楽屋の壁ごしに、何千人という数え方では到底間に合わない数の人のざわつきが聞えて来る。
それほど薄いわけでも無いコンクリート越しの壁でこれだ。きっとステージに上がったらこんな比では無い。
ステージに上がって、歌って踊る。それだけの事をこうまで恐れるようになったのは、いつからだっただろうか。
頼りなかった新米プロデューサーと駆け上がってきて、随分経った。
雑誌の片隅にしか居場所の無かったあの頃とは違う。
私、秋月律子は紛うことなきスターの仲間入りを果たしていた。
新曲の広告で街中に大きな看板を立てられるぐらい。
お茶の間の視線の最も集中するゴールデン枠にレギュラー番組を持てるぐらい。
そして、最大10万人の観客が集まる事ができる巨大なドームをライブ会場にできるぐらい。
「直前の打ち合わせに行って来る」
と言って、プロデューサーが楽屋を出てからどれぐらい経っただろう。
壁の時計を確認してみると、3分しか経っていない。ライブ開始の時刻までは、あと40分もある。
脚はガクガクと震えて、体重を支えることもままならない。心臓は肋骨を砕いて破裂しそうな程に大きく激しく脈動している。
喉の奥は乾くというレベルを通り越して干上がりそうで、息苦しさに呼吸すらも忘れていた。
掌から吹き出る汗で、ハンドタオルが湿り気を帯び始めている。ステージ用に付けたエクステの髪がずっしりと重い。
なんたるザマ。たったの3分で、私はこんなにも磨り減っている。
ライブハウスやテーマパーク、市民ホールなどでライブを行った時は、こうではなかった。
緊張するプロデューサーを横目に私は涼しい顔でプログラムなど眺めて、ステージに上がるまでに退屈すら感じていた。
何のことは無い。事前の準備は完璧にこなしたし、進行も頭に入っているし、客からの反応もシミュレーション済み。
一歩一歩大股で歩いて楽屋を後にしていた頃の私はどこに行った。
今ここにいるのは、緊張感に押し潰されて机に突っ伏している、デビューしたてのアイドルにすら笑われそうな私。
「うぅ、深呼吸、深呼吸……」
意識的に、不必要に、全身を使って大きく息を吸い、肺の中が空になるまで息を吐き出す。
余裕を持って歩いていた坂道は、何時の間にかしがみ付いている事がやっとな程の急斜面となっていた。
万単位で人を動員するようなイベントを開くようになって以来、私は蚤の心臓だ。
「やれる、私はできる。歌詞も振り付けも完璧。リハでもミスは無かったっ。私は完璧っ」
誰にも伝わらないような早口で事実をまくしたて、念仏のように自分に言い聞かせる。
しかし、底の抜けた麻袋に水を注ぎ込むかのように、言った先から言葉は床の上にボトボトと落ちてしまう。
無理だ。前回の2倍の観客数なんて前にしたら圧倒されて気道が塞がってしまう。
もし何かミスでもして観客からブーイングが飛んでこようものなら、私はその場で気を失ってしまうだろう。
もうだいぶ高みへ上り詰めてきた。この高さは、高層ビルの頂上だ。
つまり、落ちたらそこで全てが終わり。
また時計を見る。さっき確認した時刻から、僅かに2分。一人っきりの楽屋は誰もいない体育館のように広く感じた。
なんだか、見知らぬ地に置き去りにされてしまったようだった。
「早く帰ってきてよ……」
楽屋の机につっぷしたまま口から漏れ出た言葉が音になって耳に入る。
首を持ち上げて横向きの世界を縦向きにして、ドアの方を見つめる。
ここに帰って来る相手なんて一人しかいない。ついさっき、たったの5分前にここを出て行ったプロデューサーだけ。
そう、デビュー当時は私に引っ張られていたはずなのに、今では私を引っ張るプロデューサー。
早く打ち合わせから戻ってきて欲しい。本番前にもう一度言葉のやりとりをしたい。『大丈夫』と彼の口から聞きたい。
安心させて欲しい、自信を与えて欲しい、励まして欲しい、背中を押して欲しい。
なんでもいいから、この空間を共有したい。一人でいるのは嫌だった。
「……弱くなったな、私」
どうにかこうにか頭の中を言語化してみようとすると、こんなにも自分がプロデューサーに依存している事に気づく。
