ある夏の昼下がり。空調の効いた室内は涼しいが、窓の外から大雨のような蝉の声がガラスをビシビシ叩き続けている。
こんな日は建物の中にいるに限る…が、あと数時間したら一時的にとはいえ、うだるような熱気の中に出て行かなければなら
ない。
若干憂鬱な気分だった。
「プロデューサーさん、おはようなの」
冷気を失った缶コーヒーを掴んでグッと流し込むと、視界の中に見慣れた姿があった。
ヒヨコの羽毛を思わせるような、柔らかい黄金色の髪に、存在感と深みのある翡翠の瞳。
筋の通った鼻に、ぽってりした唇の端を僅かに釣り上げて、無邪気な笑みを浮かべている。
立っているだけでも強烈な存在感を放つその少女は、『若きビジュアルクイーン』の二つ名で一躍時の人となった、星井美希。
「おはよう美希。外は暑いだろ」
俺が立ち上がると、下向きだった目線が上向きになった。上から見下ろす美希の表情は、心なしか幼く見える。
「…暑すぎてでろでろに溶けそう。眠くもならないの……あ、やっぱ眠い……あふぅ」
呑気にあくびなどしているが、美希は誰もが憧れるスーパースターの一人だ。
世の男性を惹きつけてやまない年齢不相応なスタイルに、美を追求することに関しては右に出る者のない才能を持っている。
キュートからクールまで、豊かに演じあげるその表現力は天下一品だが、仕事の無い場面ではこんなものだ。
とことんまでマイペースで、信じ難いほどに物を知らない。世間知らずという言葉ですら当てはまるかどうか。
「あくびが出るぐらいなら大丈夫だな。じゃ、ミーティングするから会議室行くぞ」
「はーい……あふぅ」
そんな美希と俺が手を組んでアイドル活動を初めてから、一年以上経った。
アイドルとしての自覚も無く、仕事へのやる気がまるで無かったデビュー当時を思えば、よくここまで来たものだ。
どんなに流そうとしても流されない所は相変わらずだが、仕事にも随分熱心になってくれた。根っこは真面目で素直なのだ。
人気が上がってくるにつれ、ただ俺の指示に従うばかりでなく、自ら色々なアイデアを出してくれるようにもなった。
突拍子も無いような的外れの発想もあるものの、活路を見出せない俺を導くように道を切り開いてくれることも多い。
トップアイドルになっても移動中などは寝てばかりだが、やるべき所でビシッと決めてくれるので、いつしか俺もあれこれ
言わなくなった。
今では、生放送やライブの本番前ですらあくびをするその余裕に、頼もしさすら感じている。
フロアの角にある会議室の鍵を開け、先に美希を入れてから、後ろ手に鍵を閉めた。
十数人で会議ができる広さの長机の端っこに、雨宿りの場所を借りるかのように美希と腰掛ける。
「さて、じゃあミーティングを始めるとしようか」
俺がノートを取り出してボールペンをノックすると、それに呼応して、のそのそと美希も手帳とペンを取り出した。
緊張感は見られないが、どことなくぼんやりしながらも目はこちらに注意が向いている。
美希なりの仕事モードになっているようなので、このまま続けても問題は無いだろう。
「写真集の撮影を行おうと思ってるんだけど、美希からの希望を聞きたい。アングルとかロケーションとか」
撮影、と聞いて美希の表情が変わり、自信と期待に満ちた挑戦的な目つきで身を乗り出してきた。
「活動的なカンジがいいって思うな。場所とかは……」
一言言うと、矢継ぎ早に、あれがしたい、これがしたい、と、具体的な構想を交えながら熱心に美希は話し続けた。
美希があれこれ頭を働かせて、真面目な顔で俺と仕事のことを話し合う。俺の好きな時間だ。
特定の仕事に限定されるのが惜しいが、美希が何かに一生懸命になっている姿には、ステージの上に立っている時とは違った
輝きがある。
30分ほど話し込んで、大方のプランはまとまった。まだ具体的な計画も決まっていないので、今日はここまでだ。
「よし、じゃあミーティングはここまでにしよう。3時ぐらいに雑誌の人が取材に来るから、それまでは待機だな」
さて、今日の取材はどんな事を訊かれるやら、と考えながら頭を上げると、目の前にくりっとした瞳が二つ。
「まだ時間、あるよね」
そう言って歯を見せて笑い、美希は椅子を持ってきて俺の隣に座る。温かみのあるシャンプーの匂いがふわっと漂ってきた。
隙間を詰めるようにして椅子を更に寄せると、そのまま俺の方に寄りかかってきた。
