乱して声をあげていたことを自覚した。
「す、すいません」
「気にするな。自分は何もしてないのに体が勝手に持っていかれるんだからな。そりゃ怖いだろうさ」
「でも、ちょっと慣れてきました」
 ひんやりした夜の空気を切り裂いて、ボクとプロデューサーの乗ったバイクは道路を駆け抜けていく。隣で
走る車、その助手席にいる女の人がタバコを吸っているのが見えた。左のワゴンでは、中年の運転手が作業着
の襟元をパタパタとやっている。
 前の信号が黄色に変わった。行っちゃえ、プロデューサー。グン、と体にかかる圧力が増す。通り過ぎた後
ろをちらりと見たら、そこにはもう行列ができていた。
「真のお父さんは、レーサーだったよな」
「はい、父さんの場合は、クルマですけど」
 広い肩越しに、通り過ぎていくビルを眺めつつ、答えた。
「真も結構好きなんじゃないか? 車とかさ」
「いえ、別にそういうのはボク、全然です。でも……」
 息継ぎをすると、風に乗ってプロデューサーの匂いが鼻腔を走り抜けた。こんな密着状態、ドキドキする。
ボクの鼓動は、彼に聞かれてないだろうか。
「こうしてるのは、楽しいです」
「ははっ、そうかそうか。真には似合うと思うぞ、バイク。スクーターじゃなくて、こういう単車な」
「それって、男っぽいってことですか?」
「そうじゃないさ。いいじゃないか、女の子が単車に乗ったって。俺は結構好きだぞ、そういうの」
「ホ、ホントですか?」
 好き、と言う言葉に反応して、咄嗟に頭の中でボクがバイクに乗っている図を思い浮かべた。プロデューサ
ーが着ているようなジャケットに身を包んで、夜の闇と同じ色になって、風を切り裂いて走り抜けていく。
 悪くないかもしれない。たとえ、男っぽく見えたとしても。
「もし真が単車の免許取ったらさ、ツーリングに行ったりするのも楽しいかもな」
「そうですね……でも」
「でも、何だ?」
「ボクがバイクに乗れるようになったら、こんな風に後ろに乗れなくなっちゃいますよ」
「はははっ、それもそうだな」
 抜けるようなプロデューサーの笑い声が、ヘルメットの中に響いた。


 通り過ぎていく信号の数を数えていたら、あっという間にバイクはボクの家のすぐ近くまで辿り着いてしま
った。楽しい時間はすぐに過ぎていくもの、とはよく聞くけれど、体感的にはものの数分間程度だったように
思えた。実際には、三十分以上経っていたのだけれど。
「よし、この辺りだったよな、確か」
 風が止んで、ボクの体にはアイドリングの振動だけが伝わってくる。そうだ、降りないと。
 どうせバレないだろうと思って、ベルトを掴んでいた手を胴体に回して、ちょっとだけ抱きついた。たくま
しい体。ずっとしがみついていたいぐらい。
「真?」
「ああ、すいません、ちょっと足元が」
 適当な言い訳でお茶を濁しながら、地面に足を下ろす。足の裏から伝わってくる感覚がなんだかおかしくて、
ほんの少しふらついた。
「ありがとうございました。最初は怖かったけど、楽しかったです」
 ヘルメットとインカムをするっと外すと、夜の冷たい空気がシャキッとボクの意識を引き締めた。
「俺も楽しかったよ。会話があると、一人で乗ってる時と全然違うな」
 ボクの手からヘルメットとインカムを受け取りながら、プロデューサーが笑った。
「じゃあ、家はすぐ近くだと思うけど、気をつけてな」
「はい、プロデューサーもお気をつけて」
「お休み、真」
「お休みなさい」
 エンジンの音が大きくなった。みるみる内に、後ろ姿が小さくなっていく。
 バイクの音が聞こえなくなるまで振っていた手を下ろすと、顔がカッと熱くなった。嬉しかったけど、あん
なに思い切りしがみついてしまったことが、今ではちょっと恥ずかしい。
 それでも一歩足を進めると、また乗せてもらいたいな、という気持ちが、胸の内に込み上げてくるのだった。
 あの後部座席が、ボクの指定席でありますように。

 終わり



―後書き―

「バイクってカッコいいよね」とかいきなり思いついて書き始めたSSでした。
アメリカの荒野を走ってそうな感じの、ハーレーデビットソンとかあっち系の、エンジン音が凄そうなタイプ。
黒いライダースジャケットに、ヘルメットはジェットタイプで首都高を気持ちよくぶっ飛ばす!
みたいのを書こうとしてたんですが、首都高の一部は二人乗り禁止らしいんで避けておきました。
二輪の免許なんぞ持っていませんが、ちょっぴり憧れます、オートバイ。