弱くなったんじゃなくて、ハリボテの劣化。初めから弱かったのを誤魔化せなくなってきているだけ。
心がカラカラに乾く。
目に付いた飲みかけのペットボトルを、中身も確かめずに開いて流し込んでも、味が分からないし乾きも癒せない。
空になったボトルのラベルを見て、それがプロデューサーの持ってきたお茶だと言う事に気が付いた。
自分の持ってきたミネラルウォーターは、まだたぷたぷと余裕たっぷりに机の上に佇んでいる。
「あ」
私のじゃなかった。間抜けな音が声帯から押し出したように出てきて、顔が熱くなった。
追い討ちをかけるように『かんせつ』と言いかけて慌てて言葉を飲み込む彼と、ムキになってつっかかる私が脳裏に浮かぶ。
彼の顔、骨格のはっきり見える顎のすぐ上にある唇が近付いてくる様を連想してしまい、慌てて変な想像を打ち払った。
急に色の戻った視界の端にゴミ箱が見えていて、ゴミ箱だと認識したはずなのに、自分のバッグの中に空のペットボトルを押
し込む。
数秒置いて、再利用をするつもりでもあるまいし、と再び中から取り出してゴミ箱へ。
「ふう、打ち合わせ終わったぞ」
そこへ楽屋のドアが何の前触れも無く開いて、聞きなれた声。
所有権の移ってしまった150円のペットボトルは、ゴミ箱へは吸い込まれず、私のバッグの中に戻ってきた。
「会場見てきたか?超満員だ!」
遠足の日の朝のようにはしゃいだ調子で声を上ずらせるプロデューサーを見て、現実が再びのしかかった。
「ま、満員…ですか…」
全身から急激に力が抜けて、頭に鉛を埋め込まれたかのようにズンと重たくなる。
重力や空気の圧力や、楽屋の匂いや口の中にまだ残る緑茶の苦味までもが、私を押し潰そうと一斉にかかってきた。
胃が握りつぶされたように苦しくなり、鼓動は急速に高まるのに手足の先の感覚が無くなってくる。
体の内側、心の水分が体の外へ抜けていくようで、掌がしっとりと濡れてきた。
「って、大丈夫か律子。相当参ってないか?」
へなへなと机の上に崩れ落ちる私に、プロデューサーが歩み寄ってくる。
「大丈夫なわけないでしょう…どれだけ緊張してると思ってるんですか」
「うーん」
プロデューサーが唸った。よく見るその表情からだいたいどんな事を考えているかは伺える。
私が仕事に乗り気じゃなくて文句を垂れた時や、嫌な顔をした時や怒った時に見せる、ちょっと苦い顔。
困っているのを隠そうとして隠せていないその表情は、プロデューサーが魔法を使う時の顔なのだ。
イライラしていても、気分が沈んでいても、怖気づいていても、魔法がかかれば気が軽くなる。
まだ何も言っていない上に、苦い表情をしているのに、それだけで私の緊張がほんの僅かに薄らいだのを感じる。
「まあ、前回の武道館よりも更に観客数が多いからな。緊張するのも無理は無いが、その分ライブは楽しくなると思うぞ」
「どうして楽しくなるって思うんですか?その観客数に圧倒されてるんですけど、こっちは…」
つい反射的に口調がきつくなる。こんなトゲのある言い方はしたくないと思っていても、私の言葉は万事この調子だ。
本当はプロデューサーからの言葉を求めているのに。可愛さを数値で表すとしたら、100点中せいぜい10点だ。
「武道館の時を思い出してみろって。あの時も上手く行っただろ?今回もやれるさ」
彼が細長い人差し指を立ててクルクル回す。来た。見えないステッキを振って、聞こえないように呪文を唱え始めている。
今回も上手く行くとは限らないじゃないですか、とまだ魔法のかからない私が口答えをすると、更にプロデューサーは頭を捻
った。
「いいか律子、今日のドームには10万人の『ファン』が集まっている。ファンが集まっているっていうことはな、大好きな
律子を見たい一心で来ているんだ。いつもテレビの中でしか見られない律子の喋り、歌い、踊る姿が生で見られる夢の様な機
会だ。前回のライブの時の律子、楽しそうな顔で演っていたのを俺は覚えてるぞ。想像してみろ。あの時の倍の盛り上がりだ」
熱っぽい口調でまくし立てるようにプロデューサーは語る。その熱に当てられたか、手足の感覚が戻ってきた。