半袖のYシャツ越しに体温が伝わってきて、柔らかな肌の重みを感じる。
「お、おい、そんなにくっつくなって」
跳ね除けこそしないが、口で軽く抗議すると、離れるどころか腕まで絡めてきて、左手を握られた。
指まで絡める、いわゆる恋人繋ぎという奴だ。髪の毛が頬に当たってくすぐったい。
女の子の匂いがこんなに近くにあるのは男として嬉しくないでもないが、嬉しいよりも恥ずかしいが先に立つ。
「いいじゃんいいじゃん。トモダチだったら普通だよ、これぐらい」
ああまた出た、と思わず小さな溜め息をついた。
今でこそ芸能活動を継続してやっているが、一旦俺と美希とのユニットは解散が決まっていたのだ。
その最後の仕上げに催したコンサートの後、俺が美希のプロデュースを続けないなら引退する、とまで美希は涙を見せた。
俺自身ユニットの解散には納得がいっていなかったが、その数週間後に社長から活動再開の指示が飛んできた。
ファンと芸能界の動向を読んで、とのことだったが、美希に後で訊いてみたら、社長の前で大泣きして猛抗議していたらしい。
女の涙を出されたら、黙って降伏するのみだ、と社長がぼそっと呟いた言葉に俺も大きく頷いたものだ。
とにかく、そうして俺と美希とのユニットは活動を継続していくことになったのだが、俺達の関係はこれまでと少し違ったも
のとなった。
仕事のことと関係なく頻繁にメールや電話のやり取りをするようになったし、プライベートでもちょくちょく会うようになった。
本人は「友達」と言い張るが、いくら今時のティーネイジャーでも異性同士でこんなにベタベタするのは友達の領域を超えている。
今ほどの人気になる前でも腕を組んできたりしたことはあったが、その当時は子供っぽく甘えてくる印象の方が強かったよう
な気がする。
「ねぇプロデューサーさん。次のお休みっていつ取れそうなの?」
美希が手を離して立ち上がり、椅子に座ったままの俺に背中側からのしかかってきた。
肩に二つ、年齢に不釣合いなサイズの凶悪な柔らかいモノが当たっている。
「そうだなぁ、中々仕事が忙しいから、今週中には無理だろうなぁ…って、こら美希、当たってるぞ」
「知ってるよ。ワザと当ててるの」
「あ、当てたって休みは出ないぞ…」
「むー、彼氏がイチコロだったって友達が言ってたのに……プロデューサーさん、中々落ちないの」
「落ちるとか落ちないとかそういうんじゃなくてだな……そもそも『落とす』だなんてどこで覚えてきたんだ」
「ナイショ。……まぁ、いいの。時間かけてゆっくりと、ミキに夢中にさせてやるの」
大きな肉まんが二つ。開き直りながら、美希は更に体をグリグリと押し付けてくる。
(そういうのは口に出したらあまり意味が無いような気がするんだがなぁ……)
こんなことをされて今まで幾度と無く理性をガクガクに揺さぶられてきたが、そう簡単に落ちてやるわけにもいかない。
「プロデューサーさんと遊びたいのになー……でもしょうがないか。プロデューサーさん、ミキよりずっと頑張ってるんだもんね」
美希が首に回してきた腕が、優しく俺を締め付けてきた。
俺のオフは、美希のオフでもある。俺だけ休みで美希だけ仕事があるなどということは無いのだ。
プロデューサー側の事情も考えてくれるようになった辺り、美希も少し大人になったのだと思う。
美希から出てくる要求は挙げればキリが無いものの、度の過ぎたワガママはあまり言わなくなった。
「悪いな、でも、俺が忙しいっていうのは、それだけ美希が成功してるってことだから。ほら、おいで」
一通りの重要事項のチェックが終わった所で、正面に回ってくるよう美希に促した。
「えっ、いいの? やったぁ!」
予想外だったという風で、飛び上がらんばかりに喜ぶ美希が正面に回ってきて、俺のヒザの上に横向きに座る。
そう大きくない椅子から落ちないように彼女の背中を支えてやると、美希の方も首に腕を巻きつけてしがみついてきた。
美希から持たれているのが単なる信頼以上のものだというのは、熱い視線や頻繁なボディタッチからなんとなく感じている。
打算だらけの世界の中に生きている俺にとって、その素直で無垢な好意は砂漠のオアシスのようなものだ。
単純に美希が可愛くてスタイルがいいから、という理由だけでなくて、俺も美希に惹かれているのは確かだった。
「あはっ、珍しいね、プロデューサーさんから言ってくれるなんて」
「ま、最近頑張ってるしな、ご褒美だ」
こんなことを言うのは、照れ隠しのつもりでしかない。
お互い休みが取れた日には二人一緒にプライベートを過ごすことが多いが、何しろ星井美希は超が頭に付く有名人だ。
学校でも仕事先でも愛の告白を受けるのが日常茶飯事で、街を歩いていれば当たり前のように声をかけられる。
ただでさえ人目を引きつける美貌を持ち合わせているのに、場にいるのが星井美希本人となれば誰もが黙っていない。
変装もせずに街を一緒に歩くのはスキャンダルのネタを提供しているようなものだ。美希の人気に傷が付くのは避けたい。
そして何より、美希はアイドルで、俺はその担当プロデューサーだ。
普段からの忙しさもあって、二人の時間を楽しめるのは、こういった仕事の合間に会議室や楽屋で…といったものになる。
一緒に出かけたりもするが、デートスポットのような場所には行かないことが多い、というより行けないといった方が正しい。
俺の方から関係を確定させる一言を口にするのは避けているが、美希の方も何となく感じ取っているのか、お互い愛の言葉を
囁くことは無い。
単純に、美希の体験してきた恋愛が相手からの一方的な告白という形でしかなかったためか、彼女自身気持ちの伝え方が分か
っていないのかもしれない。
それでも、言葉ではなく態度や仕草で分かるのは、自分に正直な彼女の性格ゆえだろうか。
事実上恋人同士のようなものなのだろうが、友達以上の微妙な距離感は、これはこれで心地良い。
「ねぇねぇ……ちゅーしてもいい?」
瞳を潤ませてそんなことを言う美希の顔は鼻同士の触れ合いそうな程近くにあって、吐息がかかる。
子供っぽい無邪気な笑顔を見せていることが多かったが、潤んだ瞳を細めたり頬を桜色に染めてみたり『オトナ』の表情をす
ることも覚えたらしい。
「ダメ」
「えー、なんで」
誰もが振り向くほどのルックスを持つ女の子に「キスしていいか」と訊かれて嫌がる理由は無いし、むしろしたいぐらいだ。
が、眉をひそめてふくれっつらになるのが面白くて、いつも最初はにべも無く断ってしまう。
勿論、ここまで距離を詰めている以上、本気で嫌がっているわけでないのは、美希も分かっているようだ。
「いいじゃん、減るもんじゃないんだし」
ほっぺをフグみたいに膨らませながら、美希は抗議の視線をぶつけてくる。
本当にしたいなら強引にでもしてしまえばいいものを、それをするのはさすがに恥ずかしいのだろうか。
「したいか?」
硬そうな見た目に反して柔らかい髪の毛や、餅のように柔らかい頬を撫でながら尋ねた。
「したいに決まってるじゃん」
拗ねたような美希の口調。少し機嫌を損ねてしまったかな?
さて、どうしようか。このまま流されてもいいのだが、それではちょっと面白くない。
「じゃあ、この後の取材で好印象だったら、な」
既に地位を確立してしまっている美希が、好印象にならない方が難しい。
仕事をダシに使うのは汚い気がするし、賭けというにもあまりに結果が分かりすぎているが、
「ホント!? じゃあミキ、お仕事頑張っちゃうよっ」
と、こんなことで目をキラキラさせてやる気を出す美希が微笑ましい。
昔の美希だったら、食べ物にしか釣られなかっただろうに。
「それなら……後でのお楽しみにしとこっと」
浮き立った口調でそう言うと、美希は自ら腕をほどいて、俺のヒザの上から降りて自分の椅子に戻った。
手鏡を取り出して前髪をいじりながら、上から引っ張られているかのように口角を上げてにやけている。
手帳も出して、ページを一枚破って何やらサラサラとやっている。
書き始めたと思ったらものの数秒も経たない内にペンを置き、ただでさえ小型の紙を折りたたみ始めた。
何をするのかと思っていると、美希が席を立った。
「ジュース買いに行ってくるね」
それだけ言って、俺のシャツの胸ポケットに紙をねじ込み、逃げるように小走りで会議室を出て行った。
できればコーヒーも買ってきてくれ、と言おうとしたのは、ドアが閉まった後だった。
「やれやれ、よく分からん奴だな……ん」
胸ポケットに突っ込まれた紙を開いて見ると、そこには『大好き!』と、スペースをギリギリまで使った殴り書きの字が押し
込められていた。
お茶目なことをするな、と、俺も単純明快なラブレターに笑みがこぼれた。
終わり
―後書き―
美希は表ルートのゆとりの方が若干好き。裏も裏でいいけど。