早速効き目が現れてきたように感じたが、まだ体の違和感は全く抜けておらず、プレッシャーに私は縮こまったままだ。
「もうハッタリが通じるレベルなんてとっくに通り過ぎてる。それでもこれだけのファンが集まるのは、律子の素の魅力なん
だ。
お前の実力はファンの数が証明してくれている。自信を持っていい」
「でも……やっぱり……怖いです」
真剣な表情で励ましてくれているプロデューサーの気持ちはよく理解できるし、言っている事にも説得力がある。
しかし、それでも奮起しきれない私の心から本音が漏れた。
怖い、そう、怖い。メッキがはがれてしまう事が怖い。
「怖いか」
卑屈なほどにビビりきった私の肩に、プロデューサーの手が置かれた。
剥き出しになって冷えた肌に、私より少し高い体温が降り立ち、じんわりと熱を広げていく。
彼の双眸が真っ直ぐに私を見つめる。吸い込まれそうな黒い瞳の奥に私の顔が映っているのが見える。
肩を抱いて何をするつもりなんだろう、キスされるのかも。脇の下と拳に力が入る。
「ライブをするのは律子一人じゃない。俺も袖にいるから」
熱い、というよりは温かい口調。肩に置かれた両手と10本の指先から伝わった熱が全身に行き渡っていく。
干乾びた土が水を吸って滑らかになっていくように、体内が潤ってきた。
ああ、これだ、この感覚だ。ガチガチに固まっていた心と体がほぐれていくのが分かる。
「とにかく何かあったら俺がなんとかしてやるから、大丈夫だ」
「…うん」
何をどうするのかも分からないのに、体が重たかった重圧から一気に解放され、無条件に安心してしまう。
まさに魔法としか言いようが無い。
「よし、表情から硬さが抜けてきたな。いけそうか?」
私の様子を見て安心したのか、プロデューサーが口元を釣り上げて笑った。
蛍光灯を反射して僅かな光沢を放つその唇につい目が行き、ペットボトルの事を思い出して顔が熱くなり、
「い、いけるっ。やれそうな気がしてきましたよ」
思わずどもりながら頷く。同時に、肩から温かくて大きな手が立ち去っていく。
もう少し、と言いかけて、口から出る前にその言葉を喉の奥に押し込んだ。
「ふう、ホッとしたら喉が渇いたよ」
そう言いながら、プロデューサーがおもむろに机の上のペットボトルに手を伸ばした。
「あっ」
それは私の、と言おうとした時にはもう遅く、彼が美味しそうに喉を鳴らして飲み下していた。
指摘しなければいけないような気がするが、たっぷり残っていたとは言え飲みかけだというのが一目瞭然な量。
先ほど慌てて振り払った言葉が頭に浮かんで、また彼の唇に視線が吸い込まれてしまう。唇がムズムズした。
緊張に打ちのめされていた時よりも鼓動が高鳴って、聞こえてしまうかもしれないと反射的に胸を押さえた。
自分のイニシャルを象ったペンダントが手の甲に触れ、金属のやけにひんやりした温度が熱くなった皮膚をクールダウンさせて
くれた。
「あれ、俺、確かお茶を買ったような気がしたんだけど…間違えたかな」
残り4分の1ぐらいまで飲み干した所で彼は唇をボトルの口から離し、天然水の漢字が目立つラベルに視線を落とした。
「い、いえっ、間違ってない、と思いますよ」
思いますよとは何だ、と思いつつ、私は慌てて嘘をついた。
この場をどう取り繕おうか、と考えていると、セットしていた携帯電話のアラームが鳴った。
開演10分前。
「ん、もうちょっとで始まるな。そろそろステージに移動しようか」
「あ…はい」
いよいよ、という緊張感は一人で楽屋にいた時よりもだいぶ和らいでいた。
不安や恐怖よりも、今は期待感の方がやや勝っている。一歩を踏み出すと足の底から心地よさが上ってきた。
楽屋のドアを開けて体を外に出す直前、後ろを振り向くと、横になったミネラルウォーターがこっちを見ているような気がした。
「内緒にしといてよね」
こっそりと、前を歩くプロデューサーに聞こえないように呟いてから、私は唇を舐めた。
終わり
―後書き―
回し飲みって20歳過ぎる頃になると気にならなくなりますよね